第12話 画面の向こうの君と、初めて
「Nagi――だよね?」
「…………」
聞き慣れているはずの名前だった。
何百回も見た。
ゲームの画面で。
チャット欄で。
でも。
声に出して呼ばれたのは。
初めてだった。
しかも。
呼んだのは――。
「……黒瀬」
「…………」
「…………」
沈黙。
駅前。
土曜日。
午後一時。
人が行き交う中。
俺と黒瀬由香だけが。
その場に取り残されたみたいに動けなかった。
「…………」
何を言えばいい。
やっぱり黒瀬だった。
予想はしていた。
ほとんど確信していた。
数学。
テスト。
雨。
ゲーム。
いくつもの偶然が重なっていた。
だから。
心の準備はしていた――。
はずなのに。
「……マジか」
出てきた言葉は。
それだけだった。
「それ、私も」
黒瀬が小さく笑う。
「朝倉君だったんだ」
「…………」
「Nagi」
「やめて」
「え?」
「ここでそれ呼ばれるの恥ずかしい」
「あっ」
黒瀬が口元を押さえる。
「ご、ごめん」
「別に謝らなくていいけど」
「じゃあ朝倉君?」
「……そっちの方がいい」
「分かった」
また。
沈黙。
「…………」
「…………」
気まずい。
ものすごく。
ゲームなら。
『遅い』
『ごめん!』
『三分遅刻』
『細かい!』
くらい言える。
でも。
今。
目の前にいるのは。
クラスメイトの黒瀬由香。
学校でいつも人に囲まれている。
クラスで一番人気の女子。
その黒瀬が。
Yuu。
「…………」
頭が追いつかない。
「あの」
黒瀬が言う。
「何?」
「とりあえず……行く?」
「……うん」
俺たちは歩き始めた。
◇
駅前から。
目的の店まで十分ほど。
「…………」
「…………」
会話。
なし。
聞こえるのは。
街の音。
車。
信号。
人の声。
「…………」
何か話せ。
俺。
いつも話してるだろ。
相手はYuuだ。
昨日だって。
『明日逃げないでね』
『逃げない』
とか。
普通に話した。
なのに。
「…………暑いね」
黒瀬が言った。
「……暑い」
「今日三十度超えるらしいよ」
「そうなんだ」
「うん」
「…………」
「…………」
終わった。
天気の話。
三往復すらしなかった。
俺たちは。
毎日何をあんなに話していたんだ。
「……ふふっ」
「何?」
突然。
黒瀬が笑った。
「いや」
「何」
「私たち」
「うん」
「全然喋らないね」
「…………」
「毎日あんなに話してるのに」
「それ思ってた」
「やっぱり?」
「うん」
少しだけ。
空気が軽くなる。
「なんか変」
黒瀬が言う。
「朝倉君なのにNagiで」
「黒瀬なのにYuu」
「そう」
「…………」
「…………」
「数学滅びろ」
「え?」
黒瀬が止まる。
俺も止まる。
「…………」
言ってから。
少し後悔した。
でも。
黒瀬の顔が。
一気に赤くなった。
「ちょっと!」
「何」
「それ言わないで!」
「Yuuが言ってた」
「分かってる!」
「数学作った人誰、だっけ」
「やめて!」
「数列嫌い」
「朝倉君!」
黒瀬が俺の腕を軽く叩く。
「痛い」
「痛くしてない!」
「暴力」
「誰のせい!?」
「…………」
「…………」
目が合う。
そして。
二人同時に。
笑った。
「……なんだ」
俺は言う。
「何?」
「普通にYuuじゃん」
「…………」
黒瀬が。
一瞬だけ。
目を丸くした。
それから。
少し嬉しそうに笑った。
「朝倉君も」
「何」
「普通にNagiだよ」
「…………」
「言い方とか、そのまま」
「そう?」
「うん。思ったより」
「思ったより?」
「もっと無口かと思ってた」
「学校では無口だろ」
「でも今は喋ってる」
「…………」
「やっぱりNagi」
そう言って。
黒瀬が笑う。
今度は。
さっきほど。
その名前が恥ずかしくなかった。
◇
「ここ?」
「うん!」
ゲーミングデバイスを扱っている店。
店内に入る。
冷房。
「涼し……」
「生き返る」
「外暑すぎ」
「黒瀬」
「ん?」
「ヘッドセット見るんだろ」
「あ、そうだった」
「忘れてたの?」
「忘れてない!」
店内。
キーボード。
マウス。
ヘッドセット。
モニター。
ゲーミングチェア。
見慣れたメーカーの商品が並んでいる。
「あ!」
黒瀬が一気に表情を変える。
「これ!」
「何」
「新しいやつ!」
「ああ」
「この前言ってたやつ!」
「…………」
「覚えてない?」
「覚えてる」
「じゃあ反応薄すぎ!」
「いつも文字だから分からないだけ」
「そうなの?」
「多分」
黒瀬がヘッドセットを手に取る。
「これ欲しかったんだよね」
「重くない?」
「そう?」
「長時間やるなら首疲れそう」
「あー……」
「試着できるんじゃない?」
「ほんとだ」
黒瀬がヘッドセットをつける。
「どう?」
「…………」
「何?」
「いや」
ゲームショップで。
クラス一番の人気女子が。
真剣な顔でゲーミングヘッドセットをつけている。
違和感がすごい。
「笑った?」
「笑ってない」
「絶対笑った!」
「学校じゃ想像できない」
「それは……」
黒瀬がヘッドセットを外す。
「言わないでよ?」
「何を」
「私がゲーム好きなの」
「別にいいだろ」
「いいけど……」
少し声を落とす。
「なんか恥ずかしい」
「そう?」
「由香ってそういうのするんだ、って絶対言われるし」
「…………」
分からなくもない。
俺も。
バイトのことを知られるのは嫌だ。
理由は違うけど。
「言わない」
「…………」
「Yuuも秘密にしてくれたから」
黒瀬が俺を見る。
バイト。
俺が学校に隠していること。
それを知っているのは。
クラスでは。
黒瀬だけ。
「うん」
黒瀬が笑う。
「お互い秘密だね」
「そうだな」
「なんか」
「何?」
「共犯みたい」
「悪いことしてるみたいに言うな」
「あはは」
また。
笑う。
さっきまで。
天気の話すら続かなかったのに。
ゲームの話になると。
いくらでも話せた。
◇
「朝倉君」
「何」
「マウス見るんじゃなかった?」
「ああ」
マウスコーナーへ。
「今何使ってるの?」
「これの前のやつ」
「へえ」
「少し大きい」
「手小さい?」
「普通」
「見せて」
「え?」
「手」
「…………」
俺は手を出す。
黒瀬も。
自分の手を出す。
「私よりは大きい」
「当たり前だろ」
「じゃなくて、マウスに対して」
「ああ」
黒瀬が俺の手を見る。
「これくらいなら、このサイズ?」
「多分」
「持ってみたら?」
サンプルを握る。
「……悪くない」
「じゃあそれ買う?」
「まだ決めない」
「慎重!」
「毎日使うから」
「確かに」
黒瀬も隣のマウスを触る。
「これかわいい」
「性能見ろよ」
「見た目も大事!」
「光るだけじゃん」
「光るのがいいんじゃん!」
「ゲーム中見ないだろ」
「そういう問題じゃないの!」
「分からない」
「男の子ってそういうとこあるよね」
「主語でかい」
「出た」
「何」
「Nagiっぽい」
「…………」
また。
自然に出た名前。
でも。
今度は。
嫌じゃなかった。
◇
気づけば。
一時間以上経っていた。
「疲れた」
黒瀬が言う。
「休む?」
「何か飲みたい」
「じゃあどっか入る?」
「うん」
店を出る。
近くのカフェ。
「…………」
カフェ。
少しだけ。
嫌な予感。
「ここにする?」
黒瀬が指した店。
「いいよ」
俺のバイト先ではない。
安心した。
◇
「朝倉君、何飲む?」
「アイスコーヒー」
「高校生なのに?」
「高校生でも飲むだろ」
「苦くない?」
「普通」
「大人ぶってる?」
「帰るぞ」
「嘘嘘!」
黒瀬は。
いちご系のフローズンドリンク。
「甘そう」
「おいしいよ」
「カロリーすごそう」
「言わなくていいことあるよ?」
「ごめん」
「素直!」
向かい合って座る。
「…………」
店で買い物していたときとは違う。
真正面。
逃げ場がない。
「…………」
「…………」
また。
少しだけ気まずい。
「朝倉君」
「何」
「聞いていい?」
「内容による」
「Nagiって名前」
「ああ」
「なんで?」
「…………」
考えたこともなかった。
「適当」
「絶対嘘」
「本当」
「湊だから?」
「…………」
「みなと。海。波が凪ぐ。Nagi」
「…………」
「違う?」
「…………」
「当たった?」
「うるさい」
「当たったんだ!」
黒瀬が笑う。
「由香は?」
「え?」
「Yuu」
「あー」
「由香の由?」
「そう」
「そのままじゃん」
「Nagiに言われたくない!」
「…………」
同じだった。
「単純だな」
「お互いね」
「一緒にするな」
「同じじゃん」
また笑う。
「…………」
こうしていると。
少し不思議だった。
俺は。
女子とカフェにいる。
しかも。
黒瀬由香。
学校なら。
絶対にあり得ない組み合わせ。
「朝倉君」
「ん?」
「やっぱり意外」
「何が」
「こういう感じなんだって」
「どういう感じ」
「普通に話す」
「…………」
「学校だと全然喋らないから」
「相手いないし」
「でも橘君とか藤堂君とは最近話してるじゃん」
「最近は」
「琴葉とも」
「たまに」
「莉央とも」
「水瀬は勝手に話しかけてくる」
「あはは。莉央っぽい」
黒瀬がストローを回す。
「よかったね」
「何が」
「友達」
「…………」
「増えたじゃん」
俺は。
少し考える。
「まだ分からない」
「えー」
「俺の中で友達の基準重いらしいから」
「前も言ってたね」
「でも」
俺は。
黒瀬を見る。
「Yuuは」
「…………」
黒瀬の手が止まる。
「友達だと思ってる」
「…………」
しまった。
真正面から言うと。
めちゃくちゃ恥ずかしい。
「……今のなし」
「ダメ」
「何で」
「聞いたから」
「忘れて」
「絶対忘れない」
「最悪」
黒瀬が。
笑っている。
でも。
いつもの明るい笑い方とは。
少し違った。
「私も」
「…………」
「Nagiのこと」
一瞬。
目が合う。
「ちゃんと友達だと思ってるよ」
「…………」
「ゲームだけじゃなくて」
胸の奥が。
少しだけ。
温かくなる。
「……そっか」
「うん」
それだけ。
それだけなのに。
なぜか。
嬉しかった。
◇
「そういえば」
黒瀬が言う。
「何?」
「私、いつ気づいたと思う?」
「何に」
「Nagiが朝倉君だって」
「…………」
気になっていた。
「いつ?」
「雨の日」
「え」
「一緒に帰った日」
「…………」
「ほぼ確信した」
「なんで」
「だって」
黒瀬が笑う。
「Nagiが『クラスの女子と相合傘した』って言ったから」
「…………」
「あ」
「しかも私もその日、Nagiに『傘忘れた』って言ってたし」
「…………」
「もう無理でしょ」
「じゃあ」
俺は黒瀬を見る。
「あのとき」
『へえ』
『そっか』
妙に返信が遅かった。
「知ってたの?」
「……うん」
「…………」
「ほぼ」
「じゃあ何で言わなかった」
「朝倉君だって気づいてたでしょ?」
「確信はなかった」
「私も」
「八十四点」
「え?」
「数学」
「あ」
「同じ点だった」
「…………」
黒瀬が。
ゆっくり顔を伏せる。
「……そこまで一緒だったんだ」
「うん」
「恥ずかし」
「何で」
「だって私、学校でもネットでも朝倉君に数学教えてもらってたってことでしょ?」
「そうなるな」
「うわぁ……」
両手で顔を覆う。
「同じ問題二回説明した気がする」
「言わないで!」
「だから見たことあると思ったのか」
「最悪!」
「効率悪い」
「朝倉君!」
また。
笑った。
◇
夕方。
駅へ戻る。
最初とは。
全然違った。
「結局ヘッドセット買わなかったな」
「迷うんだもん」
「二時間見てた」
「朝倉君もマウス買ってないじゃん」
「俺は比較してた」
「私も比較!」
「見た目しか見てなかった」
「見てた!」
「光るかどうか」
「大事!」
「…………」
「何その顔!」
「別に」
「絶対バカにしてる!」
会話が。
続く。
普通に。
Yuuとチャットしているときみたいに。
いや。
少し違う。
表情が見える。
笑っている。
怒ったふりをしている。
考えている。
文字だけでは分からなかったものが。
全部。
目の前にある。
「…………」
「何?」
黒瀬が俺を見る。
「いや」
「また見てた」
「見てない」
「今日それ多くない?」
「気のせい」
「絶対見てる」
「…………」
否定できない。
だって。
まだ。
不思議なのだ。
Yuuが。
目の前を歩いていることが。
◇
駅。
「じゃあ」
改札前。
「ここで」
「うん」
黒瀬が立ち止まる。
「今日はありがと」
「こっちこそ」
「楽しかった?」
「…………」
「何その間!」
「楽しかった」
「ほんと?」
「うん」
俺は。
今度は。
ちゃんと言う。
「思ってたより」
「余計!」
「黒瀬は?」
「楽しかったよ」
即答。
「…………」
「何?」
「いや」
「また行こうね」
「…………」
また。
その言葉。
陽斗にも。
玲司にも。
言われた。
最初は。
その“また”が。
俺には不思議だった。
一回だけじゃない。
次がある。
次も。
誘ってもらえる。
「うん」
だから。
今度は。
すぐ答えた。
「また行こう」
黒瀬が。
少し驚く。
そして。
笑った。
「うん!」
◇
「あ」
改札へ向かおうとした黒瀬が。
振り返る。
「朝倉君」
「何?」
「学校では」
少しだけ。
声が小さくなる。
「今まで通りにする?」
「…………」
俺は。
考える。
学校。
黒瀬は。
クラスの中心。
俺は。
最近少し話す相手が増えたとはいえ。
まだ。
基本的には静かな奴。
今日みたいに。
二人でずっと話していたら。
確実に。
何か言われる。
「……そうだな」
「だよね」
「ゲームのことも」
「秘密?」
「うん」
「分かった」
黒瀬が小さく笑う。
「じゃあ」
人差し指を口元に立てる。
「学校では秘密ね」
「…………」
「私たちがこんなに仲いいこと」
その言葉に。
少しだけ。
胸が跳ねた。
「……仲いい?」
「え?」
「いや」
「そこ疑う!?」
「冗談」
「朝倉君!」
笑う。
「じゃあね」
「うん」
「またゲームで」
「…………」
俺も。
少し笑う。
「またゲームで」
黒瀬は改札を通っていった。
◇
帰宅。
午後七時。
「ただいま」
「おかえり」
母さん。
「どうだった?」
「何が」
「友達と遊んだんでしょ?」
「……まあ」
「楽しかった?」
「…………」
今日。
何度目だ。
その質問。
「楽しかった」
「そっか」
母さんが。
それ以上何も聞かず。
少しだけ笑った。
◇
午後九時。
ゲームを起動する。
フレンド欄。
Yuu。
オンライン。
「…………」
今日。
何時間も一緒にいたのに。
いつものように。
招待が届く。
パーティーに入る。
『こんばんは!』
「…………」
笑った。
『さっきまで一緒にいただろ』
『ゲームではこんばんはです』
『何それ』
『ルール』
『知らない』
『今日楽しかったね』
『さっき言った』
『何回言ってもいいじゃん』
「…………」
『そうだな』
送る。
そして。
マッチング。
ゲームが始まる。
俺が右へ。
Yuuが左。
俺が前へ。
Yuuが後ろからカバー。
何も変わらない。
正体を知ったら。
何かが壊れると思っていた。
今までみたいに。
話せなくなると思っていた。
でも。
違った。
Yuuの正体が黒瀬由香でも。
黒瀬由香の正体がYuuでも。
こいつは。
こいつだった。
ただ。
一つだけ。
変わったことがある。
俺は。
Yuuが笑う顔を。
知っている。
怒ったふりをする顔も。
ゲーム用品を見て目を輝かせる顔も。
少し照れたとき。
目を逸らすことも。
知っている。
『Nagi!』
画面。
敵。
「分かってる」
俺は援護に入る。
最後の一人。
Yuuが撃つ。
俺が詰める。
そして。
WINNER
『やった!』
「…………」
その文字を見た瞬間。
今日。
店の中で。
「やった!」
と笑った黒瀬の顔が浮かんだ。
「…………」
『Nagi?』
『何』
『ぼーっとしてない?』
『してない』
『ほんと?』
『次行くぞ』
『はーい!』
次の試合。
マッチング開始。
俺は。
まだ知らなかった。
この日から。
学校ではほとんど話さない。
でも。
放課後は誰より話す。
そんな。
俺と黒瀬の――。
誰にも言えない高校生活が始まることを。




