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離婚を前提に結婚してください!  作者: 春野清花


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8/17

第七話:婚約者のお務め

 婚約者になったからといって、日常が大きく変わるわけではない。


 少なくとも。


 マリアネラは、そう思っていた。



 ◇◇◇



 実際には。


 それなりに変わった。


 まず、社交の場へ出る機会が増えた。


 元々、ヴァレンティン男爵家は建国当初から続く騎士の名門である。


 爵位こそ男爵家ではあるものの、王家や高位貴族との付き合いも長い。


 マリアネラ自身もデビュタントを終えた以上、社交から無縁だったわけではなかった。


 だが。


 リュミエール公爵家嫡男の婚約者。


 その肩書きがついてからは、明らかに招待状の数が増えた。


 これまでなら両親宛てだったものに、マリアネラ個人の名が記される。


 茶会。


 晩餐会。


 夜会。


 そして。


 リュミエール公爵家との打ち合わせ。


「…………」


 マリアネラは、自室の机の上に置かれた一通の手紙を見つめていた。


 差出人は。


 フェルナンド・フォン・リュミエール。


 婚約してから、これで三通目である。


 封を開く。


 中には、整った文字が並んでいた。



『次回のリュミエール公爵家へのご訪問につきまして、三日後の午後二時にお越しいただければと思います。


 馬車はこちらから手配いたします。


 当日は、今後の予定について母から説明があるとのことです。


 よろしくお願いいたします。


 フェルナンド・フォン・リュミエール』



「…………」


 読み終える。


 もう一度読む。


「……手紙というより、連絡事項ね」


 間違ってはいない。


 必要なことは、全て書かれている。


 日時。


 場所。


 移動手段。


 用件。


 何一つ不足していない。


 むしろ、非常に分かりやすい。


 ただ。


「…………」


 婚約者から届いた手紙というものは。


 もう少し。


 何か。


「……何を期待しているのよ、私は」


 マリアネラは手紙を畳んだ。


 そもそも。


 これは恋愛感情を必要としない婚約である。


 ならば。


 これで正しい。


 非常に正しい。


 正しすぎるほどに。



 ◇◇◇



 三日後。


 マリアネラは、リュミエール公爵邸を訪れていた。


「いらっしゃい、マリアネラ」


 迎えたのは、リュミエール公爵夫人。


 ベアトリス・フォン・リュミエールだった。


「本日はお招きいただき、ありがとうございます」


「そんなに畏まらなくてもいいのよ。これから何度も来てもらうことになるのだから」


「……はい」


 その言葉に。


 マリアネラは少しだけ姿勢を正した。


 婚約から、およそ一年後。


 十七歳になれば。


 自分は、この屋敷へ嫁いでくる。


 まだ先のことだと思っていた。


 けれど。


 こうして改めて言葉にされると。


 急に現実味を帯びる。


「まずは、こちらへ」


 案内された部屋には。


 既にフェルナンドと、その父。


 リュミエール公爵ロドリゴ・フォン・リュミエールがいた。


「こんにちは、マリアネラ嬢」


「こんにちは、フェルナンド様」


「よく来てくれたね」


「お招きいただき、ありがとうございます。公爵閣下」


 ロドリゴへ一礼する。


「今日はそれほど堅苦しい話ではない。今後、君がこの家へ入るにあたって必要になることを、少しずつ知ってもらおうと思ってね」


「はい」


「一度に全て覚える必要はないわ」


 ベアトリスが微笑む。


「結婚まではまだ一年あるもの。まずは、この家がどのように動いているのか。それを知ってもらえれば十分よ」


「分かりました」


 説明は。


 思っていたよりも具体的だった。


 リュミエール公爵家が管理する領地。


 そこから上がる税収。


 王都にある公爵邸と領地の本邸。


 使用人たちの役割。


 公爵家として関係を持つ家々。


 慈善事業。


 社交。


 王家との付き合い。


 当然ながら。


 男爵家であるヴァレンティン家とは、規模が違う。


 だが。


「こちらが昨年度の収支の概要よ」


「はい」


 マリアネラは書類へ目を通した。


「領地ごとに管理を分けているのですね」


「ええ」


「最終的な確認は、公爵家で?」


「そうよ」


「では、こちらの支出は……」


 ベアトリスが少し目を瞬く。


 マリアネラは気づかず、資料を読み進めた。


「マリアネラ」


「はい?」


「こういったものには慣れているの?」


「あ……はい。ある程度は」


「そうなの?」


「兄が騎士として生きることを選んでおりますので、私がヴァレンティン家を継ぐ可能性もございましたから」


 元々。


 エルネストが家督を継ぐ予定だった。


 だが兄は、騎士としてフェルナンドに仕える道を選んだ。


 そのため。


 マリアネラもまた、将来ヴァレンティン家を背負う可能性を考え、必要なことを学んできた。


 父から教わったものもある。


 自分で書物を読み、覚えたものもある。


「公爵家とは規模が違いますので、分からないことも多いですけれど」


「十分よ」


 ベアトリスは笑った。


「むしろ、こちらが驚いたくらいだわ」


「そうでしょうか」


「ええ」


「ですから、問題ないと申し上げたでしょう」


 フェルナンドが口を挟んだ。


 マリアネラが彼を見る。


「……あなた、いつ私の能力を確認したの?」


「契約内容についての質問が的確でしたので」


「それだけ?」


「それだけでも、ある程度は分かります」


「…………」


 ベアトリスが。


 息子を見る。


 次に。


 マリアネラを見る。


「……何です?」


 フェルナンドが尋ねた。


「いいえ?」


「そうですか」


「ええ」


 何故か。


 ベアトリスは楽しそうだった。



 ◇◇◇



 説明が一段落した後。


 ベアトリスは、マリアネラを屋敷の中へ案内した。


 何度か訪れてはいるものの。


 これまで通されたのは客間や応接室。


 庭。


 その程度である。


「こちらが大食堂。その向こうが小食堂よ」


「二つあるのですね」


「普段、家族だけならこちらを使うことが多いわ」


 さらに進む。


「図書室は自由に使ってちょうだい」


「まあ……」


 思わず。


 マリアネラの足が止まった。


 壁一面に並ぶ書物。


 高い天井まで届く本棚。


「気になる?」


「……少し」


「好きなだけ読んでいいわよ」


「本当ですか?」


「もちろん」


 ベアトリスが笑う。


 その後も。


 屋敷の中を歩いていく。


 そして。


 二階の一角。


 ベアトリスが、一つの扉の前で立ち止まった。


「こちらが、結婚後にあなたが使う予定のお部屋よ」


「…………」


 扉が開かれる。


 まだ主を迎える準備は始まっていない。


 それでも。


 広さ。


 窓から見える庭。


 隣接する衣装部屋。


 全てが。


 ここが公爵家の人間のための部屋なのだと物語っていた。


「内装は、あなたの好みに合わせて変えて構わないわ」


「私の?」


「あなたのお部屋になるのだもの」


「…………」


 自分の部屋。


 ここが。


 一年後には。


「それから」


 ベアトリスが隣の扉を示した。


「こちらがフェルナンドの部屋よ」


「…………」


 一瞬。


 思考が止まった。


「……隣?」


「ええ」


「…………」


「どうかした?」


「いいえ」


 何でもない。


 当然だ。


 結婚するのだから。


 夫婦になるのだから。


 しかも。


 二人が結婚する目的は。


「…………」


 子ども。


 それも。


 二つの家を継ぐ子を、それぞれ一人。


「マリアネラ?」


「何でもありません!」


 少し。


 声が大きくなった。


「そう?」


「はい」


 ベアトリスは不思議そうに首を傾げる。


 それ以上は何も言わなかった。


 マリアネラは。


 自分の頬が少し熱くなっていることに気づき。


(何を考えているのよ……!)


 心の中で。


 自分自身を叱った。



 ◇◇◇



 屋敷の案内を終えると。


 ベアトリスは、マリアネラを庭へ連れていった。


 そこには既に。


 フェルナンドが待っていた。


 テーブルには茶と菓子が用意されている。


「では」


 ベアトリスが言った。


「私は少し用事があるから」


「母上?」


「何?」


「先ほどまで、そのような予定はなかったように思いますが」


「今できたのよ」


「…………」


「では、ごゆっくり」


 そう言い残し。


 ベアトリスは去っていった。


「…………」


「…………」


 二人。


 残された。


「……今、できたそうね」


「そのようですね」


「止めないの?」


「止める理由がありますか?」


「ないけれど」


「では、いいでしょう」


「…………」


 相変わらずである。


 二人は向かい合って座った。


 フェルナンドが茶を口にする。


「先日の夜会では、ありがとうございました」


「……それ、もう聞いたわ」


「そうでしたか?」


「聞いたわよ」


「ですが、助かったことに変わりはありませんので」


「お礼って、何度も言うものなの?」


「言って減るものでもないでしょう」


「……そういう問題かしら」


「違いますか?」


「…………」


 マリアネラも茶を飲む。


 少しして。


「ところで」


 フェルナンドが言った。


「何?」


「あの時」


「どの時?」


「私が令嬢方に囲まれていた時です」


「ああ」


「何故、分かったのです?」


「…………」


 またそれか。


「だから、分からないって言っているでしょう」


「ですが、私は顔にも態度にも出していなかったつもりです」


「出てなかったわよ」


「では、何故?」


「知らないわよ」


「…………」


「何となく」


「何となく?」


「そうよ」


 フェルナンドは黙った。


 アメジストの瞳が。


 じっとマリアネラを見る。


「……何?」


「いえ」


「何よ」


「珍しいと思いまして」


「何が?」


「エルネストでも、私が何も言わなければ気づかないことがあります」


「…………」


 マリアネラは瞬いた。


「兄様でも?」


「ええ」


「……そう」


 何故。


 自分には分かったのだろう。


 考えてみても。


 やはり答えは出なかった。


「本当に、何となくよ」


「そうですか」


「そうよ」


「では、そういうことにしておきましょう」


「……その言い方、前にも聞いた気がするわ」


「そうでしたか?」


「もういいわ」


 フェルナンドは小さく首を傾げた。


 少しして。


「次の夜会ですが」


「ええ」


「私がお迎えに上がります」


「…………」


「何か?」


「毎回?」


「はい」


「あなたが?」


「私以外に誰がいるのです?」


「そうじゃなくて」


 マリアネラは少し考える。


「毎回、迎えに来る必要があるの?」


「当然でしょう」


「何故?」


「婚約者ですから」


「…………」


 また。


 その言葉だ。


「あなた」


「はい」


「婚約者という言葉を、便利に使っていない?」


「便利なのではなく、事実ですが」


「…………」


「違いますか?」


「違わないけれど」


「では、問題ありませんね」


「…………」


 何となく。


 言い負かされた気がする。


 腹立たしい。


「本当に、可愛げがないわね」


「何か仰いましたか?」


「何も」


「そうですか」


「ええ」


 その日の茶会は。


 それ以上。


 特別なことは何もなく終わった。


 ただ。


 以前より少しだけ。


 二人でいることに慣れた。


 その程度だった。



 ◇◇◇



 それから。


 さらに数週間が過ぎた。


 マリアネラが社交の場へ出るたび。


 似たようなことが続いた。


 露骨なものではない。


 少なくとも。


 最初は。


「公爵夫人ともなれば、大変でしょうね」


「男爵家とは、随分勝手も違うでしょうし」


「フェルナンド様ほどの方の隣に立つのですもの。苦労も多いでしょうね」


 笑顔。


 柔らかな声。


 一つ一つを取り上げれば。


 ただの会話とも取れる。


 けれど。


 そこに含まれる意味を。


 マリアネラが理解できないほど鈍くはなかった。


 アレハンドラ。


 ビクトリア。


 そして。


 ルシア。


 三人と顔を合わせるたび。


 似たような言葉を投げかけられる。


 マリアネラは。


 それをフェルナンドには言わなかった。


 言うほどのことでもない。


 自分で返せる。


 家族にも。


 言っていない。


 特に。


 エルネストには。


 絶対に。


 言わない。


 面倒になる。


 それだけは。


 確信していた。



 ◇◇◇



 その日。


 マリアネラは、ある伯爵家の茶会へ招かれていた。


 午後の庭園。


 白いテーブル。


 色とりどりの菓子。


 招待客の多くは、若い令嬢たちだった。


「マリアネラ様」


 聞き慣れつつある声に。


 マリアネラは振り返った。


「アレハンドラ様」


 その隣には。


 ビクトリア。


 そしてルシア。


「ごきげんよう」


「ごきげんよう」


 挨拶を交わす。


 少し離れた場所には。


 イルムヒルデの姿もあった。


 アレハンドラが。


 マリアネラの隣へ立つ。


「今日はフェルナンド様とはご一緒ではありませんのね」


「令嬢中心のお茶会ですもの」


「まあ、そうですけれど」


「何か?」


「いいえ」


 笑う。


「ただ」


 アレハンドラは扇を開いた。


「フェルナンド様ほどの方ですもの。婚約なさったからといって、あの方を望む令嬢はいくらでもおりますでしょう?」


「そうでしょうね」


「…………」


 即答したマリアネラに。


 アレハンドラが少し眉を動かす。


「……気になりませんの?」


「何故?」


「何故って」


「フェルナンド様がお綺麗なのは知っているわ」


「でしたら」


「家柄も申し分ないのでしょうね」


「ええ」


「なら、人気があるのも当然でしょう?」


「…………」


 アレハンドラの笑顔が固くなる。


「随分と余裕でいらっしゃるのね」


「余裕?」


「他の令嬢に、フェルナンド様のお心が移るかもしれませんのよ?」


「…………」


 マリアネラは少し考えた。


 そして。


 本当に分からなかったので。


「何故?」


 もう一度。


 尋ねた。


「ですから……!」


「フェルナンド様が婚約なさったのは、私でしょう?」


「…………」


 沈黙。


 ビクトリアが目を瞬く。


 ルシアも。


 言葉を失った。


 マリアネラは。


 本当に事実を言っただけだった。


 婚約しているのは自分。


 なら。


 他の令嬢がフェルナンドを望んでいることと。


 自分たちの婚約に。


 何の関係があるのか。


 分からない。


「それに」


 マリアネラは続ける。


「フェルナンド様が婚約を解消したいと仰るなら、その時はご本人と話すことですわ。今ここで考えても仕方がないでしょう?」


「…………」


 契約なのだから。


 変更には。


 双方の合意が必要である。


 その事実を。


 アレハンドラは知らない。


「……随分、自信がおありなのね」


「そういう話ではないと思うけれど」


「…………」


「アレハンドラ様」


 ルシアが。


 小さく声をかけた。


「何?」


「……いいえ」


 続かなかった。


 言おうとして。


 やめた。


 何を言えばいいのか。


 自分でも分からなかった。


 ただ。


 以前ほど。


 この会話を楽しめなくなっていた。


「ルシア?」


 ビクトリアが不思議そうに見る。


「何でもありませんわ」


 ルシアは微笑んだ。


 その笑顔が。


 少しだけ。


 ぎこちなかった。



 ◇◇◇



 しばらくして。


 アレハンドラたちは、その場を離れた。


 マリアネラも別の場所へ移ろうとする。


 その時。


 アレハンドラが。


 すれ違った。


 肩が。


 ぶつかる。


「……っ」


 それほど強くはない。


 転ぶほどでも。


 怪我をするほどでもない。


 けれど。


 偶然ではない。


 それくらいは。


 分かった。


「失礼」


 アレハンドラが言う。


「…………」


 マリアネラは彼女を見る。


 少しだけ。


 間を置いて。


「……ええ」


 それだけ答えた。


 アレハンドラは去っていく。


 ビクトリアが。


 一瞬だけ振り返った。


 ルシアは。


 立ち止まっていた。


「ルシア?」


 ビクトリアに呼ばれ。


「……今、行きますわ」


 答える。


 だが。


 足を動かす前に。


 もう一度。


 マリアネラを見た。


 少し離れた場所では。


 イルムヒルデも。


 こちらを見ていた。


 銀色の瞳が。


 静かに。


 アレハンドラの背中を追っている。


「…………」


 ルシアは。


 自分の胸元へ手を置いた。


 最初は。


 ただ、面白くなかった。


 フェルナンドが婚約したことが。


 その相手が。


 自分ではなかったことが。


 だから。


 アレハンドラたちと一緒に。


 嫌味を言った。


 マリアネラが困ればいいと。


 少しくらいは。


 思っていた。


 けれど。


 今のは。


「…………」


 違う。


 言葉にすることは。


 まだ。


 できなかった。


 止めることも。


 できなかった。


 それでも。


 胸の奥に生まれた感覚だけは。


 もう。


 誤魔化せなかった。


(……今のは、違う)


 ルシアは。


 唇を噛んだ。

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