第七話:婚約者のお務め
婚約者になったからといって、日常が大きく変わるわけではない。
少なくとも。
マリアネラは、そう思っていた。
◇◇◇
実際には。
それなりに変わった。
まず、社交の場へ出る機会が増えた。
元々、ヴァレンティン男爵家は建国当初から続く騎士の名門である。
爵位こそ男爵家ではあるものの、王家や高位貴族との付き合いも長い。
マリアネラ自身もデビュタントを終えた以上、社交から無縁だったわけではなかった。
だが。
リュミエール公爵家嫡男の婚約者。
その肩書きがついてからは、明らかに招待状の数が増えた。
これまでなら両親宛てだったものに、マリアネラ個人の名が記される。
茶会。
晩餐会。
夜会。
そして。
リュミエール公爵家との打ち合わせ。
「…………」
マリアネラは、自室の机の上に置かれた一通の手紙を見つめていた。
差出人は。
フェルナンド・フォン・リュミエール。
婚約してから、これで三通目である。
封を開く。
中には、整った文字が並んでいた。
『次回のリュミエール公爵家へのご訪問につきまして、三日後の午後二時にお越しいただければと思います。
馬車はこちらから手配いたします。
当日は、今後の予定について母から説明があるとのことです。
よろしくお願いいたします。
フェルナンド・フォン・リュミエール』
「…………」
読み終える。
もう一度読む。
「……手紙というより、連絡事項ね」
間違ってはいない。
必要なことは、全て書かれている。
日時。
場所。
移動手段。
用件。
何一つ不足していない。
むしろ、非常に分かりやすい。
ただ。
「…………」
婚約者から届いた手紙というものは。
もう少し。
何か。
「……何を期待しているのよ、私は」
マリアネラは手紙を畳んだ。
そもそも。
これは恋愛感情を必要としない婚約である。
ならば。
これで正しい。
非常に正しい。
正しすぎるほどに。
◇◇◇
三日後。
マリアネラは、リュミエール公爵邸を訪れていた。
「いらっしゃい、マリアネラ」
迎えたのは、リュミエール公爵夫人。
ベアトリス・フォン・リュミエールだった。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「そんなに畏まらなくてもいいのよ。これから何度も来てもらうことになるのだから」
「……はい」
その言葉に。
マリアネラは少しだけ姿勢を正した。
婚約から、およそ一年後。
十七歳になれば。
自分は、この屋敷へ嫁いでくる。
まだ先のことだと思っていた。
けれど。
こうして改めて言葉にされると。
急に現実味を帯びる。
「まずは、こちらへ」
案内された部屋には。
既にフェルナンドと、その父。
リュミエール公爵ロドリゴ・フォン・リュミエールがいた。
「こんにちは、マリアネラ嬢」
「こんにちは、フェルナンド様」
「よく来てくれたね」
「お招きいただき、ありがとうございます。公爵閣下」
ロドリゴへ一礼する。
「今日はそれほど堅苦しい話ではない。今後、君がこの家へ入るにあたって必要になることを、少しずつ知ってもらおうと思ってね」
「はい」
「一度に全て覚える必要はないわ」
ベアトリスが微笑む。
「結婚まではまだ一年あるもの。まずは、この家がどのように動いているのか。それを知ってもらえれば十分よ」
「分かりました」
説明は。
思っていたよりも具体的だった。
リュミエール公爵家が管理する領地。
そこから上がる税収。
王都にある公爵邸と領地の本邸。
使用人たちの役割。
公爵家として関係を持つ家々。
慈善事業。
社交。
王家との付き合い。
当然ながら。
男爵家であるヴァレンティン家とは、規模が違う。
だが。
「こちらが昨年度の収支の概要よ」
「はい」
マリアネラは書類へ目を通した。
「領地ごとに管理を分けているのですね」
「ええ」
「最終的な確認は、公爵家で?」
「そうよ」
「では、こちらの支出は……」
ベアトリスが少し目を瞬く。
マリアネラは気づかず、資料を読み進めた。
「マリアネラ」
「はい?」
「こういったものには慣れているの?」
「あ……はい。ある程度は」
「そうなの?」
「兄が騎士として生きることを選んでおりますので、私がヴァレンティン家を継ぐ可能性もございましたから」
元々。
エルネストが家督を継ぐ予定だった。
だが兄は、騎士としてフェルナンドに仕える道を選んだ。
そのため。
マリアネラもまた、将来ヴァレンティン家を背負う可能性を考え、必要なことを学んできた。
父から教わったものもある。
自分で書物を読み、覚えたものもある。
「公爵家とは規模が違いますので、分からないことも多いですけれど」
「十分よ」
ベアトリスは笑った。
「むしろ、こちらが驚いたくらいだわ」
「そうでしょうか」
「ええ」
「ですから、問題ないと申し上げたでしょう」
フェルナンドが口を挟んだ。
マリアネラが彼を見る。
「……あなた、いつ私の能力を確認したの?」
「契約内容についての質問が的確でしたので」
「それだけ?」
「それだけでも、ある程度は分かります」
「…………」
ベアトリスが。
息子を見る。
次に。
マリアネラを見る。
「……何です?」
フェルナンドが尋ねた。
「いいえ?」
「そうですか」
「ええ」
何故か。
ベアトリスは楽しそうだった。
◇◇◇
説明が一段落した後。
ベアトリスは、マリアネラを屋敷の中へ案内した。
何度か訪れてはいるものの。
これまで通されたのは客間や応接室。
庭。
その程度である。
「こちらが大食堂。その向こうが小食堂よ」
「二つあるのですね」
「普段、家族だけならこちらを使うことが多いわ」
さらに進む。
「図書室は自由に使ってちょうだい」
「まあ……」
思わず。
マリアネラの足が止まった。
壁一面に並ぶ書物。
高い天井まで届く本棚。
「気になる?」
「……少し」
「好きなだけ読んでいいわよ」
「本当ですか?」
「もちろん」
ベアトリスが笑う。
その後も。
屋敷の中を歩いていく。
そして。
二階の一角。
ベアトリスが、一つの扉の前で立ち止まった。
「こちらが、結婚後にあなたが使う予定のお部屋よ」
「…………」
扉が開かれる。
まだ主を迎える準備は始まっていない。
それでも。
広さ。
窓から見える庭。
隣接する衣装部屋。
全てが。
ここが公爵家の人間のための部屋なのだと物語っていた。
「内装は、あなたの好みに合わせて変えて構わないわ」
「私の?」
「あなたのお部屋になるのだもの」
「…………」
自分の部屋。
ここが。
一年後には。
「それから」
ベアトリスが隣の扉を示した。
「こちらがフェルナンドの部屋よ」
「…………」
一瞬。
思考が止まった。
「……隣?」
「ええ」
「…………」
「どうかした?」
「いいえ」
何でもない。
当然だ。
結婚するのだから。
夫婦になるのだから。
しかも。
二人が結婚する目的は。
「…………」
子ども。
それも。
二つの家を継ぐ子を、それぞれ一人。
「マリアネラ?」
「何でもありません!」
少し。
声が大きくなった。
「そう?」
「はい」
ベアトリスは不思議そうに首を傾げる。
それ以上は何も言わなかった。
マリアネラは。
自分の頬が少し熱くなっていることに気づき。
(何を考えているのよ……!)
心の中で。
自分自身を叱った。
◇◇◇
屋敷の案内を終えると。
ベアトリスは、マリアネラを庭へ連れていった。
そこには既に。
フェルナンドが待っていた。
テーブルには茶と菓子が用意されている。
「では」
ベアトリスが言った。
「私は少し用事があるから」
「母上?」
「何?」
「先ほどまで、そのような予定はなかったように思いますが」
「今できたのよ」
「…………」
「では、ごゆっくり」
そう言い残し。
ベアトリスは去っていった。
「…………」
「…………」
二人。
残された。
「……今、できたそうね」
「そのようですね」
「止めないの?」
「止める理由がありますか?」
「ないけれど」
「では、いいでしょう」
「…………」
相変わらずである。
二人は向かい合って座った。
フェルナンドが茶を口にする。
「先日の夜会では、ありがとうございました」
「……それ、もう聞いたわ」
「そうでしたか?」
「聞いたわよ」
「ですが、助かったことに変わりはありませんので」
「お礼って、何度も言うものなの?」
「言って減るものでもないでしょう」
「……そういう問題かしら」
「違いますか?」
「…………」
マリアネラも茶を飲む。
少しして。
「ところで」
フェルナンドが言った。
「何?」
「あの時」
「どの時?」
「私が令嬢方に囲まれていた時です」
「ああ」
「何故、分かったのです?」
「…………」
またそれか。
「だから、分からないって言っているでしょう」
「ですが、私は顔にも態度にも出していなかったつもりです」
「出てなかったわよ」
「では、何故?」
「知らないわよ」
「…………」
「何となく」
「何となく?」
「そうよ」
フェルナンドは黙った。
アメジストの瞳が。
じっとマリアネラを見る。
「……何?」
「いえ」
「何よ」
「珍しいと思いまして」
「何が?」
「エルネストでも、私が何も言わなければ気づかないことがあります」
「…………」
マリアネラは瞬いた。
「兄様でも?」
「ええ」
「……そう」
何故。
自分には分かったのだろう。
考えてみても。
やはり答えは出なかった。
「本当に、何となくよ」
「そうですか」
「そうよ」
「では、そういうことにしておきましょう」
「……その言い方、前にも聞いた気がするわ」
「そうでしたか?」
「もういいわ」
フェルナンドは小さく首を傾げた。
少しして。
「次の夜会ですが」
「ええ」
「私がお迎えに上がります」
「…………」
「何か?」
「毎回?」
「はい」
「あなたが?」
「私以外に誰がいるのです?」
「そうじゃなくて」
マリアネラは少し考える。
「毎回、迎えに来る必要があるの?」
「当然でしょう」
「何故?」
「婚約者ですから」
「…………」
また。
その言葉だ。
「あなた」
「はい」
「婚約者という言葉を、便利に使っていない?」
「便利なのではなく、事実ですが」
「…………」
「違いますか?」
「違わないけれど」
「では、問題ありませんね」
「…………」
何となく。
言い負かされた気がする。
腹立たしい。
「本当に、可愛げがないわね」
「何か仰いましたか?」
「何も」
「そうですか」
「ええ」
その日の茶会は。
それ以上。
特別なことは何もなく終わった。
ただ。
以前より少しだけ。
二人でいることに慣れた。
その程度だった。
◇◇◇
それから。
さらに数週間が過ぎた。
マリアネラが社交の場へ出るたび。
似たようなことが続いた。
露骨なものではない。
少なくとも。
最初は。
「公爵夫人ともなれば、大変でしょうね」
「男爵家とは、随分勝手も違うでしょうし」
「フェルナンド様ほどの方の隣に立つのですもの。苦労も多いでしょうね」
笑顔。
柔らかな声。
一つ一つを取り上げれば。
ただの会話とも取れる。
けれど。
そこに含まれる意味を。
マリアネラが理解できないほど鈍くはなかった。
アレハンドラ。
ビクトリア。
そして。
ルシア。
三人と顔を合わせるたび。
似たような言葉を投げかけられる。
マリアネラは。
それをフェルナンドには言わなかった。
言うほどのことでもない。
自分で返せる。
家族にも。
言っていない。
特に。
エルネストには。
絶対に。
言わない。
面倒になる。
それだけは。
確信していた。
◇◇◇
その日。
マリアネラは、ある伯爵家の茶会へ招かれていた。
午後の庭園。
白いテーブル。
色とりどりの菓子。
招待客の多くは、若い令嬢たちだった。
「マリアネラ様」
聞き慣れつつある声に。
マリアネラは振り返った。
「アレハンドラ様」
その隣には。
ビクトリア。
そしてルシア。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
挨拶を交わす。
少し離れた場所には。
イルムヒルデの姿もあった。
アレハンドラが。
マリアネラの隣へ立つ。
「今日はフェルナンド様とはご一緒ではありませんのね」
「令嬢中心のお茶会ですもの」
「まあ、そうですけれど」
「何か?」
「いいえ」
笑う。
「ただ」
アレハンドラは扇を開いた。
「フェルナンド様ほどの方ですもの。婚約なさったからといって、あの方を望む令嬢はいくらでもおりますでしょう?」
「そうでしょうね」
「…………」
即答したマリアネラに。
アレハンドラが少し眉を動かす。
「……気になりませんの?」
「何故?」
「何故って」
「フェルナンド様がお綺麗なのは知っているわ」
「でしたら」
「家柄も申し分ないのでしょうね」
「ええ」
「なら、人気があるのも当然でしょう?」
「…………」
アレハンドラの笑顔が固くなる。
「随分と余裕でいらっしゃるのね」
「余裕?」
「他の令嬢に、フェルナンド様のお心が移るかもしれませんのよ?」
「…………」
マリアネラは少し考えた。
そして。
本当に分からなかったので。
「何故?」
もう一度。
尋ねた。
「ですから……!」
「フェルナンド様が婚約なさったのは、私でしょう?」
「…………」
沈黙。
ビクトリアが目を瞬く。
ルシアも。
言葉を失った。
マリアネラは。
本当に事実を言っただけだった。
婚約しているのは自分。
なら。
他の令嬢がフェルナンドを望んでいることと。
自分たちの婚約に。
何の関係があるのか。
分からない。
「それに」
マリアネラは続ける。
「フェルナンド様が婚約を解消したいと仰るなら、その時はご本人と話すことですわ。今ここで考えても仕方がないでしょう?」
「…………」
契約なのだから。
変更には。
双方の合意が必要である。
その事実を。
アレハンドラは知らない。
「……随分、自信がおありなのね」
「そういう話ではないと思うけれど」
「…………」
「アレハンドラ様」
ルシアが。
小さく声をかけた。
「何?」
「……いいえ」
続かなかった。
言おうとして。
やめた。
何を言えばいいのか。
自分でも分からなかった。
ただ。
以前ほど。
この会話を楽しめなくなっていた。
「ルシア?」
ビクトリアが不思議そうに見る。
「何でもありませんわ」
ルシアは微笑んだ。
その笑顔が。
少しだけ。
ぎこちなかった。
◇◇◇
しばらくして。
アレハンドラたちは、その場を離れた。
マリアネラも別の場所へ移ろうとする。
その時。
アレハンドラが。
すれ違った。
肩が。
ぶつかる。
「……っ」
それほど強くはない。
転ぶほどでも。
怪我をするほどでもない。
けれど。
偶然ではない。
それくらいは。
分かった。
「失礼」
アレハンドラが言う。
「…………」
マリアネラは彼女を見る。
少しだけ。
間を置いて。
「……ええ」
それだけ答えた。
アレハンドラは去っていく。
ビクトリアが。
一瞬だけ振り返った。
ルシアは。
立ち止まっていた。
「ルシア?」
ビクトリアに呼ばれ。
「……今、行きますわ」
答える。
だが。
足を動かす前に。
もう一度。
マリアネラを見た。
少し離れた場所では。
イルムヒルデも。
こちらを見ていた。
銀色の瞳が。
静かに。
アレハンドラの背中を追っている。
「…………」
ルシアは。
自分の胸元へ手を置いた。
最初は。
ただ、面白くなかった。
フェルナンドが婚約したことが。
その相手が。
自分ではなかったことが。
だから。
アレハンドラたちと一緒に。
嫌味を言った。
マリアネラが困ればいいと。
少しくらいは。
思っていた。
けれど。
今のは。
「…………」
違う。
言葉にすることは。
まだ。
できなかった。
止めることも。
できなかった。
それでも。
胸の奥に生まれた感覚だけは。
もう。
誤魔化せなかった。
(……今のは、違う)
ルシアは。
唇を噛んだ。




