第六話:婚約者になりました
フェルナンド・フォン・リュミエールが婚約した。
その知らせは、正式に両家から発表された翌日には、王都の社交界を駆け巡っていた。
リュミエール公爵家の嫡男。
幼い頃から、その類い稀な容姿で知られ、十六歳で社交界へ出てからも数多くの令嬢たちから注目を集めていた少年が、突然婚約したのである。
しかも。
その相手は、マリアネラ・ヴァレンティン。
建国当初から続く、由緒ある騎士の名門。
代々、王家や高位貴族に仕える優秀な騎士を輩出してきたヴァレンティン男爵家の令嬢だった。
爵位こそ男爵家であるものの、その家名と信用を軽んじる者は少ない。
現にマリアネラの兄エルネストも、若くしてフェルナンドの専属騎士を務めている。
家同士の繋がりを考えれば、不自然な婚約ではない。
むしろ、納得できる組み合わせだと考える者も多かった。
ただし。
「……どうして、あの方なの?」
納得できない者が、いないわけではなかった。
◇◇◇
婚約の発表から、一週間後。
「…………」
マリアネラは鏡の中の自分を見つめていた。
淡いシャンパンゴールドのドレス。
首元には、アメジストを連ねたネックレス。
耳にも同じ石を使ったイヤリングが揺れている。
どれも、婚約後初めて公の場へ出るために用意されたものだった。
シャンパンゴールドは、フェルナンドの亜麻色の髪を思わせる色。
アメジストは、リュミエール家に代々現れる瞳の色。
婚約者として相手の色を身につけること自体は、特別珍しいことではない。
だから。
別に。
深い意味などない。
「……何を緊張しているのよ」
鏡の中の自分へ、小さく呟く。
今日は王宮で夜会が開かれる。
デビュタントを終えた者であれば、未婚の若者でも出席できる社交の場だ。
夜会そのものが初めてというわけではない。
問題は。
今日が、フェルナンドと婚約してから初めて顔を合わせる日だということだった。
あの契約書へ署名してから、一週間。
手紙による事務的な連絡はあった。
しかし、直接会ってはいない。
つまり。
今日初めて。
マリアネラはフェルナンドと、
婚約者として顔を合わせる。
「……だからって、何が変わるわけでもないでしょう」
契約である。
恋愛感情を求めない婚約。
いずれ結婚し。
二つの家に後継者が確保されれば離婚する。
ただ、それだけだ。
そう思っているのに。
何故か落ち着かない。
「お嬢様」
侍女が扉の向こうから声をかけた。
「フェルナンド様がお見えです」
「…………」
一瞬。
背筋が伸びた。
「今行くわ」
◇◇◇
玄関広間では、フェルナンドが待っていた。
夜会用の正装に身を包み、淡い亜麻色の髪を整えている。
元々整いすぎているほど整った顔立ちが、正装によってさらに際立っていた。
階段を下りながら。
マリアネラは、ほんの一瞬だけ思う。
(……やっぱり、綺麗な人なのよね)
黙っていれば。
「こんばんは、マリアネラ嬢」
「こんばんは、フェルナンド様」
フェルナンドはマリアネラを見た。
「…………」
「…………」
「では、参りましょうか」
「ええ」
「…………」
マリアネラは一歩進み。
止まった。
「どうしました?」
「……何でもないわ」
「そうですか」
フェルナンドは本当に何も気づいていないらしい。
(別に)
褒めてほしかったわけではない。
そもそも。
何故、この男から何か言われることを期待したのか。
(何を考えているのよ、私は)
マリアネラは小さく息を吐いた。
その時。
フェルナンドが手を差し出した。
「どうぞ」
「…………」
「マリアネラ嬢?」
「分かっているわ」
婚約者なのだから。
これからは、公の場では彼のエスコートを受ける。
当然のことだ。
分かっている。
分かっているのだが。
差し出された手へ自分の手を重ねる瞬間だけ、妙に意識してしまった。
フェルナンドは何も気にしていない。
いつも通りの顔である。
(……私だけ緊張しているみたいで腹が立つわね)
そんな二人を。
少し離れた場所から、エルネストが見ていた。
「…………」
じっと。
フェルナンドを見る。
「……何です?」
「何も」
「そうですか」
「はい」
「…………」
「…………」
「兄様」
「何だ」
「怖いわよ」
「何がだ」
「顔が」
「いつも通りだ」
絶対に違う。
マリアネラはそう思ったが、口にはしなかった。
エルネストは今夜、二人の護衛として王宮へ同行する。
元々フェルナンドの専属騎士なのだから当然ではあるのだが。
どう見ても今だけは、主君の護衛より妹の監視役に見えた。
◇◇◇
王宮の大広間は、多くの貴族たちで賑わっていた。
煌びやかなシャンデリア。
楽団の奏でる音楽。
談笑する人々。
フェルナンドにエスコートされて会場へ入った瞬間。
マリアネラは。
いくつもの視線が、一斉に自分たちへ向けられたのを感じた。
「……随分、見られている気がするわ」
「そうですか?」
隣から返ってきた声に。
マリアネラは思わず顔を上げた。
「感じないの?」
「何をです?」
「視線よ」
「…………」
フェルナンドは周囲を見た。
確かに。
多くの者がこちらを見ている。
「以前からですので」
「…………」
「何です?」
「いえ」
そうだった。
この男は。
幼い頃から、どこへ行っても見られてきたのだ。
「感覚が麻痺しているのね」
「何か仰いましたか?」
「何も」
フェルナンドは首を傾げた。
◇◇◇
「フェル!」
しばらくして。
人混みの向こうから、明るい声が飛んできた。
フェルナンドが振り返る。
「ニコラス」
現れたのは、深い赤色の髪を持つ少年だった。
年齢はフェルナンドやマリアネラと同じくらい。
整った顔立ちをしているが、フェルナンドとは対照的に表情が豊かで、いかにも人付き合いが得意そうな雰囲気を纏っている。
「聞いたぞ」
「何をです?」
「婚約!」
「一週間前の話ですが」
「だから聞いたって言ってるんだよ!」
「そうですか」
「いや、そうですかじゃなくて!」
ニコラスはフェルナンドを上から下まで眺めた。
「本当にお前が?」
「何か問題でも?」
「問題しかない」
「失礼ですね」
マリアネラは二人を見比べた。
どうやら。
かなり親しいらしい。
「あ」
ニコラスがマリアネラを見る。
「失礼。ニコラス・サンドバルです。サンドバル侯爵家の次男で、こいつとは昔からの腐れ縁みたいなものです」
「マリアネラ・ヴァレンティンです」
「もちろん知っていますよ」
「まあ」
「今、王都で一番有名な令嬢ですから」
「…………嬉しくありませんわね」
「あはは。ですよね」
ニコラスは悪びれずに笑う。
「ニコラス」
「何だよ」
「マリアネラ嬢を困らせないでいただけますか」
「お前がそれ言う?」
「何故です?」
「…………いや。何でもない」
ニコラスは遠い目をした。
その時。
会場の空気が、わずかに変わった。
周囲の者たちが道を開ける。
「……来たみたいだな」
ニコラスが呟いた。
現れたのは。
鮮やかな金髪と、青灰色の瞳を持つ少年。
イルデフォンソ・セリーヌ=アスティリア。
この国の王太子だった。
その傍らには。
男女二人の姿がある。
よく似た顔立ち。
そして。
二人とも、目を引く銀色の瞳を持っていた。
アルヴェーヌ辺境伯家の双子。
姉のイルムヒルデと、弟のテオドール。
アルヴェーヌ家には、古くから銀色の瞳を持つ子が生まれることがあり、それは家に幸福と繁栄をもたらす吉兆とされている。
二人揃って銀眼を持って生まれた双子は、幼い頃から社交界でもよく知られていた。
姉イルムヒルデは、数分早く生まれた長子として、既に次期辺境伯と定められている。
「フェル」
「殿下」
フェルナンドが一礼する。
マリアネラも続いた。
「堅苦しい挨拶はいい」
イルデフォンソはそう言うと。
フェルナンドを見る。
「結婚するそうだな」
「まだ婚約ですが」
「そこじゃない」
「では、どこです?」
「お前が、だ」
「…………」
「本当に?」
「殿下まで何なのですか」
「いや、だってお前だぞ?」
「私ですが」
「槍でも降るんじゃないか?」
「失礼ですね」
ニコラスが吹き出した。
「俺と同じこと言ってる」
「ニコラス。笑い事ではありませんよ」
「皆、同じことを思ってるってことだろ」
「随分な友人たちですね」
フェルナンドが淡々と言う。
その隣で。
マリアネラは思った。
(……この人、友人からもこういう扱いなのね)
「ご婚約、おめでとうございます」
イルムヒルデが穏やかに言った。
「ありがとうございます」
フェルナンドが答える。
テオドールもマリアネラへ軽く頭を下げた。
「マリアネラ嬢も。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「それにしても」
イルデフォンソはまだフェルナンドを見ている。
「本当にお前が」
「殿下」
「分かった。もう言わない」
全く分かっていない顔だった。
◇◇◇
しばらくして。
フェルナンドが知人に呼び止められたため、マリアネラは少し離れた場所で待つことになった。
そこへ。
「マリアネラ様」
声をかけられる。
振り返ると。
三人の令嬢が立っていた。
中心にいるのは、アレハンドラ・モンテロ侯爵令嬢。
十七歳。
その隣には、ビクトリア・アルバレス伯爵令嬢。
そして。
ルシア・メンドーサ子爵令嬢。
二人はマリアネラと同じ十六歳だった。
「ご婚約、おめでとうございます」
アレハンドラが微笑む。
完璧な笑顔だった。
「ありがとうございます」
「本当に驚きましたわ」
「そうですの?」
「ええ。フェルナンド様が、あまりにも突然婚約なさったものですから」
その言葉に。
ビクトリアも頷く。
「それも、ヴァレンティン家のご令嬢と」
「…………」
「確か」
ルシアが口を開いた。
「マリアネラ様のお兄様は、フェルナンド様の専属騎士でいらっしゃいましたわね」
「ええ」
「でしたら、以前からリュミエール公爵家とは随分親しくしていらしたのでしょう?」
「いいえ?」
「…………」
三人が止まった。
マリアネラは首を傾げる。
「兄はフェルナンド様にお仕えしておりますけれど、私は先日のデビュタントまで、フェルナンド様とお話ししたことすらありませんでしたわ」
「……そう、でしたの」
アレハンドラの笑顔が、ほんの少しだけ固まる。
「ええ」
「それでは」
ビクトリアが尋ねた。
「本当に、デビュタントでお知り合いになってから?」
「そうなりますわね」
「…………」
三人は顔を見合わせた。
マリアネラには。
何故そんな顔をするのか分からなかった。
「随分と」
アレハンドラが再び微笑む。
「お気に召されたのですわね。フェルナンド様に」
「…………」
少し。
棘がある。
ようやくマリアネラにも分かった。
「どうでしょう」
「まあ」
「私、フェルナンド様の頭の中までは存じませんもの」
「…………」
「ご本人にお尋ねになってはいかが?」
アレハンドラの眉が、わずかに動いた。
少し離れた場所で。
その会話を偶然耳にしていたイルムヒルデが。
静かにマリアネラを見る。
銀色の瞳に。
ほんの少しだけ、興味の色が浮かんだ。
一方。
ルシアも。
マリアネラを見ていた。
思っていたより。
ずっと普通の令嬢だった。
兄の立場を利用してフェルナンドへ近づいた様子もない。
むしろ。
本当に何故婚約したのか、本人すらよく分かっていないように見える。
ほんの少しだけ。
ルシアの胸に、小さな違和感が残った。
◇◇◇
その後。
アレハンドラたちはフェルナンドにも声をかけた。
「フェルナンド様」
「…………」
フェルナンドは三人を見る。
一瞬。
考え。
「……以前、夜会でお会いしましたね」
アレハンドラの笑顔が引きつった。
「え、ええ。何度か」
「そうでしたか」
「…………」
顔は覚えている。
名前は。
どうやら覚えていない。
「アレハンドラ・モンテロですわ」
「失礼しました。モンテロ侯爵令嬢」
悪びれる様子もない。
アレハンドラは何とか笑顔を保った。
「ご婚約、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「少し意外でしたの」
「そうですか?」
「ええ。マリアネラ様のお兄様が、あなたの専属騎士でいらっしゃいますでしょう?」
「エルネストが?」
「ええ。ですから、そのご縁もあったのかしら、と」
「…………」
フェルナンドは少し考えた。
そして。
「それは妙ですね」
「妙?」
「エルネストとの関係を重視するのであれば、本人と婚姻した方が確実でしょう」
「…………」
アレハンドラ。
ビクトリア。
ルシア。
全員が止まった。
少し離れた場所で聞いていたニコラスも止まった。
イルデフォンソも。
テオドールも。
イルムヒルデも。
そして。
「フェルナンド様!!」
大広間に。
エルネストの声が響いた。
一瞬。
周囲の会話が止まる。
「何です?」
フェルナンドだけが平然としていた。
「何です、ではありません!」
「仮定の話ですが」
「仮定でもやめてください!!」
「何故です?」
「何故でもです!!」
ニコラスが口元を押さえた。
「っ……」
「ニコ」
イルデフォンソが小声で呼ぶ。
「笑うな」
「殿下も笑ってるじゃないですか……!」
「笑ってない」
「顔が笑ってます」
「王太子に向かって何を言ってる」
テオドールは静かに顔を背けていた。
肩が少し震えている。
イルムヒルデは。
何も見なかったことにしたらしい。
無表情だった。
「兄様」
マリアネラが呼ぶ。
「お前もその目で俺を見るな!」
「何も言ってないわ」
「目が言ってる!」
「何を?」
「知らん!」
「理不尽ね」
「誰のせいだと思ってる!」
「フェルナンド様でしょう?」
「そうだ!」
「エルネスト」
「何ですか!」
「何故そんなに怒っているのです?」
「あなたは少し黙っていてください!!」
「…………」
フェルナンドは。
本当に分からないという顔をしていた。
◇◇◇
騒ぎが収まった頃。
楽団が新しい曲を奏で始めた。
人の流れも変わる。
マリアネラが少し後ろへ下がろうとした時だった。
「こちらへ」
「え?」
フェルナンドが、マリアネラの手を取った。
そのまま。
自分の側へ軽く引き寄せる。
直後。
先ほどまでマリアネラが立っていた場所を、数人の男女が通り過ぎていった。
「人が多いので」
「…………」
「マリアネラ嬢?」
「分かっているわ」
近い。
そう思った。
けれど。
ただ、それだけだ。
フェルナンドは何も気にしていない。
人にぶつからないよう、婚約者を引き寄せただけ。
だから。
マリアネラも気にする必要などない。
「……もう大丈夫よ」
「そうですね」
手が離れる。
何故か。
ほんの少しだけ。
離れた場所が気になった。
(……何なのよ)
自分でも分からない。
その後。
今度はフェルナンドが令嬢たちに囲まれた。
婚約したからといって、彼の人気そのものが消えるわけではない。
むしろ。
婚約後初めて公の場へ現れたことで、挨拶をしようとする者が次々に集まってくる。
フェルナンドは。
いつも通りだった。
穏やかな表情。
丁寧な言葉。
必要な返答を、必要なだけ返している。
「…………」
マリアネラは少し離れた場所から、その様子を見る。
別に。
困っているようには見えない。
けれど。
(……嫌そう)
何故そう思ったのか。
分からなかった。
表情は変わっていない。
声も同じ。
それなのに。
何となく。
帰りたそうに見えた。
「……フェルナンド様」
マリアネラは令嬢たちの輪へ近づいた。
フェルナンドが彼女を見る。
「はい」
「そろそろ、向こうへ参りません?」
「…………」
ほんの一瞬。
フェルナンドが目を瞬いた。
「そうですね」
「では、失礼いたします」
マリアネラは令嬢たちへ一礼する。
婚約者からそう言われては。
彼女たちも引き留めにくい。
二人はその場を離れた。
少し歩いたところで。
「助かりました」
フェルナンドが言った。
「…………」
マリアネラは彼を見る。
「やっぱり嫌だったの?」
「ええ」
「顔には全然出ていなかったけれど」
「出す必要もありませんから」
「そう」
「しかし」
フェルナンドは、わずかに首を傾げた。
「よく分かりましたね」
「…………」
言われて。
マリアネラ自身も困った。
「……何となく」
「何となく?」
「そうよ」
「何故でしょう」
「知らないわよ。私に聞かないで」
「そうですか」
「そうよ」
少し。
間が空いた。
「ですが」
フェルナンドが言う。
「ありがとうございました」
「…………別に」
「はい?」
「婚約者をあのまま放置するのも、どうかと思っただけよ」
「そうですか」
「そうよ」
「では、そういうことにしておきましょう」
「…………何よ、その言い方」
「何か?」
「何でもないわ!」
フェルナンドは首を傾げる。
その横で。
マリアネラは少しだけ頬を膨らませた。
◇◇◇
離れた場所から。
アレハンドラは、そんな二人を見ていた。
フェルナンドの隣を歩くマリアネラ。
シャンパンゴールドのドレス。
アメジストの宝石。
まるで。
誰が見ても。
リュミエール公爵家の嫡男の婚約者だと分かる姿。
「…………」
アレハンドラの指先が。
扇を強く握る。
「……マリアネラ・ヴァレンティン」
小さく。
その名を呟いた。
少し離れた場所では。
ルシアもまた。
二人の背中を見つめていた。
「…………」
先ほど。
自分も嫌味を言った。
アレハンドラやビクトリアと同じように。
フェルナンドが突然選んだ令嬢。
兄が専属騎士だから、その立場を利用したのではないか。
そんなふうに。
勝手に決めつけていた。
けれど。
実際に話してみれば。
マリアネラは。
想像していたような令嬢ではなかった。
「……どうしたの、ルシア?」
ビクトリアに声をかけられる。
「いいえ」
ルシアは首を横に振った。
「何でもありませんわ」
そう答えながら。
もう一度。
遠ざかっていくマリアネラを見る。
(……思っていた方とは、少し違うのかもしれない)
胸の奥に生まれた小さな違和感は。
まだ。
消えなかった。




