第五話:契約から始まる婚約
翌日の午後。
マリアネラは再び、リュミエール公爵邸を訪れていた。
三度目ともなれば、さすがに見慣れてくる。
そう思ったものの。
わずか数日の間に三度も公爵邸を訪れることになるなど、デビュタントの夜には想像もしていなかった。
しかも今日は。
フェルナンドからの求婚に、返事をするために来ている。
「……本当に、どうしてこうなったのかしら」
案内される廊下を歩きながら、小さく呟く。
一昨日までは。
公爵夫人など御免だと思っていたはずなのに。
やがて案内された応接室の扉が開く。
中では、フェルナンドが待っていた。
「いらっしゃい、マリアネラ嬢」
「お招きいただきありがとうございます」
「どうぞ」
促され、向かい側のソファへ座る。
侍女が紅茶を用意し、退出した。
扉が閉じる。
静かになった室内で。
フェルナンドは、すぐに本題へ入った。
「それで」
「ええ」
「お返事を伺っても?」
相変わらず。
妙なところで話が早い。
けれど。
今日はマリアネラも、そのために来た。
昨日。
家族と話した。
一人でも考えた。
そのうえで決めたことだ。
マリアネラはフェルナンドを見た。
「……お受けします」
「…………」
ほんのわずかに。
間があった。
「……そうですか」
「…………」
「…………」
それだけだった。
フェルナンドは、いつもとほとんど変わらない顔をしている。
ただ。
一瞬だけ。
ほんのわずかに、その肩から力が抜けたように見えた。
気のせいかもしれない。
あまりに小さな変化だった。
「……それだけ?」
「はい?」
「いえ」
何を期待したのだろう。
愛しているわけでもない。
恋愛感情を求めない契約なのだから、これで正しいはずだ。
それなのに。
何故か少しだけ腹が立つ。
「何です?」
「何でもありません」
「そうですか」
「……やっぱり腹が立つわね」
「何故です?」
「分からないなら結構です」
「理不尽ですね」
「あなたにだけは言われたくないわ」
フェルナンドは小さく首を傾げた。
その顔を見ていると、余計に腹が立つ。
「それで」
マリアネラは話を戻した。
「これから、どうするの?」
「両家で正式に契約内容を確認します」
「やっぱり早いのね」
「あなたが受けると決めた以上、先延ばしにする理由がありますか?」
「ないけれど」
「では、問題ありませんね」
「…………」
こういうところである。
「ご両親の都合がよければ、本日中にでも日程を決めましょう」
「ええ。父も、そのつもりです」
「では、話は早いですね」
「……あなた、こういう時だけ少し楽しそうね」
「そう見えますか?」
「気のせいだったみたい」
「そうですか」
やはり。
この男の考えていることは、よく分からない。
◇◇◇
正式な協議は、その日の夕刻に行われることになった。
ヴァレンティン家からは、アルベルトとイサベル。
そしてマリアネラ。
さらに。
「エルネストも同席してください」
フェルナンドからそう言われ、エルネストも席に加わることになった。
「私もですか?」
「あなたにも関係のある話でしょう」
フェルナンドは当然のように答えた。
「ヴァレンティン家の家督を辞退したことで、現在の継承問題に少なからず関わっている。それに」
一度、マリアネラへ視線を向ける。
「兄上としても、確認しておきたいことがあるのでは?」
「……ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことではありませんよ」
リュミエール家からは、公爵夫妻とフェルナンド。
両家の当事者が揃い。
テーブルの中央には。
法務官によって正式に整えられた婚姻契約書が置かれていた。
「それでは」
リュミエール公爵が口を開く。
「既に双方から、婚姻そのものについて同意を得ている。だが、これは両家と、何よりフェルナンドとマリアネラ嬢の将来に関わる契約だ」
全員を見渡す。
「署名の前に、改めて内容を確認したい。異論があれば、どの条項であってもここで申し出てもらいたい」
「承知しました」
アルベルトが答えた。
マリアネラも頷く。
フェルナンドも同じだった。
読み合わせが始まった。
第一条。
本婚姻の目的。
リュミエール公爵家とヴァレンティン男爵家、双方の家系を存続させ、正統な後継者を確保すること。
そして。
本婚姻に、双方の恋愛感情の有無を条件としないこと。
「……改めて読むと、すごい内容ね」
イサベルが小さく呟いた。
「申し訳ありません」
リュミエール公爵夫人が、何故か代わりに謝った。
「いえ、そういう意味では」
「息子が本当に申し訳なくて」
「母上?」
「あなたは少し黙っていなさい」
「何故です?」
「いいから」
フェルナンドは納得していない様子だったが、口を閉じた。
マリアネラは思わず視線を逸らす。
少し笑いそうになった。
第二条。
婚姻生活について。
夫婦として必要な公務や社交には協力する。
一方で、それ以外の私生活や交友関係へは、正当な理由なく干渉しない。
公然たる愛人など、両家の名誉や子の正統性を損なう関係を持たない。
そして。
互いの人格と意思を尊重すること。
「ここについては、異論ありません」
アルベルトが言った。
「こちらもです」
公爵が答える。
続いて。
第三条。
子どもと、両家の後継者について。
「本婚姻によって生まれた子は、性別および出生順を問わず、フェルナンドとマリアネラ嬢、双方の実子として等しく扱う」
公爵が読み上げる。
「その上で、生まれた子のうち一名をリュミエール公爵家、一名をヴァレンティン男爵家の後継者とする」
一拍置く。
「原則として、男児をリュミエール公爵家、女児をヴァレンティン男爵家の後継者とする。ただし、出生した子の性別その他の事情によって困難である場合は、双方および両家当主の協議によって決定する」
「異存ありません」
アルベルトが答えた。
その隣で。
エルネストが、わずかに目を伏せる。
本来。
ヴァレンティン男爵家を継ぐはずだったのは、エルネストだった。
彼が家督を辞退しなければ。
この条項そのものが必要なかった可能性もある。
「エルネスト」
アルベルトが息子を見る。
「何かあるか?」
「……いいえ」
エルネストは首を横に振った。
「俺は、自分でこの道を選びました」
騎士として生きる。
フェルナンドに仕える。
そのために。
家督を継がないと決めた。
「ですが」
エルネストはマリアネラを見る。
「その結果、妹に重荷を背負わせたことは事実です」
「兄様」
「だからこそ、確認しておきたい」
今度は。
フェルナンドを見る。
「ヴァレンティン家の後継者となる子についても、フェルナンド様はご自身の子として変わらず接してくださいますか」
「もちろんです」
フェルナンドは即答した。
「どちらの家を継ぐかで、私の子でなくなるわけではありませんから」
「……ありがとうございます」
「だから、礼を言われるようなことではありませんよ」
「フェルナンド」
公爵が息子を窘める。
「何です?」
「こういう時くらい、素直に受け取れ」
「事実を述べただけですが」
「……もういい」
マリアネラは、昨日から何度このやり取りを見ただろうと思った。
けれど。
フェルナンドの言葉そのものには。
少しだけ安心した。
そして。
第四条。
婚姻関係の解消。
部屋の空気が、ほんの少し変わった。
「リュミエール公爵家およびヴァレンティン男爵家の双方に、正統な後継者となる子が一名以上確保された時点をもって、本婚姻の目的は達成されたものとする」
公爵の声だけが響く。
「その条件が満たされ、双方の子の帰属および将来の家督継承について必要な手続きが完了した後」
そこで。
一度、言葉を区切った。
「フェルナンドとマリアネラ嬢は、婚姻関係を解消する」
「…………」
マリアネラは契約書を見る。
昨日も読んだ。
何度も読んだ。
その意味も理解している。
「異存は?」
公爵が尋ねた。
「ありません」
フェルナンドが答える。
迷いはなかった。
マリアネラも。
「……ありません」
そう答えた。
これが。
二人の選んだ結婚だった。
家のために結ばれ。
目的を達成すれば、終わる。
今の二人にとって。
それは何ら不自然なことではなかった。
第五条。
婚姻解消後の子どもとの関係。
「こちらについて、一つ確認させてください」
イサベルが言った。
「もちろんです」
公爵が頷く。
「離婚後、マリアネラと別の家で暮らすことになった子がいたとしても」
イサベルは、一つ一つ確かめるように言葉を選んだ。
「娘が、その子の母親であることに変わりはないのですね」
「はい」
公爵が答えるより先に。
フェルナンドが答えた。
全員の視線が集まる。
「どちらの家で暮らすことになったとしても、マリアネラ嬢はその子の母親です」
フェルナンドは静かに続けた。
「私がそれを妨げることはありません」
イサベルはしばらく彼を見つめ。
「……ありがとうございます」
そう言って、頭を下げた。
「いえ」
今度は。
フェルナンドもそれ以上何も言わなかった。
マリアネラは隣に座る母を見る。
まだ。
子どもなどいない。
どんな子が生まれるのかも分からない。
それでも。
何故か。
今の言葉だけは、胸のどこかに残った。
第六条。
婚姻解消後のマリアネラの地位と生活の保障。
第七条。
ヴァレンティン男爵家への支援。
双方から細かな条件について確認が入り。
必要な部分については、その場で法務官が補足を行った。
そして。
第八条。
婚姻解消後の自由。
「婚姻関係の解消後、双方はそれぞれ自己の意思によって、新たな婚姻を結ぶことができる」
読み上げられた条文に。
マリアネラは静かに耳を傾けた。
昨日。
自室で考えたことを思い出す。
いつか。
本当に好きな人ができたなら。
その人と結婚すればいい。
この契約は。
その未来まで奪うものではない。
「異存ありません」
フェルナンドが言った。
「私もありません」
マリアネラも答えた。
互いの顔を見ることすらなく。
ごく当然の条件として。
二人は同意した。
第九条。
契約内容の秘密保持。
そして。
第十条。
契約の変更および解除。
「本契約は、フェルナンドおよびマリアネラ嬢、双方の合意がある場合に限り、その内容の全部または一部を変更することができる」
公爵が読み上げる。
「双方が、本契約による婚姻関係の継続または解消について別の意思を共有するに至った場合、両名は協議の上、本契約を変更または解除することができる」
マリアネラは。
ほんの少しだけフェルナンドを見た。
昨日。
彼が言った言葉を思い出す。
『今の私たちに、未来の私たちの意思まで決める権利はありませんから』
未来がどうなるかなど。
今は分からない。
だから。
その時は、その時の自分たちが決める。
マリアネラは、その考えに納得していた。
「異存は?」
「ありません」
「ありません」
今度は。
二人の声が重なった。
一瞬。
マリアネラとフェルナンドが互いを見る。
「…………」
「…………」
先に視線を逸らしたのは。
マリアネラだった。
別に。
意味はない。
ただ、声が重なっただけだ。
最後に。
第十一条。
契約に定めのない事項については、双方が互いの利益と子どもの幸福を尊重し、誠実に協議すること。
そして。
いかなる場合においても。
子どもの利益と安全を、本契約上の他の利益より優先すること。
すべての条項の確認が終わった。
「以上だ」
公爵が契約書を閉じる。
「最終的に確認する。アルベルト殿」
「はい」
「ヴァレンティン家として、異論は?」
「ありません」
「イサベル夫人は?」
「私もありません」
「エルネスト」
今度はフェルナンドが呼んだ。
「はい」
「あなたは?」
「……契約内容については、ありません」
「含みがありますね」
「妹の夫として信用したとは、まだ申し上げておりませんので」
「…………」
フェルナンドが、ほんの少し眉を上げた。
「先ほどから思っていましたが」
「はい」
「随分と私に厳しくありませんか?」
「お気のせいです」
「そうですか」
「はい」
「…………」
「…………」
「兄様」
マリアネラが小声で呼ぶ。
「何だ」
「相手はあなたの主君でしょう」
「だから何だ」
「強いわね……」
「妹のことだからな」
「…………」
否定できない。
フェルナンドは二人のやり取りを見ていたが。
やがて。
「まあ、いいでしょう」
「いいのですか」
「今後、信用していただければ済む話です」
「簡単に仰いますね」
「難しいことですか?」
「……そういうところですよ」
「何がです?」
エルネストが深く息を吐いた。
公爵が額を押さえている。
その隣で、公爵夫人とイサベルが小さく笑っていた。
そして。
アルベルトが口を開いた。
「フェルナンド様」
「はい」
「最後に、一つだけ。父親としてお尋ねしてもよろしいでしょうか」
その声音に。
部屋の空気が変わった。
フェルナンドも姿勢を正す。
「もちろんです」
アルベルトは真っ直ぐ、フェルナンドを見た。
「娘を」
一度。
言葉を区切る。
「後継者を得るためだけの存在として扱わないと、お約束いただけますか」
「…………」
フェルナンドは。
すぐには答えなかった。
ほんのわずかに目を伏せる。
考え。
そして。
アルベルトを見る。
「はい」
静かな声だった。
「この婚姻が契約によって始まるものであっても、マリアネラ嬢が一人の人間であることに変わりはありません」
マリアネラは、フェルナンドを見る。
「彼女の人格と意思を尊重します」
愛しているとは。
言わなかった。
幸せにするとも。
一生そばにいるとも。
この婚姻の終わりは、既に契約書に記されている。
だからこそ。
今のフェルナンドに約束できることだけを。
彼は口にした。
「私の都合だけで彼女の意思を無視することはしないと、お約束します」
「……分かりました」
アルベルトは頷いた。
「娘を、よろしくお願いいたします」
「はい」
フェルナンドも。
今度は素直に頷いた。
マリアネラは黙って、その横顔を見つめた。
昨日。
自分が出した答え。
あれでよかったのだと。
少しだけ。
そう思った。
◇◇◇
すべての確認が終わり。
最後に。
署名が行われた。
最初にペンを取ったのは、フェルナンドだった。
迷いなく。
契約書の末尾へ、自らの名を記す。
フェルナンド・フォン・リュミエール。
ペンが置かれる。
次に。
それがマリアネラへ渡された。
「…………」
ほんの少しだけ。
契約書を見つめる。
ここに署名すれば。
自分は正式に。
フェルナンドの婚約者になる。
そして一年後。
彼の妻になる。
やがて。
二つの家に後継者を残し。
その役目を終えれば。
離婚する。
すべて。
分かった上で選んだ。
マリアネラはペンを取った。
マリアネラ・ヴァレンティン。
二つの名前が。
同じ契約書の上に並んだ。
続いて。
リュミエール公爵。
アルベルト。
そして立会人が署名を行う。
これで。
婚姻契約は正式に成立した。
「婚姻の時期についてだが」
公爵が新たな書類を手に取った。
「二人とも、まだ十六歳だ。両家で相談した結果、婚姻は一年後を目安としたいと考えている」
「一年後……」
マリアネラが呟く。
「何か希望があれば調整するが」
「私は構いません」
フェルナンドが答えた。
「私も」
マリアネラも頷く。
「では、それまでの一年を正式な婚約期間とする。具体的な婚姻の日取りについては、改めて両家で相談しよう」
異論はなかった。
こうして。
フェルナンド・フォン・リュミエールと。
マリアネラ・ヴァレンティンは。
正式な婚約者となった。
恋をしていたわけではない。
互いに愛を誓ったわけでもない。
むしろ。
その始まりにあったのは。
いつか別れることまで定めた、一通の契約書だった。




