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離婚を前提に結婚してください!  作者: 春野清花


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第四話:私が選ぶこと

 リュミエール公爵邸から戻ると、玄関ホールにエルネストがいた。


 偶然ではないだろう。


 壁際に立ち、腕を組んでいる。


 どう見ても、妹の帰宅を待っていた人間の姿だった。


「……ただいま戻りました」


「ああ。おかえり」


 マリアネラは兄を見る。


 エルネストもマリアネラを見る。


 数秒。


「……どうだった?」


 やはり聞かれた。


「結婚を申し込まれたわ」


「…………」


 エルネストは黙った。


 驚いた様子はない。


 むしろ。


「……やっぱりか」


「やっぱり?」


「いや。フェルナンド様が、お前を気にしているようには見えたから」


「気にしている……」


 その表現が正しいのかどうか、マリアネラには分からない。


 少なくとも。


 世間一般でいうところの、令嬢を気にしている男性の行動ではなかった。


「離婚を前提に」


「…………は?」


 初めて。


 エルネストの表情が崩れた。


「何だって?」


「だから、離婚を前提に結婚してほしい、と」


「…………」


 エルネストは妹の顔を見る。


「…………」


 その手にある書類を見る。


「…………」


 もう一度、妹を見る。


「何があった?」


「私にも分からないわよ」


「一昨日、庭を歩いただけだろう?」


「そのはずだったのだけれど」


「何を話した?」


「結婚について」


「…………」


 エルネストが目を閉じた。


「何を言ったんだ、あの方は」


「結婚は家を存続させるための契約に過ぎない、と」


「……ああ」


「知っていたの?」


「フェルナンド様なら言いそうだと思っただけだ」


「それで私が、随分つまらない結婚観だと言ったら」


「言ったのか」


「言ったわ」


「主君に?」


「聞かれたから答えただけよ」


「…………そうか」


 エルネストが額を押さえた。


 何故か。


 兄の姿が、昨日のリュミエール公爵と少し重なった。


「それで?」


「それで、思いついたらしいわ」


「何を」


「本当に契約として結婚すればいい、と」


「…………」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


「……お前たち、意外と相性がいいのかもしれないな」


「どうしてそうなるのよ!」


「いや。何となく」


「全然よ!」


「そうか」


「そうよ!」


 即座に否定したマリアネラだったが、エルネストは何故かそれ以上何も言わなかった。


「とにかく」


 マリアネラは手にしていた書類を差し出した。


「これを、お父様とお母様にも見ていただきたいの」


「……婚姻契約書?」


「フェルナンド様が作ったそうよ」


「…………」


 再びエルネストが黙った。


「原案を一晩で」


「…………一晩?」


「それを法務官に確認してもらったそうよ」


「…………」


「兄様?」


「いや」


 エルネストは契約書を受け取った。


「とりあえず、父上と母上のところへ行こう」


「ええ」


「これは俺だけでは判断できない」


「でしょうね」


「それと」


「何?」


「お前も今すぐ答えを出すなよ」


 先ほどまでとは違う、真剣な声音だった。


 マリアネラは少しだけ目を丸くする。


「分かっているわ」


「ならいい」


 エルネストはそう言って歩き出した。


 その背を追いながら、マリアネラは小さく息を吐いた。


 ◇◇◇


「……もう一度、言ってくれるか?」


 アルベルト・ヴァレンティンは、娘を前にして静かに尋ねた。


 声は落ち着いている。


 しかし。


 眉間には、くっきりと皺が寄っていた。


「フェルナンド様から、結婚を申し込まれました」


「そこまでは分かった」


「離婚を前提に」


「そこが分からない」


「私も最初は分かりませんでした」


「今は分かるの?」


 隣に座るイサベルが尋ねる。


「……理屈だけなら」


 マリアネラは答えた。


 四人の間にあるテーブル。


 その中央には、先ほど持ち帰った婚姻契約書が置かれている。


「まず、読ませてもらおう」


 アルベルトが書類を手に取った。


 イサベルもその隣から目を通す。


 エルネストは向かい側。


 マリアネラは母の隣に座った。


 しばらく。


 紙をめくる音だけが続いた。


 婚姻の目的。


 婚姻生活における双方の義務。


 互いの私生活への過度な干渉を禁じる条項。


 そして。


「……子どもを、それぞれの家の後継者に」


 アルベルトが呟いた。


「ええ」


「原則として、男児はリュミエール公爵家。女児はヴァレンティン男爵家か」


「そう説明されました」


「なるほど……」


 アルベルトの視線が、エルネストへ向いた。


 エルネストも気づいたらしい。


「俺のことですね」


「ああ」


 ヴァレンティン男爵家には、本来なら嫡男であるエルネストがいる。


 しかし。


 彼は既に、家督を継がない意思を両親へ伝えていた。


 騎士として。


 フェルナンド・フォン・リュミエールの専属騎士として生きる。


 それがエルネスト自身の選んだ道だった。


 両親も、その意思を了承している。


「……俺が家を継げば」


 エルネストが呟いた。


 マリアネラが顔を上げる。


「この条件は必要なくなる」


「嫌よ」


「…………」


「…………」


 今度は家族三人が、マリアネラを見た。


「何よ」


「いや」


 エルネストが瞬きをする。


「もう少し考えてから答えるかと思った」


「考える必要なんてないもの」


「マリアネラ」


「兄様が望んで騎士になったのでしょう?」


「ああ」


「フェルナンド様の専属騎士として生きたいから、家督を辞退したのでしょう?」


「そうだ」


「だったら、私の結婚のためにその道を捨てる必要なんてないわ」


「だが」


「嫌」


「…………」


「兄様が家を継ぐことを望んでいるなら別よ。でも、そうではないのでしょう?」


 エルネストは答えなかった。


 それが答えだった。


「私は、ヴァレンティン家を継ぐことが嫌なわけでもないわ」


 兄が家督を辞退すると決めた時。


 ならば自分が継ぐことになるのだろうと、マリアネラは自然に受け入れていた。


 女だから。


 娘だから。


 そんな理由で家督から外される時代ではない。


「だから、兄様は自分で選んだ道を歩けばいいのよ」


「……お前な」


「何?」


「そういうところは昔から変わらないな」


「何よ、それ」


「褒めてる」


「フェルナンド様も同じことを言ったわ」


「…………」


「兄様?」


「いや。何でもない」


 エルネストは妙な顔をして視線を逸らした。


「話を戻そう」


 アルベルトが言った。


 再び契約書へ視線を落とす。


 婚姻関係の解消。


 離婚後の子どもとの関係。


 マリアネラ自身の生活と地位の保障。


 ヴァレンティン男爵家への支援。


 そして、新たな婚姻の自由。


「……随分と」


 アルベルトが呟いた。


「何?」


「お前に有利だ」


「そうなの?」


「少なくとも、リュミエール公爵家だけが得をする内容ではない」


 イサベルも頷いた。


「むしろ、ここまで明文化する必要があるのかと思うくらいね」


「私も驚いたわ」


 マリアネラは契約書を見た。


「最初は、もっとフェルナンド様に都合のいい契約だと思ったの」


「当然だ」


 アルベルトの声が少し硬くなった。


「公爵家の嫡男と、男爵家の令嬢だ。家格だけを見れば、こちらが条件を呑まされても不思議ではない」


 そして。


 父が娘を見る。


「マリアネラ」


「はい」


「断れるのか?」


「え?」


「この話をだ」


 アルベルトは真っ直ぐに尋ねた。


「フェルナンド様は、本当にお前が断ることを認めているのか?」


「……ええ」


 マリアネラは頷いた。


「望まないなら、この話はそこで終わりだと仰っていたわ」


「ヴァレンティン家に不利益を与えるようなことは?」


「しない、と」


「公爵家から圧力をかけることも?」


「ありません。むしろ、そういうことを疑ったら少し怒っていたくらい」


「怒った?」


「『するわけがないでしょう』って」


 アルベルトが黙った。


 イサベルも何かを考えるように契約書へ目を落とす。


 やがて父は、エルネストへ視線を向けた。


「エルネスト」


「はい」


「お前は、フェルナンド様に仕えている」


「はい」


「主君として、どういう方だ」


 エルネストはすぐには答えなかった。


 考える。


 主君だからと無条件に褒めるのではなく。


 妹の人生に関わることだからこそ。


 言葉を選んでいるのだと、マリアネラには分かった。


「……約束を軽く扱う方ではありません」


 やがて、エルネストが答えた。


「一度口にしたことを、気分で覆すような方でもない。人付き合いは得意ではありませんし、言葉にいちいち棘はありますが」


「それは知っているわ」


「お前はまだ二度しかまともに話していないだろう」


「二度で十分だったわ」


「……まあ、そこは否定しない」


 エルネストは小さく息を吐いた。


「ですが、主君としては信頼しています。少なくとも、この契約を結んだ後で、マリアネラに一方的な不利益を押しつけるような方ではないと思います」


「なら、お前はこの婚姻に賛成なの?」


 イサベルが尋ねた。


「いいえ」


 即答だった。


「兄様?」


「主君として信頼していることと、妹の夫として信用できるかは別です」


「同じ人でしょう?」


「立場が違う」


「何よ、それ」


「お前は黙ってろ」


「私の結婚の話なのだけれど?」


「だから心配してるんだ」


「……シスコン」


「何か言ったか?」


「何も」


 エルネストが目を細める。


 マリアネラは視線を逸らした。


「フェルナンド様本人にも同じことを言えるの?」


「言える」


「即答ね」


「妹のことだからな」


「…………」


 困った兄である。


 けれど。


 少しだけ嬉しいと思ってしまう自分もいた。


「ただ」


 エルネストが続けた。


「反対もしません」


「どっちなのよ」


「決めるのはお前だ」


 その言葉に。


 マリアネラは黙った。


「俺がフェルナンド様を信用しているから結婚する必要はない。逆に、俺が妹の夫として気に入らないから断る必要もない」


「気に入らないの?」


「まだ信用していないと言った」


「同じようなものでは?」


「違う」


「そう」


「だから」


 エルネストは妹を真っ直ぐ見た。


「お前が決めろ」


「…………」


 マリアネラは小さく頷いた。


「ええ」


 その時。


「条件については、だいたい分かったわ」


 イサベルが契約書を閉じた。


 そして。


 娘を見る。


「でも、私が聞きたいのはそこではないの」


「お母様?」


「あなたは、どうしたいの?」


 マリアネラは答えられなかった。


「…………」


 どうしたい。


 そんなことを聞かれても。


 そもそも三日前まで、フェルナンドと結婚する可能性など考えたことすらなかった。


 デビュタントで見かけた。


 綺麗な人だと思った。


 それだけ。


 一昨日。


 初めてまともに話した。


 言葉に棘がある。


 いちいち一言多い。


 結婚観はつまらない。


 そして今日。


 婚姻契約書を差し出された。


「……分からないわ」


 それが。


 今のマリアネラに言える、最も正直な答えだった。


「そう」


 イサベルは責めなかった。


「フェルナンド様を好きなの?」


「まさか」


 即答した。


「では、嫌い?」


「…………」


 今度は。


 少しだけ答えるまでに時間がかかった。


「……嫌いではないわ」


「そう」


「腹は立つけれど」


「それは聞いていないわ」


「だって、本当に一言多いのよ」


「マリアネラ」


「……はい」


 母が少し笑った。


「今すぐ答えを出さなくてもいいのよ」


「分かっているわ」


「公爵家との婚姻だから受けなければならない、なんて考える必要もない」


「ええ」


「あなたの人生ですもの」


 イサベルは静かに言った。


「あなたが選びなさい」


 父も。


 兄も。


 何も言わなかった。


 ただ。


 その言葉に異を唱える者は、誰もいなかった。


 ◇◇◇


 その夜。


 マリアネラは自室の机に、婚姻契約書を広げていた。


 何度目になるだろう。


 もう内容の大半は覚えてしまった。


 それでも。


 もう一度、最初から読む。


 結婚。


 子ども。


 家督。


 そして。


 離婚。


「…………」


 何をしているのかしら、私。


 思わずそんなことを考える。


 一昨日。


 自分は確かに言ったのだ。


 フェルナンドと結婚したいかと聞かれて。


『私なら御免ですけれど』


 そう答えた。


 公爵夫人など面倒そう。


 家柄だけでよく知らない男性と結婚するのも嫌。


 それが。


 二日後には、その本人から渡された婚姻契約書を真剣に読んでいる。


「……本当に、何をしているのかしら」


 小さく呟いた。


 けれど。


 不思議と。


 今すぐこの契約書を閉じて、断ろうとは思わなかった。


 貴族の娘として生まれた以上。


 いつか結婚する日は来る。


 その相手を、自分だけの意思で選べるとも限らない。


 家。


 爵位。


 領地。


 両親。


 様々な事情が絡むだろう。


 ならば。


 自分の意思を尊重すると、ここまで明確に示してくれた相手を選ぶことは。


 本当に悪いことなのだろうか。


 フェルナンドは、変わっている。


 結婚を契約と言い切る。


 恋愛感情を求めない。


 出会って三日で婚姻契約書を持ってくる。


 普通ではない。


 少なくとも。


 マリアネラの知る普通からは、随分外れている。


 けれど。


 信用できない人ではない。


 今日。


 契約書を読みながら話していて、それは感じた。


 自分が断る可能性を、最初から認めていた。


 公爵家の力を使うつもりもない。


 離婚した後の人生まで、マリアネラ自身が選べるようにしてある。


 それに。


 この婚姻なら。


 エルネストは騎士として生きられる。


 ヴァレンティン家にも後継者を残せる。


 自分が一方的に何かを失うわけでもない。


 そして。


 離婚した後は、自由だ。


 もし。


 いつか本当に好きな人ができたなら。


 その人と結婚することだってできる。


「…………」


 マリアネラは頁をめくった。


 そして。


 第十条で、手を止める。


 本契約は、フェルナンドおよびマリアネラ双方の合意がある場合に限り、その内容の全部または一部を変更することができる。


 その下。


 婚姻関係の継続または解消について、別の意思を共有するに至った場合。


 双方の協議によって、契約を変更または解除できる。


 昼間の声が蘇る。


『今の私たちに、未来の私たちの意思まで決める権利はありませんから』


「……未来の私たち、ね」


 今の自分には。


 未来のことなど分からない。


 フェルナンドとどんな夫婦になるのか。


 そもそも夫婦らしい関係になるのか。


 何年一緒にいるのか。


 どんな子どもが生まれるのか。


 そして。


 離婚した後、自分が何を望むのか。


 何一つ。


 分からない。


 けれど。


 分からないからこそ。


 未来の自分が選び直す余地を残しておく。


 その考え方だけは。


 マリアネラにも理解できた。


「……本当に、変な人」


 呟いて。


 少しだけ。


 口元が緩んだ。


 好きではない。


 恋をしているわけでもない。


 結婚したいと夢見た相手でもない。


 それでも。


 嫌ではない。


 そして。


 少なくとも。


 自分の人生を預ける相手として、信用してみてもいいと思えた。


 マリアネラは契約書を閉じた。


 答えは。


 もう決まっていた。


 ◇◇◇


 翌朝。


 朝食を終えたあと。


 マリアネラは両親を呼び止めた。


「お父様、お母様」


 アルベルトとイサベルが振り返る。


 エルネストもいた。


 三人の視線が集まる。


 マリアネラは、一度だけ息を整えた。


 誰かに命じられたわけではない。


 公爵家だからでもない。


 兄のためだけでもない。


 条件がいいから、それだけでもない。


 自分で考えた。


 そのうえで。


 自分で選ぶ。


「私、この結婚を受けようと思います」


 マリアネラは、はっきりとそう告げた。


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