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離婚を前提に結婚してください!  作者: 春野清花


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4/15

第三話:離婚を前提に結婚してください

 翌日の午後。


 リュミエール公爵夫妻は、息子から突然、とんでもない報告を受けた。


「父上、母上。マリアネラ嬢へ結婚を申し込もうと思います」


「まあ!」


 真っ先に声を上げたのは、母だった。


 手にしていたカップを置き、目を輝かせる。


「まあ、まあ……!」


「何です?」


「あなた!」


「あ、ああ」


 妻に腕を叩かれたリュミエール公爵も、珍しく目を見開いている。


 フェルナンドは、そんな両親を不思議そうに見た。


「何か問題でも?」


「問題というか……」


 父は言葉を探すように黙った。


 母はそれどころではないらしい。


「いつからなの?」


「何がです?」


「マリアネラ嬢よ。いつから彼女を?」


「昨日お会いしたばかりですが」


「そうではなくて」


 母が身を乗り出した。


「彼女を愛しているのでしょう?」


「いいえ」


「…………はい?」


 笑顔のまま、母が固まった。


 父も黙った。


 フェルナンドは瞬きをする。


「愛してはいませんよ」


「では、なぜ結婚を申し込むんだ」


「条件が合うからです」


「条件」


「ええ」


 フェルナンドは手元に置いていた書類を差し出した。


「昨夜、婚姻に際して必要になる条件をまとめました」


「…………」


「…………」


 今度は、両親が揃って書類を見た。


 それから。


 揃って息子を見る。


「昨夜?」


「はい」


「昨日、マリアネラ嬢と庭を歩いたのよね?」


「ええ」


「それで?」


「帰宅してから作りました」


「…………」


 母が額に手を当てた。


「あなた」


「ああ」


「私たち、何か育て方を間違えたのかしら」


「私にも分からなくなってきた」


「失礼ですね」


「誰のせいだと思っている」


 父は深く息を吐くと、書類を手に取った。


 まだ正式な契約書ではない。


 昨夜フェルナンドが作った、あくまで原案だった。


 父が一枚目へ目を通す。


 母も横から覗き込んだ。


 そして。


 二人の表情が、徐々に変わっていく。


「……フェルナンド」


「はい」


「これは本気なのか?」


「冗談で婚姻契約書を作るほど暇ではありませんよ」


「そういうところだ」


「何がです?」


「いや、もういい」


 父は額を押さえた。


「まず、お前が何を考えているのか説明しろ」


「昨日申し上げた通りですが」


「昨日?」


「結婚についてです」


 フェルナンドは淡々と答えた。


「私はいずれ、リュミエール公爵家を継ぎます。そのためには後継者が必要になる。ならば、いずれ結婚する必要があるでしょう」


「それはそうだ」


「ですが、私は恋愛結婚を望んでいません」


「知っている」


「マリアネラ嬢も、公爵夫人という立場を望んでいないそうです」


「…………」


 母の眉がわずかに動いた。


「本人がそう言ったの?」


「ええ。面倒だから御免だそうですよ」


「あなた、本人に何を聞いたの」


「私と結婚したいのか、と」


「フェルナンド」


「何です?」


「昨日が初対面よね?」


「正確には、デビュタントで一度お見かけしています」


「そういう問題ではないわ」


「では、どういう問題でしょう」


「あなた……」


 母が何かを言いかけ、諦めたように口を閉じた。


 父が代わりに尋ねる。


「それで、マリアネラ嬢は何と?」


「御免だそうです」


「断られているじゃないか」


「通常の婚姻については、でしょう」


「…………」


「家柄だけで相手を決めたくない。公爵夫人という立場にも興味はない。ですが、貴族の婚姻に家同士の事情が関わること自体は理解している。彼女はそう言っていました」


「だから契約結婚を?」


「ええ」


 フェルナンドにとっては、至極自然な結論だった。


 恋愛感情を必要としない。


 互いの家に利益がある。


 必要な役割を明確にし、それ以外の自由を保障する。


 条件を最初から定めておけば、互いに望まないものを求める必要もない。


「ヴァレンティン家には現在、後継者の問題があります」


 フェルナンドは続けた。


「エルネストは騎士として私に仕える道を選び、家督を辞退する意向を既に両親へ伝えているそうです」


「ああ。その話は聞いている」


「そうなれば、マリアネラ嬢、あるいはその子がヴァレンティン家を継ぐことになる」


「だから、両家に一人ずつ子を残す……か」


 父は再び書類へ目を落とした。


「原則として、男児をリュミエール家、女児をヴァレンティン家の後継者とする。ただし、出生した子の性別などによって困難な場合は両家で協議する……」


「はい」


「ずいぶん簡単に言うのね」


 母が呆れたように息を吐いた。


「子どもは、書類に必要な人数を書けば都合よく生まれてくるものではないのよ?」


「分かっていますよ。ですから例外規定も設けています」


「そういう意味ではないのだけれど」


「では、どういう意味です?」


「…………もういいわ」


 今日、何度目だろう。


 両親が揃って同じような反応をしている。


 フェルナンドには、その理由がいまひとつ分からなかった。


 父が書類を置いた。


「一つ聞く」


「どうぞ」


「お前は、マリアネラ嬢を家を残すための道具にするつもりか?」


 その言葉に。


 フェルナンドの表情が、ほんのわずかに変わった。


「……そのようなつもりはありません」


 声が少しだけ低くなる。


 父がそれを見逃さなかった。


「ならば、これは何だ」


「だからこそ、条件を定めています」


 フェルナンドは父の前にある書類を指した。


「私だけが利益を得る婚姻にするつもりはありません。彼女には彼女の人生がある。ヴァレンティン家にも事情がある。それを無視してリュミエール家の後継者だけを求めるなら、契約として公平ではないでしょう」


「…………」


「婚姻中であっても、夫婦として必要な責務以外まで互いに干渉する必要はない。婚姻を解消した後は、なおさらです」


 父は黙って次の頁をめくった。


 婚姻解消後のマリアネラの生活と地位。


 ヴァレンティン家への支援。


 双方と子どもとの関係。


 異なる家を継ぐことになった兄弟姉妹の交流。


 そして。


 婚姻解消後、双方が新たな婚姻を結ぶ自由まで記されている。


「……ここまで、一晩で考えたの?」


 母が尋ねた。


「大枠は」


「なぜ?」


「私から提案するのですから、当然でしょう」


 フェルナンドは何でもないことのように答えた。


「私との結婚によって、彼女だけが一方的に不利益を負う契約では意味がありません」


 母が、しばらく息子を見つめた。


 その隣で、父も黙っている。


 やがて。


 父が長く息を吐いた。


「……分かった」


「では」


「待て。認めたわけではない」


「そうですか」


「まず法務官に見せろ。お前の思いつきだけで婚姻契約など結ばせられるか」


「そのつもりです」


「それから」


 父の声が少し厳しくなった。


「決めるのはマリアネラ嬢だ」


「当然でしょう」


「断られたなら、それで終わりだ。ヴァレンティン家へ圧力をかけることも許さん」


「そのようなことをするつもりはありませんよ」


 フェルナンドは眉を寄せた。


「彼女が望まないのであれば、成立する契約ではありませんから」


「……そうか」


 父が小さく頷く。


 母はまだ何とも言えない表情でフェルナンドを見ていた。


「何です?」


「いいえ」


 母は首を横に振った。


「あなたが思っているより、ずっと真面目にマリアネラ嬢のことを考えたのね、と思って」


「契約相手になるかもしれない方ですよ」


「……そうね」


 母は微笑んだ。


 何故か少しだけ意味ありげに。


 フェルナンドには、その意味が分からなかった。


 ◇◇◇


 その日のうちに、原案はリュミエール公爵家の法務官へ渡された。


 そして翌日。


 法的な表現や細かな条件について修正された書類が、フェルナンドの手元へ戻ってきた。


 それは、マリアネラと庭で話してから二日後。


 デビュタントの夜から数えれば、三日目のことだった。


 同じ日。


 ヴァレンティン男爵家へ、再び一通の招待状が届いた。


「…………」


 マリアネラは、封筒を見つめた。


 見覚えのある紋章。


 リュミエール公爵家。


 つい昨日、訪れたばかりの屋敷である。


「……また?」


 思わず声が漏れた。


「今度は誰からだ?」


 兄のエルネストが尋ねる。


 マリアネラは差出人を確認した。


 そして。


「……フェルナンド様」


「…………」


 エルネストが黙った。


「兄様」


「何だ」


「何、その顔」


「いや」


「何か知っているでしょう」


「知らない」


「では、何?」


「…………」


 エルネストは招待状を見つめた。


 デビュタントの夜。


 妹を見ていた主君。


 その名を尋ねた主君。


 そして翌日。


 両親の思惑によって二人は庭を歩いた。


「……まさか」


「何よ」


「いや。何でもない」


「絶対何かあるでしょう」


「俺にも確証はない」


「では、何を考えているの?」


「……知らない方がいいかもしれない」


「余計に気になるわよ!」


 結局。


 エルネストは、それ以上口を割らなかった。


 ◇◇◇


 何故、私はまたここに居るのだろう。


 マリアネラは昨日とよく似た応接室で、昨日とよく似たことを考えていた。


 違うのは。


 今日は公爵夫妻がいないこと。


 そして。


 正面にフェルナンドが座っていることだった。


「それで?」


 マリアネラは尋ねた。


「今日は、どうして私を?」


「お話ししたいことがあります」


「だから、それは何ですの?」


「結婚についてです」


「…………」


 マリアネラは瞬きをした。


「誰の?」


「私とあなたの」


「…………」


 一度。


 二度。


 そして、目の前に座る青年をじっと見つめる。


「……申し訳ないのだけれど、もう一度仰っていただける?」


「構いませんよ」


 フェルナンドは、いつもと変わらない穏やかな声音で答えた。


「あなたに結婚を申し込もうと考えています」


「…………」


 聞き間違いではなかったらしい。


 マリアネラはゆっくりと紅茶のカップを置いた。


 かちゃり、と。


 小さな音が応接室に響く。


「……三日で?」


「何か問題がありますか?」


「問題しかない気がするのだけれど」


「具体的にお願いします」


「まず、昨日までほとんど話したこともなかったでしょう?」


「三日前は随分話しましたね」


「そういう問題ではないわよ!」


「では、どういう問題でしょう」


「あなた、絶対分かって言っているでしょう」


「いいえ?」


「腹が立つわね……」


 マリアネラは眉間を押さえた。


 この男は、本当に調子が狂う。


「そもそも、あなた。この前、結婚したくないと仰っていたでしょう?」


「積極的に望んではいませんね」


「では、なぜ私に申し込むのよ」


「あなたが適任だからです」


「適任」


「ええ」


「…………」


 求婚されているはずなのに。


 まったく胸が高鳴らない。


 むしろ、何かの役職へ推薦されているような気分だった。


「私を何だと思っているの?」


「マリアネラ・ヴァレンティン嬢ですが」


「そういう意味ではなくて!」


「質問は正確にお願いします」


「本当に一言多いわね!」


「この前も言われました」


「覚えているなら直してくださる?」


「検討します」


「直す気ないでしょう」


 フェルナンドは答えなかった。


 代わりに。


 テーブルの上へ、何枚かの書類を差し出した。


「……何、これ」


「婚姻契約書です」


「…………」


 マリアネラは書類を見た。


 フェルナンドを見る。


 もう一度、書類を見る。


「本気?」


「冗談で法務官の時間を使わせるほど非常識ではありませんよ」


「昨日の今日で法務官にまで見せたの!?」


「不備のある契約書を提示する方が失礼でしょう」


「行動力の使い方がおかしいのよ!」


「そうですか?」


「そうよ!」


 マリアネラは頭が痛くなってきた。


 しかし。


 差し出された以上、内容を見ないわけにもいかない。


 恐る恐る書類を手に取った。


 最初に記されているのは、婚姻の目的だった。


 リュミエール公爵家。


 ヴァレンティン男爵家。


 双方の家系を存続させ、その後継者を確保すること。


 恋愛感情の有無を、婚姻の条件とはしないこと。


「……本当に契約にしてしまったのね」


「一昨日、あなたと話していて思いつきました」


「私のせいなの?」


「きっかけではありますね」


「責任を押しつけないでくださる?」


「事実を述べただけですが」


「それが腹立つのよ」


 マリアネラは次の頁へ進んだ。


 婚姻生活における互いの義務。


 公務や社交では協力する。


 しかし、それ以外の私生活には正当な理由なく干渉しない。


 互いの人格と意思を尊重する。


 公然と愛人を持つことは禁止。


「……ここは随分まともなのね」


「どこならまともではないのです?」


「契約結婚を申し込んでいるところ」


「そこから否定されると困りますね」


「困ってください」


 さらに読み進める。


 そして。


 第三条で、マリアネラの目が止まった。


「……生まれた子のうち、一人をリュミエール公爵家。一人をヴァレンティン男爵家の後継者にする?」


「ええ」


「原則として、男の子はリュミエール家。女の子はヴァレンティン家」


「はい」


 マリアネラは顔を上げた。


「つまり」


「はい」


「子どもが二人必要ということ?」


「両家に一人ずつ後継者を確保するのであれば、原則としては」


「…………」


 何というのだろう。


 話している内容は、間違いなく夫婦になる男女のものだ。


 しかも、その先に生まれる子どもの話までしている。


 それなのに。


 目の前の男から漂う雰囲気は、領地経営の計画でも説明しているかのようだった。


「あなた、本当に分かって言っている?」


「何をです?」


「……もういいわ」


「そうですか」


 マリアネラは顔が熱くなったような気がして、書類へ視線を戻した。


 フェルナンドは不思議そうにしている。


 本当に分かっていないのかもしれない。


 第四条。


 そこへ目を通したところで。


 マリアネラの表情から、少しずつ呆れが消えた。


「……両家に後継者が確保された時点で、この婚姻の目的は達成されたものとする」


「ええ」


「その後、必要な手続きが終われば……」


 文字を追う。


 そして。


 その一文で、指が止まった。


「婚姻関係を解消する」


「はい」


 マリアネラは顔を上げた。


「離婚するということ?」


「そうなりますね」


「最初から?」


「その方が、互いに分かりやすいでしょう」


「…………」


 ようやく。


 この求婚の意味が見えてきた。


 家のために結婚する。


 互いに必要以上のものを求めない。


 二つの家へ後継者を残す。


 目的を達成すれば。


 終わる。


 それだけの婚姻。


 まさしく。


 契約だった。


 馬鹿げている。


 そんな結婚があるものかと思う。


 ところが。


 さらに読み進めるうち、マリアネラは眉を寄せた。


「……離婚した後も、子どもには会えるのね」


「当然でしょう」


「別々の家を継いだ兄弟姉妹も?」


「家が分かれるからといって、兄弟でなくなるわけではありませんから」


「ヴァレンティン家への支援まで……」


「私との婚姻が原因で、あなたの家に不利益が生じるのは本意ではありません」


「私の生活も保障するの?」


「公爵家へ嫁いだ後に離婚するのです。何の保障もなく実家へ戻れという方が無責任でしょう」


「…………」


 思っていたものと違う。


 もっと。


 フェルナンドにとって都合のいい内容なのだと思っていた。


 リュミエール公爵家の後継者を得るため。


 自分は、そのためだけに必要なのだと。


 けれど。


 書かれているのは、フェルナンドの利益だけではない。


 ヴァレンティン家のこと。


 マリアネラ自身のこと。


 まだ存在すらしていない子どもたちのこと。


 離婚した、その後まで。


 妙なほど細かく考えられている。


「……これ、あなたが考えたの?」


「原案は」


「全部?」


「法的な表現については法務官に修正してもらいましたが、条件そのものは私が考えました」


「一晩で?」


「それほど複雑ではありませんよ」


「十分複雑よ」


 マリアネラは呆れた。


 しかし。


 先ほどまでとは、少し違う意味でフェルナンドを見ていた。


 そして。


 最後に近い条項で、再び目が止まる。


「……契約の変更および解除」


 マリアネラは読み上げた。


「双方の合意がある場合に限り、内容の全部または一部を変更できる」


「ええ」


「婚姻の継続や解消について、別の意思を共有するに至った場合も?」


「もちろんです」


「……ここまで決めているのに?」


 フェルナンドは少しだけ首を傾げた。


「今の私たちに、未来の私たちの意思まで決める権利はありませんから」


「…………」


「事情が変わる可能性もあるでしょう。その時は、双方が納得したうえで変更すればいい」


 あまりにも当然のことのように言う。


 マリアネラは、その言葉を聞きながら、もう一度条文へ目を落とした。


 未来の自分たち。


 今はまだ。


 その言葉が何を意味するのかなど、分かるはずもなかった。


「それから」


 フェルナンドが続けた。


「あなたがこの契約を受ける義務はありません」


 マリアネラが顔を上げる。


「断っても?」


「もちろん」


「ヴァレンティン家に何か……」


「するわけがないでしょう」


 わずかに。


 フェルナンドの声に棘が混じった。


「あなたが望まないのであれば、この話はここで終わりです。私があなたへ申し込むことと、あなたが受けることは別の話ですから」


「…………」


「ご両親にも、兄上にも、私から圧力をかけるつもりはありません。必要であれば、契約書を持ち帰って相談していただいて構いませんよ」


「随分、あっさりしているのね」


「無理に結婚していただいても意味がありませんので」


「……そう」


 マリアネラは再び契約書を見る。


 おかしな話だ。


 あまりにもおかしな求婚だ。


 甘い言葉など一つもない。


 愛しているとも。


 幸せにするとも。


 一生そばにいるとも言わない。


 むしろ。


 最初から別れることまで決めている。


 それなのに。


 そこに書かれている条件の一つ一つからは、不思議なほど誠実さが見えた。


 少なくとも。


 自分を軽く扱っているわけではない。


 それだけは、分かった。


「……一つ聞いても?」


「どうぞ」


「どうして私なの?」


 フェルナンドは少し考えた。


「あなたが適任だからです」


「それは先ほど聞いたわ」


「では、何を聞きたいのです?」


「他にもいるでしょう。あなたと結婚したい令嬢なんて、それこそいくらでも」


「だから困るのですよ」


「……はい?」


「私の顔や、公爵夫人という立場に興味のある方と、このような契約を結べると思いますか?」


「…………」


「相手が通常の結婚を望んでいるのに、私はそれに応えるつもりがない。それでは最初から条件が合いません」


 フェルナンドは淡々と続ける。


「あなたは私の顔にも爵位にも、それほど興味がない」


「顔は綺麗だと思っているわよ」


「それはどうも」


「でも、それだけね」


「知っています」


「知っているの?」


「嫌というほど」


「何よ、その言い方」


「褒めていますよ」


「どこが?」


「少なくとも、私にとっては」


「…………」


 また。


 時折、この男はこういうことを言う。


 本人には、おそらく何の意図もない。


 それなのに。


 聞かされた側だけが、妙に調子を狂わされる。


 マリアネラは誤魔化すように契約書へ目を落とした。


「……本当に、変な人ね」


「初めて言われました」


「嘘でしょう」


「少なくとも、面と向かっては」


「皆様、遠慮しているのよ」


「あなたにはないようですね」


「悪かったわね」


「いいえ」


 フェルナンドは、ほんの少し目を細めた。


「だから、あなたがいいのですよ」


「…………」


 マリアネラは黙った。


 数秒。


「……言い方」


「何がです?」


「何でもない!」


 危ない。


 今の言葉だけを聞けば、普通の求婚のようではないか。


 相手はフェルナンドである。


 目の前には婚姻契約書。


 しかも離婚条件付き。


 勘違いしてはいけない。


 マリアネラは小さく息を吐いた。


「それで?」


「はい」


「結局、あなたは私に、何と言っているの?」


 フェルナンドは一瞬だけ黙った。


 紫色の瞳が、まっすぐマリアネラを見る。


 そして。


 これから自分たちの人生を大きく変えることになる言葉を。


 ひどく静かな声で口にした。


「離婚を前提に、私と結婚してください」


 マリアネラは、すぐには答えなかった。


 フェルナンドを見る。


 手元の契約書を見る。


 もう一度。


 フェルナンドを見る。


「……少し、考えさせてください」


「ええ」


 フェルナンドは、迷うことなく頷いた。


「人生に関わることです。すぐに答えていただこうとは思っていません」


「……そう」


 マリアネラは契約書を手に取った。


 まさか。


 一昨日、結婚について話した相手から。


 その二日後に、離婚を条件とした求婚を受けることになるなど。


 誰が想像できただろう。


 少なくとも。


 マリアネラには、できなかった。


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