第二話:なぜ私はここにいるのだろう
何故、私はここに居るのだろう。
マリアネラ・ヴァレンティンは、目の前に置かれた紅茶を見つめながら、先ほどからずっと同じことを考えていた。
場所は、リュミエール公爵邸。
王都でも指折りの名門である、リュミエール公爵家の屋敷。
その応接室である。
「お口に合いませんでしたか?」
「い、いいえ! とても美味しいです」
向かいに座るリュミエール公爵夫人に声をかけられ、マリアネラは慌てて顔を上げた。
上品な微笑みを浮かべた公爵夫人は、「それならよかったわ」と柔らかく笑う。
隣にはリュミエール公爵。
こちらも穏やかな表情を浮かべている。
二人とも親切だ。
歓迎されていることも分かる。
だからこそ。
余計に分からない。
何故、私はここに居るのだろう。
数日前。
ヴァレンティン男爵家へ、一通の招待状が届いた。
差出人は、リュミエール公爵夫妻。
宛名は。
マリアネラ・ヴァレンティン。
何度確認しても、自分だった。
「……私?」
思わずそう呟いたマリアネラの横から、兄であるエルネストが招待状を覗き込んだ。
「リュミエール公爵家から?」
「ええ」
「…………」
「何、その顔」
「いや」
エルネストは少し考え込むように黙った。
「何か知っているの?」
「知っているわけではないが……」
「では、何?」
「…………もしかして、あの時の……?」
「あの時?」
「いや。まさかな」
「何なのよ」
結局、エルネストはそれ以上教えてくれなかった。
両親に尋ねても、心当たりはないという。
ただし。
公爵家から正式な招待を受けた以上、理由が分からないからと断るわけにもいかない。
母からは、
「失礼のないようにね」
と念を押され。
父からは、
「何かあればエルネストもいる」
と言われ。
当のエルネストからは、
「……まあ、悪いことにはならないと思う」
という、妙に歯切れの悪い言葉をもらった。
そして今日。
マリアネラはリュミエール公爵邸へやって来た。
来てしまった。
しかし、到着してからしばらく経っても、招待された理由が一向に分からない。
公爵夫人は最近の社交界について話し。
公爵はヴァレンティン家の近況を尋ね。
マリアネラも令嬢として失礼のないよう答える。
普通だ。
あまりにも普通のお茶会だった。
ただ。
時折、公爵夫妻が意味ありげに視線を交わしているような気がする。
気のせいだろうか。
「先日のデビュタントはいかがでした?」
公爵夫人が尋ねた。
「とても華やかで、少し驚きました」
「初めてですものね」
「はい。人の多さには少し疲れましたけれど」
「まあ」
公爵夫人が楽しそうに笑う。
「では、気になる殿方とお話しする余裕もなかったのかしら」
「気になる殿方、ですか?」
「ええ」
「特には……」
マリアネラは首を傾げた。
何人かの令息とは話した。
しかし、名前と顔が一致する相手はそれほど多くない。
「そう」
公爵夫人が微笑む。
何故だろう。
少し嬉しそうに見えた。
「あなた」
「ああ」
公爵夫妻がまた視線を交わす。
絶対に何かある。
マリアネラがそう確信しかけた、その時だった。
「失礼します」
扉が開いた。
聞き覚えのある声に振り返る。
淡い亜麻色の髪。
紫水晶を思わせる瞳。
先日のデビュタントでも、ひときわ多くの視線を集めていた青年。
フェルナンド・フォン・リュミエールだった。
「父上、母上。お呼びでしょうか」
「ええ。入りなさい」
「では、失礼して……」
言いながら室内へ入ってきたフェルナンドが、マリアネラを見た。
足が止まる。
「…………」
マリアネラも見返した。
「…………」
数秒。
沈黙が落ちた。
「……なぜ、あなたが?」
それはこちらの台詞ですわ。
危うく口から出そうになった言葉を、マリアネラは飲み込んだ。
公爵令息に向かって初手から喧嘩を売るわけにはいかない。
「ごきげんよう、フェルナンド様」
「……ごきげんよう、マリアネラ嬢」
名前を覚えられていた。
少し意外だった。
デビュタントでは、まともに話してすらいない。
ほんの一瞬、目が合っただけだ。
「私たちがお招きしたのよ」
公爵夫人が答えた。
「それは見れば分かります」
「あら」
「私がお聞きしたいのは、なぜマリアネラ嬢を招いたのかということですが」
「それはこちらが聞きたいです」
「え?」
「あ」
出た。
マリアネラは口元を押さえた。
今度は飲み込めなかった。
フェルナンドが瞬きをする。
公爵夫人が扇で口元を隠した。
公爵は顔を逸らしている。
肩が少し揺れているように見えるのは、気のせいであってほしい。
「……失礼いたしました」
「いえ」
フェルナンドは特に気を悪くした様子もなく、マリアネラを見た。
「あなたも理由をご存じないのですか?」
「はい。突然ご招待いただきましたので」
「そうですか」
フェルナンドの視線が両親へ向く。
「父上」
「何だ」
「説明していただけますか?」
「せっかく同じ年頃なのだから、親交を深めてもらおうと思ってな」
「なぜです?」
「理由が必要か?」
「必要でしょう」
「そういうところだぞ」
「何がです?」
公爵が額を押さえた。
マリアネラは黙って紅茶へ口をつける。
何だろう。
この会話。
どこかで聞いたことがあるような気がする。
兄と父が話している時も、たまにこんな空気になる。
「まあまあ」
公爵夫人が手を叩いた。
「今日はお天気もいいですし、せっかくマリアネラ嬢にいらしていただいたのですもの」
嫌な予感がした。
「二人で庭を散歩でもしてきては?」
「…………」
「…………」
フェルナンドとマリアネラは同時に黙った。
そして。
同時に窓の外を見る。
確かに晴れている。
雲も少ない。
庭を歩くには申し分のない天気だ。
だからといって、なぜ二人で歩かなければならないのか。
「母上」
「何かしら?」
「私には、この後」
「予定はないわね」
「…………」
「先ほど確認しましたもの」
「そうですか」
逃げ道を塞がれている。
マリアネラにも分かった。
「マリアネラ嬢も、よろしいかしら?」
断れるわけがない。
「……はい。喜んで」
公爵夫人が満足そうに微笑んだ。
絶対に何かある。
確信に変わった。
◇◇◇
リュミエール公爵邸の庭園は、美しかった。
季節の花々が丁寧に手入れされ、白い石畳の小径がその間を縫うように続いている。
噴水から流れる水の音。
風に揺れる木々。
遠くから聞こえる鳥の声。
申し分のない散歩日和だった。
ただし。
「…………」
「…………」
会話がない。
マリアネラは前を向いて歩いた。
隣を歩くフェルナンドも何も言わない。
気まずい。
非常に気まずい。
先ほどまで公爵夫妻がいた時には、それなりに話せていた。
二人になった途端、これである。
そもそも。
互いに、ここへ来たくて来たわけではない。
フェルナンドは突然呼び出された。
マリアネラは理由も分からず招待された。
話題などあるはずもない。
「……あの」
「何でしょう」
先に口を開いたのはマリアネラだった。
負けた気がする。
何に負けたのかは分からない。
「フェルナンド様は、先日のデビュタントはいかがでした?」
「疲れました」
「…………」
会話が終わった。
「随分、率直ですのね」
「あなたも先ほど、同じことを仰っていたでしょう」
「聞いていたの?」
「入室した時に少しだけ」
「そう」
また沈黙。
だが、今度は先ほどより少しだけ気まずくない。
「でも、随分人気でしたわね」
「そうでしたか?」
「そうでしたかって……」
マリアネラは呆れて横を見る。
「たくさんの令嬢に囲まれていたでしょう?」
「ええ」
「皆様、あなたとお話ししたそうでしたし」
「そうですね」
「きっと、あなたと結婚したい方も多いのでしょうね」
「そうかもしれません」
「他人事なのね」
「他人の気持ちですから」
「…………」
やはり。
少し腹が立つ。
言っていることは間違っていない。
間違っていないからこそ腹が立つ。
「では」
フェルナンドが足を緩めた。
「あなたもですか?」
「何が?」
「私と結婚したいのですか?」
マリアネラは立ち止まった。
フェルナンドも数歩先で止まり、振り返る。
「…………」
マリアネラはその顔をまじまじと見た。
綺麗な人だとは思う。
それは認める。
淡い亜麻色の髪も。
珍しい紫色の瞳も。
整った顔立ちも。
令嬢たちが騒ぐ理由は理解できる。
そのうえ、リュミエール公爵家の嫡男。
結婚すれば、いずれ公爵夫人。
世間一般で言えば、これ以上ないほど魅力的な相手なのだろう。
しかし。
「私なら御免ですけれど」
「…………」
フェルナンドが黙った。
「……随分、はっきり仰るのですね」
「あなたが聞いたのでしょう?」
「ええ。聞きました」
「では、正直に答えただけです」
「そうですか」
怒っただろうか。
少し言いすぎたかもしれない。
そう思ったが。
フェルナンドは、なぜかほんの少しだけ楽しそうに見えた。
「理由を聞いても?」
「公爵夫人なんて面倒そうですもの」
「私の前で言いますか?」
「あなたが理由を聞いたのでしょう」
「そうでしたね」
「それに」
マリアネラは歩き始めた。
フェルナンドも隣へ並ぶ。
「よく知らない方と、家柄だけで結婚するのは嫌ですわ」
「貴族としては珍しい考えですね」
「そうかしら」
「珍しいでしょう。少なくとも、婚姻に家同士の事情が絡むことは避けられません」
「分かっています」
「ならば」
「家同士の事情があることと、それしか見ないことは別でしょう?」
フェルナンドが黙った。
マリアネラは続ける。
「家柄も大切。領地も、財産も、両家の関係も大切。それくらい私にも分かります。でも、一緒に暮らすのは本人たちでしょう?」
「…………」
「何十年も一緒にいるかもしれない相手を、条件だけで決めるなんて、私は嫌です」
少し子どもっぽい考えなのかもしれない。
マリアネラ自身、それは分かっていた。
貴族として生まれた以上、望んだ相手と結婚できるとは限らない。
それでも。
最初から諦める気にはなれなかった。
「……なるほど」
フェルナンドが呟いた。
「では、あなたは恋愛結婚を望んでいるのですか?」
「そこまでは言っていません」
「違うのですか?」
「好きな方ができれば素敵だとは思いますけれど」
「随分曖昧ですね」
「十六歳の令嬢に人生設計の完成度を求めないでくださる?」
「それもそうですね」
「フェルナンド様は?」
「何がです?」
「結婚なさりたいの?」
「いいえ」
即答だった。
あまりにも早かった。
「……少しは考えてから答えてもいいのでは?」
「考える必要がありませんので」
「でも、公爵家の跡取りなのでしょう?」
「ええ。ですから、いずれ結婚はしますよ」
「したくないのに?」
「したいかどうかは、あまり関係がないでしょう」
フェルナンドは前を向いたまま答えた。
「私はリュミエール公爵家の嫡男です。いずれ家を継ぎ、次代へ繋ぐ必要がある。それなら、そのために必要な婚姻をすればいい」
「…………」
「結婚など、家を存続させるための契約に過ぎないでしょう」
あまりにも淡々とした言葉だった。
マリアネラは思わず足を止めた。
フェルナンドが振り返る。
「何です?」
「……いえ」
マリアネラはしばらく彼を見つめた。
綺麗な顔。
整った立ち姿。
公爵家の嫡男として申し分のない教養と振る舞い。
けれど。
結婚について語るその声音には、期待も憧れも何もない。
本当に。
家を残すために必要だからする。
ただそれだけなのだろう。
「……随分、つまらない結婚観ですのね」
「そうでしょうか」
「そうですわ」
「あなたの考えも、十分曖昧だと思いますが」
「夢があると言ってくださる?」
「物は言いようですね」
「本当に一言多い方ね」
「よく言われます」
二人は再び歩き出した。
その後も、取り留めのない話をいくつかした。
思っていたより、会話は続いた。
少し腹は立つ。
けれど。
話しにくい相手ではない。
少なくともマリアネラは、そう思った。
そして。
フェルナンドもまた。
隣を歩く令嬢について、少しだけ認識を改めていた。
自分の顔に興味がない。
公爵家にも興味がない。
公爵夫人という立場など、面倒だから御免だと言う。
遠慮もない。
言葉を飾りもしない。
それなのに。
家柄を軽視しているわけでもない。
貴族としての立場を理解したうえで、自分の考えを持っている。
やはり。
これまで会った令嬢たちとは、少し違う。
そして何より。
彼女の言った言葉が、妙に頭へ残っていた。
つまらない結婚観。
フェルナンドは、自分の言葉を思い返す。
結婚は。
家を存続させるための契約。
恋愛感情など、必要ではない。
互いに果たすべき役割を果たせばいい。
ならば。
最初から。
そういうものとして結婚すればいいのではないか。
「…………」
フェルナンドは隣を歩くマリアネラを見た。
「何です?」
「いえ」
「また何か失礼なことを考えていません?」
「随分な言い掛かりですね」
「日頃の行いでは?」
「今日会ったばかりでしょう」
「十分でしたわ」
「そうですか」
フェルナンドは、それ以上何も言わなかった。
ただ。
一つの考えが、静かに形を取り始めていた。




