第一話:興味のない令嬢
フェルナンド・フォン・リュミエールは、幼い頃からよく褒められる子どもだった。
「まあ、なんて綺麗なお顔なのかしら」
「本当に。お人形のようですわね」
「さすがはリュミエール公爵家のお子様ですこと」
物心がつくよりも前から、何度となく聞いてきた言葉だった。
淡い亜麻色の髪。
光の加減によって色を変える、紫水晶のような瞳。
白い肌に、幼いながらも整った顔立ち。
リュミエール家は、代々容姿の優れた者が多いことで知られている。
なかでも一族に時折現れるアメジストの瞳は、古くからリュミエールを象徴する色として知られていた。
フェルナンドは、その特徴を色濃く受け継いで生まれた。
だから。
褒められることそのものは、珍しくもなかった。
「ありがとうございます」
幼いフェルナンドは、教えられた通りに答えた。
微笑む。
すると、大人たちはさらに喜ぶ。
「まあ!」
「笑うと、もっと可愛らしいですわ」
「将来はどれほど素敵な殿方になるのでしょう」
何がそれほど嬉しいのか、フェルナンドにはよく分からなかった。
けれど、相手が喜んでいるなら、それでいい。
幼い頃は、その程度にしか思っていなかった。
◇◇◇
少し大きくなると、褒め言葉に別のものが混ざるようになった。
「フェルナンド様は、将来リュミエール公爵になられるのでしょう?」
七歳の頃だった。
王都にある、とある侯爵家の茶会。
同じ年頃の令嬢にそう尋ねられ、フェルナンドは首を傾げた。
「その予定ですよ」
「では、奥様は公爵夫人になられるのね」
「そうでしょうね」
「素敵!」
令嬢は目を輝かせた。
何が素敵なのだろう。
フェルナンドには分からなかった。
「私、フェルナンド様のお嫁さんになってもいいわ」
「そうですか」
「嬉しくないの?」
「なぜです?」
「だって、私がお嫁さんになってあげるのよ?」
「頼んでいませんが」
令嬢が固まった。
少し離れた場所にいた大人も固まった。
フェルナンドだけが、不思議そうに瞬きをした。
嘘は言っていない。
頼んだ覚えは、本当になかった。
その日の夜。
父から、
「もう少し言い方を考えなさい」
と言われた。
「断ってはいけなかったのですか?」
「そういう話ではない」
「では、どういう話でしょう」
「……お前は時々、妙なところで難しいな」
結局、よく分からなかった。
◇◇◇
十歳を過ぎた頃から、周囲の態度はさらに分かりやすくなった。
以前なら母親に連れられて挨拶をするだけだった令嬢たちが、自らフェルナンドへ話しかけるようになった。
「フェルナンド様、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
「先日の音楽会にはいらしていました?」
「いいえ」
「まあ。とても素敵でしたのよ。今度ご一緒できたら嬉しいですわ」
「そうですか」
「…………」
会話が終わる。
別の日には。
「フェルナンド様は甘いものがお好き?」
「特には」
「では、お花は?」
「鑑賞する程度には」
「乗馬は?」
「嗜みますよ」
「まあ! 私も乗馬が好きですの!」
「そうですか」
「…………」
やはり、会話が終わる。
どうやら、そこで話を広げなければならないらしい。
それを理解する頃には、フェルナンドはもう、広げる必要性を感じなくなっていた。
彼女たちはフェルナンドと話したい。
しかし、フェルナンド自身について何かを知りたいわけではない。
そう気づくまでに、それほど時間はかからなかった。
リュミエール公爵家の嫡男。
将来の公爵。
珍しいアメジストの瞳。
そして、周囲が褒めそやす容姿。
相手が見ているのは、大抵そのどれかだった。
あるいは、すべて。
それ自体を責める気はなかった。
家柄も容姿も、自分の一部ではある。
貴族の婚姻に家同士の事情が絡むことも当然だ。
ただ。
そこに自分まで興味を持たなければならない理由が、フェルナンドには分からなかった。
◇◇◇
「いい加減、少しは令嬢に興味を持ったらどうだ」
十五歳になったある日。
父の執務室へ呼び出されたフェルナンドは、開口一番そう言われた。
「興味を持てと言われて持てるものなのですか?」
「そういう返しをするところから直してほしい」
「それは難しいですね」
「即答するな」
父が額を押さえる。
傍らで母が笑っていた。
「あなた、諦めなさいな。この子に遠回しな言い方をしても無駄よ」
「分かっている。分かっているが、父親としてはもう少し情緒というものを期待したい」
「情緒ならありますよ」
「どこにだ」
「失礼ですね」
「お前にだけは言われたくない」
フェルナンドは小さく肩を竦めた。
父が深く息を吐く。
「来年にはデビュタントだ」
「ええ」
「分かっていると思うが、お前はリュミエール公爵家の嫡男だ。いずれ結婚し、家を継ぐことになる」
「理解しています」
「なら、少しくらい自分でも相手を探せ」
「必要になれば考えますよ」
「今から考えろと言っている」
「まだ必要になっていませんので」
「…………」
父が黙った。
母が口元を押さえている。
笑いを堪えているらしい。
「母上」
「ごめんなさい。だって、あなたたち、いつも同じ話をしているんですもの」
「私は毎回真剣だ」
「私も真剣ですよ」
「お前が言うと腹が立つな」
「なぜでしょう」
「それが分からんからだ」
理不尽である。
フェルナンドとしては、結婚そのものを拒絶しているわけではなかった。
必要ならする。
公爵家の嫡男として生まれた以上、家を次代へ繋ぐ責任があることも理解している。
ただ、それだけだ。
誰かと恋に落ちたいとも。
愛する女性と家庭を築きたいとも。
考えたことがない。
結婚は、いずれ果たすべき責務の一つ。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
◇◇◇
そして翌年。
フェルナンドは十六歳になった。
春。
王都では、今年十六歳を迎える若者たちのデビュタントを祝う夜会が開かれていた。
広大な大広間にはいくつもの魔導灯が輝き、磨き上げられた床へ柔らかな光を落としている。
楽団が奏でる音楽。
色鮮やかなドレス。
談笑する貴族たち。
フェルナンドが会場へ足を踏み入れた瞬間、いくつもの視線が集まった。
「リュミエール公爵家の……」
「フェルナンド様ですわ」
「まあ、本当にお綺麗……」
聞こえている。
聞き慣れてもいる。
フェルナンドは何も聞こえなかったように歩いた。
父からは、
『今日くらいは愛想よくしろ』
と言われている。
母からは、
『せめて三人くらいとはお話しなさい』
と言われた。
三人。
具体的な人数を指定されたところに、母の諦めが滲んでいる。
「フェルナンド様」
一人目は、入場して間もなく現れた。
「本日はお会いできて光栄ですわ」
「こちらこそ」
「以前、一度だけお茶会でご一緒したことがありますの。覚えていらっしゃいます?」
「申し訳ありません。覚えていませんね」
令嬢の笑顔が引きつった。
横に控えていたエルネストが、ほんの少し視線を逸らした。
「……フェルナンド様」
「何です?」
「いえ。何でもありません」
何か言いたそうだったが、エルネストは黙った。
彼はヴァレンティン男爵家の嫡男であり、二年前からフェルナンドの傍に仕えている。
二歳年上。
騎士としての腕も申し分なく、何より余計なことを言わない。
フェルナンドにとって、数少ない気楽に傍へ置ける人間だった。
「今、何か言いたかったでしょう」
「いいえ」
「顔に出ていますよ」
「主に似たのかもしれません」
「それは嫌味ですか?」
「まさか」
「あなたも随分、言うようになりましたね」
「二年もお仕えしておりますので」
「そうですか」
「ええ」
エルネストの口元が、ほんのわずかに上がる。
そこへ、二人目の令嬢がやって来た。
その後、三人目。
母から課された人数は、早々に達成した。
だからもう十分だろう。
そう考えていたところで。
「フェルナンド」
横から声をかけられた。
「随分と人気だな」
「見ていたのなら助けてください、ニコラス」
「なんで? 面白かったのに」
「そうですか。では、次はあなたに譲りますよ」
「俺が行ったら意味ないだろ」
赤みの強い髪を揺らし、ニコラス・サンドバルが笑う。
侯爵家の次男である彼とは、幼い頃から何度も顔を合わせてきた。
人付き合いを好まないフェルナンドとは正反対で、誰とでも気軽に言葉を交わす。
「それで?」
ニコラスが周囲を見回した。
「気になる子は?」
「いませんね」
「早い早い。まだちゃんと見てないだろ」
「見る必要がありますか?」
「あるだろ。何しに来たんだよ」
「デビュタントですから」
「そういうところだぞ」
「何がです?」
「……まあいいや」
ニコラスまで、父と似たような顔をした。
最近、周囲の人間がよくこの顔をする。
理由は分からない。
「せっかくだし見てみろよ。今年は綺麗な子、多いぞ」
「あなたが選べばいいでしょう」
「俺が選ぶのと、お前が選ぶのは別だって」
「興味がありません」
「知ってる」
ニコラスはあっさり答えた。
そのまま、何気なく会場へ目を向ける。
つられるように。
フェルナンドも視線を動かした。
華やかな令嬢たちがいる。
こちらを見ている者も多い。
目が合えば微笑み。
友人同士で何かを囁き合う。
いつもの光景だ。
だから。
最初は気づかなかった。
少し離れた場所。
壁際に置かれたテーブルの傍で、一人の令嬢が菓子を選んでいた。
深い青色の髪。
淡く、透き通るような緑色の瞳。
派手ではないが、よく似合うドレスを纏っている。
知らない令嬢だった。
彼女が顔を上げる。
一瞬。
目が合った。
「…………」
令嬢はフェルナンドを見た。
確かに見た。
そして。
何事もなかったように、視線を菓子へ戻した。
「…………」
フェルナンドは瞬きをした。
もう一度、令嬢を見る。
こちらを見ていない。
隣にいる令嬢と何かを話しながら、どの菓子を取るか真剣に悩んでいる。
「フェル?」
ニコラスの声がした。
「何です?」
「いや」
ニコラスが、フェルナンドの視線の先を見る。
そして、少しだけ眉を上げた。
「珍しいなと思って」
「何がです?」
「お前が女の子見てる」
「見ていただけですよ」
「だから、それが珍しいんだって」
「そうですか?」
「そうだよ」
フェルナンドは再び令嬢へ目を向けた。
今度は焼き菓子を一つ取ったらしい。
嬉しそうにしている。
それだけだった。
こちらへ来る気配はない。
目が合ったのだから、気づいていないわけでもないだろう。
「……誰です?」
気づけば。
そんな言葉が口から出ていた。
ニコラスが、今度こそはっきりと目を見開いた。
「え?」
「ですから。あの令嬢は誰ですか」
「お前が?」
「質問に質問で返さないでいただけます?」
「いや、だって、お前が?」
「ニコラス」
「分かった、分かったって」
ニコラスは笑いを堪えながら、もう一度令嬢を見た。
しかし答えたのは、隣にいたエルネストだった。
「妹です」
フェルナンドが振り返る。
「あなたの?」
「はい」
エルネストはいつもと変わらない表情で答えた。
「マリアネラ・ヴァレンティン。私の二つ下の妹です」
「……そうですか」
それだけ答えた。
名前を聞いたところで、何かが変わるわけではない。
マリアネラ・ヴァレンティン。
ヴァレンティン男爵家の令嬢。
エルネストの妹。
ただ、それだけのことだ。
フェルナンドはそう思った。
だから。
すぐに忘れるはずだった。
その夜。
何人もの令嬢と言葉を交わした。
何人もの名前を聞いた。
何人もの笑顔を見た。
けれど。
屋敷へ戻った後まで覚えていた名前は。
なぜか、一つだけだった。
マリアネラ・ヴァレンティン。
自分を見て。
何の興味も示さなかった令嬢の名前だった。




