第零話:離婚を前提に
その言葉を聞いた瞬間、マリアネラは瞬きをした。
一度。
二度。
それから、目の前に座る青年をじっと見つめる。
聞き間違いだろうか。
そう思った。
できれば、そうであってほしかった。
「……申し訳ないのだけれど、もう一度仰っていただける?」
「構いませんよ」
フェルナンドは、いつもと変わらない穏やかな声音で答えた。
淡い亜麻色の髪。
紫水晶を溶かし込んだような瞳。
整いすぎて、かえって近寄りがたいほどの顔立ち。
幼い頃から人目を引いてきたその容姿は、成長した今、もはや社交界でも知らぬ者のないものになっている。
舞踏会へ出れば令嬢たちが振り返り、微笑みかけられれば頬を染める者も珍しくない。
おまけに、リュミエール公爵家の嫡男。
容姿も。
家柄も。
将来も。
結婚相手としてこれ以上ない条件を備えた青年なのだろう。
もっとも。
今のマリアネラにとっては、そのどれもが心底どうでもよかった。
「あなたに結婚を申し込んでいます」
フェルナンドは言った。
まるで、明日の予定でも確認するような声音だった。
「……やっぱり、聞き間違いではなかったのね」
「聞き間違えるほど難しいことを申し上げた覚えはありませんが」
「そういうところよ」
「何がです?」
「何でもないわ」
マリアネラは小さく息を吐き、紅茶のカップをソーサーへ戻した。
かちゃり、と。
やけに小さな音が、広い応接室へ響いた。
フェルナンドから話がある。
そう聞かされてリュミエール公爵邸を訪れたのは、つい先ほどのことだ。
まさか、こんな話だとは思っていなかった。
「一応、確認しておきたいのだけれど」
「どうぞ」
「あなたの言う結婚というのは、私があなたの妻になる、あの結婚で間違いないのよね?」
「婚姻届を提出し、あなたがリュミエール公爵家へ入り、私の配偶者になるという意味でしたら、その認識で合っています」
「それ以外にどんな結婚があるのよ」
「ですから、確認する必要はなかったのでは?」
「あなたがあまりにも普通の顔でおかしなことを言うから確認したの!」
「なるほど」
「納得しないでちょうだい」
相変わらずである。
声を荒らげるわけではない。
露骨に嫌味を言っているわけでもない。
それなのに、言葉の端々に妙な棘がある。
本人に悪気がないことが余計に腹立たしい。
「それで?」
マリアネラは腕を組んだ。
「どうして私なの?」
「あなたが適任だからです」
「適任」
「ええ」
「…………」
求婚されたはずなのに、ちっとも胸が高鳴らない。
それどころか、新しい仕事でも任されようとしている気分だった。
「私を何だと思っているの?」
「マリアネラ・ヴァレンティン嬢ですが」
「そういう意味ではなくて」
「では、質問が曖昧ですね」
「…………あなた、本当に腹が立つわね」
「よく言われます」
「言われるのね」
「あなたほど率直に仰る方は多くありませんが」
フェルナンドはわずかに目を細めた。
笑ったようにも見えた。
気のせいかもしれない。
「そもそも」
マリアネラは眉間を押さえる。
「あなた、結婚なんてしたくないんじゃなかったの?」
「積極的に望んではいませんね」
「でしょう?」
「ですが、必要が生じました」
「必要」
「ええ」
「……嫌な予感しかしないのだけれど」
「それは残念ですね」
「他人事みたいに言わないでくださる?」
「あなたの予感ですから、私のものではありません」
「そういうところよ!」
二度目だった。
フェルナンドは不思議そうに瞬きをする。
本当に分かっていないらしい。
マリアネラは天井を仰ぎたくなった。
昔から、この男とは妙に会話が続く。
話しやすいのかと聞かれれば、素直に頷く気にはなれない。
むしろ、時々腹が立つ。
それでも、なぜか話が途切れない。
そんな相手だった。
「それで、その『必要』というのは?」
「こちらを」
フェルナンドがテーブルの上へ一枚の書類を置いた。
いや。
一枚ではない。
何枚か綴じられている。
嫌な予感が、確信に変わった。
「……何、これ」
「婚姻に際しての条件をまとめたものです」
「求婚に書類を持ってくる人、初めて見たわ」
「私も、求婚するのは初めてですので」
「そうでしょうね」
「二度目がある予定もありません」
「そこまで聞いてないわよ」
マリアネラは渋々、差し出された書類を手に取った。
最初の数行へ目を通す。
眉を寄せた。
さらに読み進める。
眉間の皺が深くなった。
家。
相続。
後継者。
互いの義務。
結婚生活における干渉の範囲。
将来について。
そして。
婚姻関係を終了するための条件。
最後まで読み終えた頃には、マリアネラは無言になっていた。
「…………」
「何か問題が?」
「問題しかないように見えるのだけれど」
「具体的にお願いします」
「まず、これを求婚と呼ぶところからよ」
マリアネラは書類を軽く持ち上げた。
「どう見ても契約書でしょう」
「婚姻も契約の一種では?」
「そういう法律の話をしているんじゃないの!」
「では、何の話でしょう」
「情緒よ!」
「なるほど」
「絶対分かってないでしょう」
「努力はしています」
「余計に腹が立つわね……」
深く息を吐く。
しかし、もう一度書類へ視線を落とすと、先ほどとは少し違って見えた。
馬鹿げている。
普通ではない。
少なくとも、世の令嬢が夢見るような求婚とは程遠い。
けれど。
そこに書かれている条件は、一方的ではなかった。
フェルナンドに都合のいいことだけを並べているわけでもない。
マリアネラの立場。
ヴァレンティン家の事情。
結婚によって失うもの。
離婚した後のことまで。
妙なほど細かく考えられている。
「……これ、あなたが考えたの?」
「ええ」
「全部?」
「誰かに考えさせて、自分の結婚に責任を持てるほど器用ではありませんので」
「そこは意外と真面目なのね」
「意外とは余計です」
「だって、今まで誰が結婚の話をしても興味なさそうだったじゃない」
「実際、ありませんでしたから」
「でしょうね」
フェルナンドは否定しなかった。
昔からそうだった。
どれほど令嬢に囲まれようと。
どれほど縁談を持ち込まれようと。
この男が誰かに心を動かされているところなど、マリアネラは見たことがない。
「……普通はね」
マリアネラは書類をテーブルへ戻した。
「結婚を申し込む時には、もう少し言うことがあるものよ」
「そうなのですか?」
「知らないで求婚しているの?」
「必要なことは申し上げているつもりですが」
「愛しています、とか」
「愛していませんね」
「…………」
知っている。
知っているけれど。
即答されると腹が立つ。
「一生大切にします、とか」
「できない約束をする趣味はありません」
「…………」
「少なくとも、あなたを蔑ろにするつもりはありませんよ。それでは不十分ですか?」
「そういう問題では……」
言いかけて、マリアネラは口を閉じた。
紫色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
冗談ではない。
からかっているわけでもない。
フェルナンドは本気だった。
だからこそ。
余計に質が悪い。
「あなたは以前、仰っていたでしょう」
「何を?」
「家柄だけで決められた相手と結婚するくらいなら、しない方がましだと」
マリアネラは目を瞬いた。
「……そんなこと言ったかしら」
「言いました」
「いつ?」
「最初にリュミエール家へ招かれた時です」
「…………よく覚えているわね」
「あなたは、かなり失礼でしたから」
「あなたも大概だったでしょう」
「私は事実を述べただけです」
「それを世間では失礼と言うのよ」
「そうですか」
「そうよ」
あの日のことを、フェルナンドが覚えていた。
その事実が、なぜだか少しだけ引っかかった。
けれど、今はそこを考える時ではない。
「私は今も、結婚そのものに期待していません」
フェルナンドは続けた。
「あなたも、公爵夫人という立場に憧れているわけではないでしょう」
「全然」
「即答ですね」
「面倒そうだもの」
「公爵家の嫡男を前に、随分な言い草ですね」
「あなたが聞いたんでしょう」
「ええ。だからこそ、あなたがいい」
マリアネラは動きを止めた。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
胸の奥で、何かが妙な音を立てた気がした。
しかし。
「……言い方」
「何がです?」
「何でもない!」
やはり、この男には情緒というものが足りない。
危うく勘違いするところだった。
「あなたは私の顔にも、爵位にも、それほど興味がない」
「顔は綺麗だと思っているわよ」
「それはどうも」
「でも、それだけね」
「知っています」
「知ってるの?」
「嫌というほど」
「何よ、その言い方」
「褒めていますよ」
「どこが?」
「少なくとも、私にとっては」
フェルナンドは静かにそう言った。
まただ。
時折、この男はこういうことを言う。
本人には、おそらく何の意図もない。
それなのに、聞かされた側だけが妙に調子を狂わされる。
マリアネラはごまかすように紅茶へ手を伸ばした。
すっかり冷めている。
「互いに恋愛感情はない。過度な干渉も望んでいない。ですが、家の事情を考えれば、私はいずれ結婚しなければならない」
「それで私?」
「ええ」
「随分合理的ね」
「非合理的な理由で一生を決めるよりは良いでしょう」
「……昔から変わらないのね」
「何がです?」
「結婚観」
マリアネラは覚えている。
まだ互いに十六歳だった頃。
結婚する気はないのかと尋ねた自分に、この男は平然と言ったのだ。
結婚など。
家を存続させるための契約に過ぎないでしょう、と。
随分つまらない結婚観だと思った。
まさか。
本当に契約書を作って持ってくる人間がいるとは思わなかったが。
「それで?」
マリアネラは問いかけた。
「はい」
「あなたは結局、私にどうしてほしいの?」
フェルナンドは黙った。
ほんの数秒。
紫色の瞳が、マリアネラを見つめる。
それから。
これから二人の人生を大きく変える言葉を。
あまりにも静かな声で。
フェルナンドは口にした。
「離婚を前提に、私と結婚してください」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
『離婚を前提に結婚してください!』、開幕です。
タイトル通り、初手からなかなか妙な求婚をしております。
結婚を「家を存続させるための契約」と考えるフェルナンドと、そんな彼に遠慮なく言い返すマリアネラ。
果たして、なぜこの二人がこんな契約を結ぶことになったのか。
次話から少し時間を遡り、二人の出会いから物語が始まります。
なお、フェルナンド。
今のうちに申し上げておきます。
その結婚観、よく覚えておいてください。
後々、ものすごい勢いで自分に刺さります( ´•౪•`)




