第十一話:契約の外側
「少し、お話があります」
フェルナンドにそう言われ。
マリアネラは、ますます眉を寄せた。
「……私に?」
「ええ」
何故。
自分が席を外していた僅かな間に。
フェルナンドとエルネストが揃って。
アレハンドラを囲んでいるのか。
しかも。
ルシアとビクトリアまでいる。
「何があったの?」
「それについても含めて、お話ししましょう」
フェルナンドは。
周囲へ視線を向けた。
休憩中とはいえ。
ここは音楽会の会場だ。
既に。
何人かが。
こちらの様子を窺っている。
「ここでする話ではありませんね」
「……そうね」
マリアネラも。
ようやく。
ただ事ではないらしいと気づいた。
そこへ。
「何かございましたか?」
声がかかる。
この音楽会の主催者。
伯爵夫人だった。
フェルナンドが。
そちらを見る。
「少々、問題がありまして」
「問題?」
「ええ」
フェルナンドは。
アレハンドラが持っているグラスへ。
視線を向けた。
「こちらでお話しするには、あまり相応しくない内容かと」
「……分かりました」
伯爵夫人も。
空気を察したらしい。
「では、別室をご用意いたします」
「お願いいたします」
フェルナンドは。
いつもと変わらない。
穏やかな声で答えた。
◇◇◇
通されたのは。
会場から少し離れた。
小さな応接室だった。
伯爵夫人。
フェルナンド。
マリアネラ。
エルネスト。
アレハンドラ。
ルシア。
ビクトリア。
そして。
事情を聞いてついてきたイルムヒルデ。
扉が閉まる。
音楽会のざわめきが。
遠くなった。
「それで」
伯爵夫人が。
フェルナンドを見る。
「何があったのでしょう?」
「私から説明しても?」
「ええ」
フェルナンドは。
アレハンドラへ視線を向けた。
「先ほど」
「…………」
「モンテロ侯爵令嬢が、マリアネラ嬢の席の前で、グラスを傾けようとなさっていました」
「…………!」
マリアネラが。
アレハンドラを見る。
「私の席?」
「ええ」
「ち、違いますわ」
アレハンドラが。
すぐに声を上げた。
「私は、ただ飲み物をいただこうとしていただけです」
「そうなの?」
伯爵夫人が尋ねる。
「はい」
「…………」
「誤解ですわ」
アレハンドラは。
必死に。
平静を保とうとしていた。
「私はただ、喉が渇いて……」
「そうですか」
フェルナンドが言う。
「はい」
「では」
穏やかな。
声だった。
「何故、マリアネラ嬢の椅子の前でグラスを傾けていたのです?」
「…………」
アレハンドラの言葉が。
止まった。
「それは……」
「飲むのであれば、グラスはご自分の口元へ運ぶものだと思っていましたが」
「…………」
「私の認識が間違っていますか?」
「いえ……」
「では、何故です?」
「…………」
答えが。
ない。
「フェルナンド様」
アレハンドラが。
ようやく。
声を絞り出す。
「本当に、誤解なのです」
「誤解」
「はい」
「では」
フェルナンドは。
ルシアとビクトリアを見る。
「お二人は、何をご覧になりましたか?」
「…………」
ルシアの肩が。
小さく揺れた。
ビクトリアも。
俯く。
「ルシア」
アレハンドラが。
呼ぶ。
柔らかい。
だが。
どこか。
牽制するような声だった。
「あなたなら分かるでしょう?」
「…………」
「私は何もしていないわよね?」
「…………」
ルシアは。
手を握った。
三日前。
言えなかった。
昨日も。
言えなかった。
今日も。
止めようとはした。
けれど。
止められなかった。
「ルシア?」
「……いいえ」
「…………え?」
アレハンドラの顔が。
固まった。
「アレハンドラ様は」
ルシアは。
ゆっくり。
顔を上げた。
「マリアネラ様の椅子に、飲み物をこぼそうとしていました」
「ルシア!」
「私は、そう見ました」
「何を言っているの!?」
「…………」
「あなたまで、私を陥れるつもり?」
「違います」
「なら!」
「止めようとはしました」
「…………」
ルシアの声が。
少し震える。
「でも」
一度。
息を吸う。
「実際には、止めませんでした」
「…………」
「声をかけただけです」
「ルシア……」
「それに」
ルシアは。
マリアネラを見る。
目が合う。
逃げたくなる。
それでも。
逸らさなかった。
「私は、これまでにもマリアネラ様へ失礼なことを言いました」
「…………」
「男爵令嬢に公爵夫人が務まるのかと」
「ルシア!」
「笑ったこともあります」
「やめなさい!」
「だから」
ルシアは。
アレハンドラを見る。
「私も同罪です」
「…………!」
「今になって止めようとしたからといって、今までのことがなくなるとは思っていません」
部屋が。
静かになった。
「…………」
マリアネラは。
何も言わず。
ルシアを見ていた。
その隣で。
ビクトリアが。
ぎゅっと。
ドレスを握った。
「……私も」
「ビクトリア?」
「私も、同罪です」
「…………」
「ルシアと同じように、マリアネラ様へ失礼なことを言いました」
「何を……」
「今日も」
ビクトリアは。
俯いたまま続ける。
「アレハンドラ様が何をなさろうとしているのか、分かっていました」
「…………」
「やめた方がいいとは言いました。でも、それだけです」
「あなたたち……」
アレハンドラの顔が。
赤くなる。
けれど。
フェルナンドの前だ。
怒鳴ることもできない。
「どうして……」
声だけが。
僅かに震えた。
「どうして、そんなことを仰るの?」
「…………」
「私たちは、ずっと一緒だったでしょう?」
「だからです」
ルシアが。
小さく答えた。
「だから、もう」
「…………」
「これ以上は、違うと思いました」
「何が違うの?」
「…………」
「今まで一緒に笑っていたのに?」
「……ええ」
「今さら?」
「今さらです」
「…………」
ルシアは。
唇を噛む。
「今さらでも」
それでも。
言った。
「違うと思ったからです」
「…………」
アレハンドラは。
何も返せなかった。
◇◇◇
「少し待って」
マリアネラが。
口を開いた。
「今までのことって」
「…………」
「何の話?」
エルネストが。
嫌な予感を覚えたように。
妹を見る。
「マリー」
「何?」
「お前」
「…………」
「何か知ってるのか?」
「…………」
マリアネラの目が。
少しだけ。
泳いだ。
「別に」
「別に?」
「大したことでは」
「マリアネラ」
今度は。
イルムヒルデだった。
「…………」
「大したことではないかどうかは、後で決めましょう」
「ルディ」
「何?」
「…………」
逃げ道が。
一つ。
塞がれた。
「イルムヒルデ嬢」
フェルナンドが尋ねる。
「何かご存じなのですか?」
「ええ」
「ルディ」
「マリアネラは黙っていて」
「…………」
もう一つ。
塞がれた。
「以前の園遊会で」
イルムヒルデが言う。
「アレハンドラ様が、マリアネラへ飲み物をこぼしました」
「…………」
空気が。
変わった。
「何だって?」
エルネストの声が。
低くなる。
「兄様」
「いつだ」
「だから」
「いつだ」
「……この前よ」
「この前!?」
「声が大きいわ!」
「大きくもなるだろ!!」
「兄様!」
「エルネスト」
フェルナンドが。
静かに呼ぶ。
「…………申し訳ありません」
エルネストは。
何とか。
声量を落とした。
だが。
顔は。
全く落ち着いていない。
「それは」
フェルナンドが。
アレハンドラを見る。
「偶然だったのですか?」
「……はい」
アレハンドラは。
すぐに答えた。
「手が滑ってしまっただけです」
「そうですか」
「ええ」
「マリアネラ嬢」
「…………」
呼ばれ。
マリアネラは。
僅かに視線を逸らした。
「何?」
「あなたは、どう思われましたか?」
「…………」
「偶然だったと?」
「…………」
「マリアネラ嬢」
「……最初は」
「はい」
「そうかもしれないと思ったわ」
「最初は?」
「…………」
フェルナンドの声は。
穏やかなままだ。
それが。
何故か。
逃げにくい。
「グラスを傾ける前から、私を見ていたから」
「…………」
「わざとだと思った」
フェルナンドは。
何も言わなかった。
「でも」
マリアネラは。
慌てて続ける。
「袖が少し濡れただけよ」
「そういう問題じゃないだろ!」
「兄様は黙ってて!」
「黙れるか!!」
「エルネスト」
「……はい」
また。
フェルナンドに止められる。
「…………」
イルムヒルデが。
小さく息を吐いた。
「それだけではないわ」
「ルディ」
「まだあるのか!?」
「兄様!!」
エルネストが。
頭を抱えそうになっている。
「イルムヒルデ嬢」
フェルナンドだけが。
変わらない声で尋ねた。
「続けてください」
「その少し前」
イルムヒルデは。
アレハンドラを見る。
「マリアネラの手袋がなくなったことがあります」
「手袋?」
「席を外した間に、一つだけ」
「…………」
「後から、アレハンドラ様が植え込みの近くで見つけました」
「私が隠したという証拠はありませんわ!」
アレハンドラが。
すぐに言った。
「ええ」
イルムヒルデは。
あっさり頷く。
「証拠はないわ」
「でしたら!」
「だから、私はあなたが隠したとは言っていないでしょう?」
「…………」
「ただ」
銀色の瞳が。
冷静に。
アレハンドラを見る。
「マリアネラが席を外している間に手袋がなくなり、彼女が近づいていない場所から、あなたが見つけた」
「…………」
「それだけよ」
フェルナンドは。
少しだけ。
目を細めた。
「他には?」
「…………」
マリアネラが。
嫌な顔をする。
「もういいでしょう?」
「まだあるのですね」
「…………」
「マリアネラ嬢」
「…………」
「他には?」
「別に」
「マリー」
エルネストまで。
低い声で呼ぶ。
「…………」
「言え」
「兄様まで」
「言え」
「…………」
「マリアネラ様」
その時。
ルシアが。
小さく声を出した。
「…………」
「私が、お話しします」
「ルシア様」
「以前」
ルシアは。
膝の上で。
手を強く握った。
「アレハンドラ様が、マリアネラ様の肩へ、わざとぶつかったことがあります」
「…………」
「私は見ていました」
「ルシア!」
「その時も」
声が。
震える。
「何も言いませんでした」
「…………」
「マリアネラ様は、何も仰いませんでした」
「…………」
「ただ……」
ルシアは。
俯いた。
「私だけは」
「…………」
「わざとだったと、分かっていました」
沈黙。
長い。
沈黙だった。
「……マリー」
エルネストが。
妹を見る。
「何?」
「お前」
「…………」
「何で黙ってた!!」
「だから声が大きいって言ってるでしょう!!」
「何回あったと思ってるんだ!!」
「別に怪我したわけじゃないわよ!」
「そういう問題じゃない!!」
「兄様に言ったら、絶対こうなると思ったのよ!!」
「なるに決まってるだろ!!」
「だから言わなかったの!!」
「マリー!!」
「兄様!!」
「お二人とも」
伯爵夫人が。
困ったように。
声を挟む。
「……申し訳ありません」
「……失礼いたしました」
兄妹が。
同時に黙る。
「…………」
マリアネラは。
ふう、と。
息を吐いた。
だから。
言いたくなかったのだ。
エルネストは。
こうなる。
分かっていた。
自分で対処できる程度のことを。
いちいち。
大事にしたくなかった。
「…………」
ふと。
マリアネラは。
フェルナンドを見る。
「…………」
何も。
言っていない。
ただ。
アレハンドラを。
見ている。
「…………」
その目に。
マリアネラは。
僅かに。
息を止めた。
冷たい。
今まで。
フェルナンドが。
誰かに向けているのを。
見たことがないほど。
冷たい。
怒っている。
そう。
見えた。
けれど。
本人が。
それを自覚しているのかは。
分からなかった。
◇◇◇
「モンテロ侯爵令嬢」
フェルナンドが。
口を開いた。
「……はい」
アレハンドラの声が。
小さくなる。
「手袋については、証拠がありません」
「…………」
「ですから」
フェルナンドは。
淡々と続ける。
「その件について、あなたを責めるつもりはありません」
「……ありがとうございます」
「ですが」
「…………」
アレハンドラの表情が。
固まる。
「証拠のあることだけで、十分ですので」
「…………」
「肩を故意にぶつけたこと」
「…………」
「園遊会で、マリアネラ嬢へ飲み物をかけたこと」
「それは……!」
「そして今日」
フェルナンドの声は。
変わらない。
「彼女の椅子へ、飲み物をこぼそうとしていたこと」
「…………」
「いずれも」
静かに。
言う。
「マリアネラ嬢に対して、なさったことですね」
「…………」
アレハンドラは。
フェルナンドを見る。
その目に。
いつもの。
穏やかな色はなかった。
「フェルナンド様」
震える声で。
名前を呼ぶ。
「私は……」
「何でしょう」
「私は、ただ」
「はい」
「マリアネラ様が……」
言えない。
彼女が。
相応しくないと思った。
自分の方が。
相応しいと思った。
それを。
今。
この人の前で。
言えるはずがなかった。
「……申し訳ありませんでした」
ようやく。
出た言葉は。
それだけだった。
「謝罪を受けるのは、私ではありません」
「…………」
フェルナンドが。
マリアネラを見る。
アレハンドラも。
ゆっくり。
そちらを向く。
「マリアネラ様」
「…………」
「申し訳……ありませんでした」
マリアネラは。
少しだけ。
黙った。
「……ええ」
それ以上は。
何も言わなかった。
許すとも。
許さないとも。
言わない。
「今回の件は」
伯爵夫人が。
重い声で言う。
「私どもの屋敷で起きたことです。モンテロ侯爵家へ、こちらからも正式にご連絡いたします」
「…………」
「本日は、お帰りください」
「……はい」
「また」
フェルナンドが。
続ける。
「リュミエール公爵家からも、改めてモンテロ侯爵家へお話をさせていただきます」
「…………!」
アレハンドラの顔が。
青ざめる。
これは。
令嬢同士の喧嘩では。
もう。
済まない。
正式な婚約を公表された。
次期公爵夫人への。
継続した嫌がらせ。
そして。
今日。
その婚約者本人に。
現場を見られた。
「……分かりました」
アレハンドラは。
俯いた。
「ルシア様とビクトリア様についても」
マリアネラが。
口を開いた。
「…………」
二人が。
顔を上げる。
「今までのことはともかく」
マリアネラは。
フェルナンドを見る。
「今日のことは、止めようとしていたのでしょう?」
「ええ」
フェルナンドが答える。
「少なくとも、私が見た限りでは」
「なら」
「マリアネラ様」
ルシアが。
遮った。
「…………」
「庇わないでください」
「庇っているわけでは」
「今日だけの話ではありません」
「…………」
「私が今まで何を言ったのか」
ルシアは。
唇を噛む。
「私自身が、分かっています」
「…………」
「ですから」
一度。
目を閉じる。
「私も同罪です」
「私もです」
ビクトリアが。
続いた。
「…………」
マリアネラは。
二人を見る。
「……そう」
それしか。
言わなかった。
今。
何を返せばいいのか。
分からなかった。
◇◇◇
アレハンドラたちは。
伯爵夫人と共に。
部屋を出ていった。
正式な話は。
後日。
家同士で行われる。
扉が。
閉まる。
「…………」
静かになった。
「…………」
マリアネラは。
何となく。
嫌な予感がした。
「マリー」
「…………」
エルネスト。
「マリアネラ」
「…………」
イルムヒルデ。
「マリアネラ嬢」
「…………」
フェルナンド。
三方向から。
名前を呼ばれる。
「……何よ」
思わず。
少し。
身を引いた。
「何よ、じゃない!」
「兄様はさっき散々言ったでしょう!」
「まだ足りない!」
「足りてるわよ!」
「足りない!」
「うるさい!」
「マリアネラ」
「ルディまで何よ」
「あなた」
イルムヒルデが。
腕を組む。
「フェルナンドにも、何も話していなかったの?」
「…………」
「その顔は、話していなかったのね」
「別に」
「別に?」
「言うほどのことじゃないでしょう」
「あるでしょう」
「ルディ」
「友人だから言っているの」
「…………」
言葉に。
詰まる。
「少なくとも」
イルムヒルデは。
少しだけ。
声を柔らかくした。
「一人で抱え込む必要はなかったでしょう?」
「抱え込んでなんて」
「いたわよ」
「…………」
「あなたが平気だと思っているかどうかは、関係ないわ」
「…………」
「心配する側の気持ちも、少しは考えなさい」
「…………」
マリアネラは。
何も言えなかった。
「……分かったわよ」
「本当に?」
「分かったって言ってるでしょう」
「ならいいけれど」
イルムヒルデは。
まだ。
少し。
不満そうだった。
「…………」
そして。
もう一人。
何も言わない人物がいる。
マリアネラは。
そちらを見る。
「フェルナンド様?」
「…………」
「何?」
「以前」
ようやく。
フェルナンドが口を開いた。
「少し眠いだけだと仰いましたね」
「…………」
マリアネラの肩が。
僅かに。
固まる。
「あれも」
「…………」
「これが原因だったのですか?」
「…………」
「マリアネラ嬢」
「……まあ」
もごもごと。
答える。
「少しは」
「そうですか」
「でも」
慌てて。
理由を探す。
「本当に、大したことではなかったのよ」
「大したことではない?」
「怪我もしていないし」
「…………」
「自分で対処できると思ったし」
「…………」
「兄様に言ったら、絶対に騒ぐでしょう?」
「騒ぐに決まってるだろ!」
「ほら!!」
「エルネスト」
「……はい」
また。
黙る。
「それに」
マリアネラは。
フェルナンドを見る。
「あなたに言ったら」
「はい」
「婚約者として、対応しなければならなくなるでしょう?」
「…………」
フェルナンドが。
僅かに。
眉を動かした。
「婚約者として対応せざるを得ない、ではありません」
「……え?」
「…………」
自分で。
言ってから。
フェルナンドは。
止まった。
「では」
マリアネラが。
不思議そうに尋ねる。
「何?」
「…………」
答えが。
ない。
婚約者だから。
気にした。
それだけなら。
今の言葉を。
否定する必要はない。
婚約者として。
必要な対応をする。
それで。
終わる。
なのに。
違う。
そう。
思った。
何が。
違うのか。
分からない。
「…………」
「フェルナンド様?」
「……いえ」
「何よ」
「何でもありません」
「何でもないなら」
マリアネラも。
少し、苛立った。
自分でも。
何故かは、分からない。
「やっぱり、言わなくてもよかったでしょう?」
「…………」
「契約上」
その言葉が。
出た。
「あなたに迷惑をかけたわけではないでしょう?」
「…………」
フェルナンドは。
何も言わなかった。
「…………」
マリアネラも。
黙る。
何か。
間違ったことを言っただろうか。
契約には。
互いの役割が。
書かれている。
公の場では。
婚約者として。
夫婦として。
協力する。
家の名誉を守る。
必要以上に。
互いへ干渉しない。
今回のことは。
自分自身の問題だった。
フェルナンドへ。
何かを求める必要はなかった。
だから。
言わなかった。
それだけだ。
間違っていない。
「……そうですか」
フェルナンドが。
言った。
「ええ」
マリアネラも。
答えた。
「…………」
「…………」
妙に。
冷たい。
沈黙が落ちた。
「…………?」
エルネストが。
二人を見る。
何故。
嫌がらせの話をしていたはずなのに。
この二人が。
険悪になっているのか。
分からない。
「……何で喧嘩してるんだ?」
「してないわよ!」
「していません」
同時だった。
「…………」
「…………」
マリアネラと。
フェルナンドが。
互いを見る。
そして。
同時に。
目を逸らした。
「…………」
エルネストは。
ますます。
分からなくなった。
イルムヒルデだけが。
僅かに。
眉を上げた。
◇◇◇
その日のうちに。
音楽会で起きたことは。
それぞれの家へ伝わった。
正式な報告が届くよりも。
社交界の噂の方が。
僅かに。
早かった。
「……そう」
リュミエール公爵邸。
ベアトリスは。
報告を聞き終え。
静かに茶器を置いた。
「モンテロ侯爵令嬢が」
「はい」
「マリアネラの椅子へ、飲み物を?」
「フェルナンド様が、その場でお止めになったそうです」
「…………」
ベアトリスの表情から。
笑みが消えた。
「それだけではないのね?」
「以前にも、何度か」
「……分かったわ」
ベアトリスは。
立ち上がる。
「ロドリゴにも話します」
「かしこまりました」
程なく。
公爵の執務室。
話を聞いたロドリゴも。
長く。
黙っていた。
「継続していたのか」
「ええ」
「フェルナンドは?」
「今日、初めて知ったようよ」
「…………」
「エルネストも」
「マリアネラ嬢は、誰にも話していなかったのか」
「イルムヒルデ嬢は、一部をご存じだったそうだけれど」
「そうか」
ロドリゴは。
机へ指を置く。
「モンテロ侯爵家とは、私が話そう」
「お願い」
「伯爵家からも、正式な報告が来るだろう」
「ええ」
「マリアネラ嬢のご実家にも、こちらから説明が必要だな」
「そうね」
家同士の。
話になる。
それは。
避けられない。
「それで」
ロドリゴが。
妻を見る。
「フェルナンドは?」
「……それが」
ベアトリスは。
少しだけ。
首を傾げた。
「帰ってきてから、妙なのよ」
「妙?」
「いつもより静か」
「いつも静かだろう」
「そうなのだけれど」
「…………」
「何というか」
ベアトリスは。
考える。
「機嫌が悪いの」
「…………」
「多分」
「多分なのか」
「あの子、分かりにくいのよ」
「知っている」
二人は。
揃って。
小さく息を吐いた。
◇◇◇
夕食後。
フェルナンドは。
自室へ戻ろうとしていた。
「フェルナンド」
母に。
呼び止められる。
「何でしょう」
「今日のこと、聞いたわ」
「そうですか」
「お父様にも話したから」
「分かりました」
「モンテロ侯爵家との話は、お父様がなさるわ」
「お願いいたします」
「…………」
「何です?」
ベアトリスが。
息子を見る。
「マリアネラと、何かあった?」
「…………」
「何もありません」
「そう」
「はい」
「…………」
そこへ。
ロドリゴもやってくる。
「何もない顔ではないな」
「…………」
フェルナンドが。
父を見る。
母を見る。
「何です?」
「別に?」
「私は何も言っていない」
「…………」
フェルナンドは。
僅かに眉を寄せた。
「では、失礼します」
「ええ。おやすみなさい」
「おやすみ」
息子が。
階段を上がっていく。
その背中を。
夫婦で見送る。
「……何かあったわね」
「だろうな」
「マリアネラと」
「恐らく」
「…………」
「…………」
ベアトリスは。
夫を見る。
「気になるわ」
「放っておけ」
「分かっているわよ」
「本当か?」
「…………」
「ベアトリス」
「分かっているわ」
少しだけ。
不満そうだった。
◇◇◇
自室へ戻り。
フェルナンドは。
一人。
椅子へ腰を下ろした。
「…………」
静かだ。
いつもと。
何も変わらない。
机。
本棚。
窓。
灯り。
なのに。
落ち着かない。
『契約上、あなたに迷惑をかけたわけではないでしょう?』
「…………」
思い出す。
間違ってはいない。
契約上。
マリアネラの言う通りだ。
彼女が。
他の令嬢から嫌味を言われた。
肩をぶつけられた。
手袋を隠されたかもしれない。
飲み物をかけられた。
それを。
自分へ報告する義務など。
契約には。
書かれていない。
「…………」
それどころか。
必要以上に。
互いへ干渉しない。
そう。
決めたのは、自分だ。
彼女は、契約に従った。
何も。
間違っていない。
なのに。
「…………」
不快だった。
あの言葉を。
聞いた瞬間。
胸の奥に。
何か。
小さな棘が。
刺さったような。
感覚がした。
自分だけ。
知らなかった。
エルネストは。
兄だ。
マリアネラを。
昔から知っている。
イルムヒルデは。
友人だ。
最近。
親しくなった。
自分は。
婚約者。
「…………」
婚約者。
それだけ。
なのだろうか。
『婚約者として、対応しなければならなくなるでしょう?』
違う。
そう。
思った。
『婚約者として対応せざるを得ない、ではありません』
なら。
何なのか。
マリアネラに。
聞かれた。
答えられなかった。
「…………」
フェルナンドは。
目を閉じた。
分からない。
ただ。
一つだけ、分かる。
彼女が、自分に何も話さなかったことが、嫌だった。
その理由だけが、どうしても。
分からなかった。
◇◇◇
同じ頃。
ヴァレンティン男爵邸。
マリアネラも。
自室の寝台へ入っていた。
「…………」
眠れない。
何故。
眠れないのか。
分からない。
今日は、疲れた。
色々あった。
アレハンドラのこと。
ルシアのこと。
ビクトリアのこと。
兄に怒鳴られたこと。
ルディに怒られたこと。
「…………」
なのに。
一番。
頭から離れないのは。
別のことだった。
『婚約者として対応せざるを得ない、ではありません』
「…………」
では。
何だったのか。
聞いた。
フェルナンドは。
答えなかった。
「何なのよ……」
小さく。
呟く。
別に。
答えなくてもいい。
婚約者。
それ以上でも。
それ以下でもない。
二人の関係は。
契約で。
明確に決めた。
結婚する。
それぞれの家の後継者を残す。
目的を果たせば。
離婚する。
互いに。
必要以上に干渉しない。
分かりやすい。
何も。
難しいことはない。
「…………」
『契約上、あなたに迷惑をかけたわけではないでしょう?』
自分が。
言った言葉。
「…………」
あの時。
フェルナンドは。
少し。
傷ついたように。
見えた。
「…………」
気のせいだ。
あの人が。
そんな顔をする理由など。
ない。
契約の話を。
最初にしたのは。
フェルナンドだ。
契約書を。
作ったのも。
フェルナンド。
自分は。
その契約に従っただけ。
「……何で私が気にするのよ」
寝返りを打つ。
目を閉じる。
「…………」
開く。
もう一度。
閉じる。
「…………」
眠れない。
マリアネラは。
布団を。
少しだけ。
引き上げた。
同じ夜。
別々の部屋で。
二人は。
同じ契約を思い浮かべていた。
婚約を。
結婚を。
そして。
いつか来る離婚を。
すべて。
決めたはずの契約。
けれど。
その紙のどこにも。
今。
二人が抱えている感情については。
一言も。
書かれていなかった。




