第十話:同じだった私
「あなたも同じでしょう?」
その言葉が。
三日経っても。
ルシアの耳から離れなかった。
◇◇◇
「……ルシア?」
「え?」
呼ばれて。
ルシアは顔を上げた。
目の前には。
不思議そうにこちらを見るビクトリアがいる。
「どうしたの? さっきから全然聞いていないでしょう」
「……ごめんなさい」
「珍しいわね」
「少し考え事をしていただけよ」
「考え事?」
「ええ」
二人がいるのは。
王都にある菓子店の一角だった。
令嬢たちが気軽に利用できる店で。
今日も多くの客がいる。
いつもなら。
ここにはアレハンドラもいる。
だが今日は。
家の用事があると言って来ていなかった。
「ねえ、ビクトリア」
「何?」
「……この前のことだけれど」
「この前?」
「園遊会よ」
「…………」
ビクトリアの表情が。
少しだけ変わった。
「アレハンドラ様のこと?」
「ええ」
「…………」
ルシアは。
膝の上で手を組んだ。
「あれは……やりすぎだと思わない?」
「…………」
ビクトリアは。
何も言わなかった。
「手袋のことも」
「…………」
「本当にアレハンドラ様がなさったのかは分からないわ。でも、この前の飲み物は……」
「ルシア」
「何?」
「それを言うなら」
ビクトリアは。
そこで。
言葉を止めた。
「…………」
「何?」
「……いいえ」
「ビクトリア」
「私たちだって」
小さな声だった。
「…………」
「今まで、何もしていなかったわけじゃないでしょう」
「…………」
その通りだった。
嫌味を言った。
笑った。
マリアネラが困ればいいと。
思ったこともある。
「でも」
ルシアは。
俯いた。
「だからって、これからも続けていいわけじゃないでしょう?」
「…………」
ビクトリアは。
答えなかった。
否定も。
肯定も。
しなかった。
ただ。
紅茶へ視線を落とす。
「……ごめんなさい」
ルシアが言った。
「どうして謝るの?」
「分からない」
「…………」
「でも」
ルシアは。
小さく息を吐いた。
「もう、前みたいに笑えないの」
「…………」
ビクトリアは。
最後まで。
何も言わなかった。
◇◇◇
その頃。
アレハンドラは。
自室で一人。
鏡の前に座っていた。
「…………」
鏡に映る自分を見る。
侯爵令嬢。
幼い頃から。
そうあるための教育を受けてきた。
礼儀作法。
社交。
舞踏。
音楽。
家政。
高位貴族の夫人となっても恥ずかしくないように。
そう育てられてきた。
フェルナンドを知ったのも。
随分前のことだ。
リュミエール公爵家の嫡男。
王家にも近く。
そして。
誰もが目を奪われるほど美しい少年。
いつか。
彼が婚約する日が来る。
それは分かっていた。
自分である可能性も。
あると思っていた。
少なくとも。
彼の隣に立つのは。
侯爵家か。
それに準ずる家柄の令嬢。
そう思っていた。
なのに。
「……男爵令嬢」
小さく。
呟く。
マリアネラ・ヴァレンティン。
確かに。
ヴァレンティン家は古い。
建国以来続く騎士の家として。
名も知られている。
それでも。
男爵家だ。
何故。
彼女なのか。
何故。
自分ではないのか。
『私を選んだのは、フェルナンド様よ』
「…………」
あの言葉が。
腹立たしい。
何度思い出しても。
腹立たしい。
そして。
否定できないことが。
何よりも。
腹立たしかった。
フェルナンドが。
マリアネラを選んだ。
誰かに命じられたわけでもなく。
政略で決められたわけでもない。
少なくとも。
表向きは。
「…………」
ルシアも。
最近は。
何も言わなくなった。
ビクトリアも。
以前ほど。
楽しそうには笑わない。
「……もういいわ」
誰も。
分かってくれないのなら。
「私一人でも」
アレハンドラは。
鏡から目を逸らした。
◇◇◇
同じ日の午後。
マリアネラのもとへ。
一通の手紙が届いた。
「私に?」
「はい。アルヴェーヌ辺境伯家のご令嬢からです」
「ルディ?」
受け取る。
封を開けば。
整った文字が並んでいた。
『先日お話ししていた本を見つけました。
以前読んだものですが、よろしければ次にお会いする時にお持ちします。
あなたなら、きっと気に入ると思います。
イルムヒルデ・アルヴェーヌ』
「…………」
マリアネラは。
もう一度。
最初から読む。
ただ。
本を貸してくれる。
それだけの手紙だ。
「…………」
なのに。
少し。
嬉しい。
「お返事をお書きになりますか?」
「ええ」
答えてから。
マリアネラは便箋を用意した。
友人から。
手紙をもらう。
そして。
返事を書く。
「…………」
悪くない。
そんなことを思いながら。
マリアネラは。
ペンを取った。
◇◇◇
翌日。
マリアネラは。
リュミエール公爵邸を訪れていた。
今日は。
ベアトリスから。
結婚後に参加することになる慈善事業について、話を聞く予定だった。
「こちらは、王都の孤児院への援助ね」
「はい」
「毎年、冬になる前に必要なものを確認しているの」
「衣類ですか?」
「それと燃料ね。食料は一年を通して援助しているわ」
「なるほど」
話を聞きながら。
マリアネラは必要なことを書き留めていく。
「去年の記録も見る?」
「お願いします」
「では、後で持ってこさせるわ」
一区切りついたところで。
茶が運ばれてきた。
今日も。
フェルナンドが同席している。
「…………」
マリアネラは。
菓子の皿を見る。
見覚えのあるものがあった。
「……また、これ?」
「お嫌いでしたか?」
フェルナンドが尋ねる。
「好きだけど」
「では、問題ありませんね」
「…………」
やはり。
覚えているらしい。
「あなた」
「はい」
「毎回これを出すつもり?」
「毎回ではありません」
「そうなの?」
「同じものばかりでは飽きるでしょう」
「…………」
そこまで。
考えているのか。
「そう」
「はい」
マリアネラは。
少しだけ。
口元を緩めた。
そして。
茶器へ目を向ける。
今日は。
まだ茶葉が選ばれていない。
「何になさいますか?」
使用人に尋ねられ。
「私は……」
マリアネラは。
並べられた茶葉を見る。
その中に。
見慣れたものを見つけた。
「こちらでいいわ」
「かしこまりました」
「フェルナンド様も、これでいいでしょう?」
「…………」
「何?」
「いえ」
フェルナンドが。
わずかに目を瞬く。
「私がこれを好むと、覚えていたのですか?」
「何度も飲んでいるでしょう」
「そうですね」
「婚約者なんだから、それくらい覚えるわ」
「…………」
「何よ」
「いえ」
フェルナンドは。
マリアネラの前にある菓子を見る。
「私も同じ理由ですので」
「…………」
「菓子のことです」
「分かってるわよ」
「そうですか」
「ええ」
「なら、いいのですが」
「…………」
何故だろう。
何となく。
負けたような気がする。
「…………」
向かい側から。
視線を感じた。
「…………」
ベアトリスだった。
マリアネラを見る。
フェルナンドを見る。
もう一度。
マリアネラを見る。
「……何です?」
フェルナンドが尋ねた。
「いいえ?」
「何か仰りたいことがあるように見えますが」
「別に?」
「そうですか」
「ええ」
ベアトリスは。
楽しそうに茶を飲んだ。
「…………」
マリアネラは。
何となく。
聞いてはいけない気がした。
◇◇◇
その日の帰り。
「フェルナンド様」
マリアネラが馬車へ乗った後。
エルネストが。
フェルナンドを呼び止めた。
「何です?」
「少し、お話が」
「マリアネラ嬢についてですか?」
「…………」
エルネストが。
僅かに目を見開く。
「何故そう思われたんです?」
「あなたが私だけを呼び止める理由が、それ以外に思いつきませんでしたので」
「…………」
「違いましたか?」
「いいえ」
「では、こちらへ」
二人は。
玄関から少し離れた場所へ移動した。
「最近」
エルネストが言う。
「マリーの様子が、少しおかしいと思いませんか」
「……やはり、あなたもそう思いますか」
「はい」
フェルナンドの表情が。
僅かに変わる。
「本人には?」
「聞きました。何もないと言われました」
「私もです」
「…………」
「社交が続いて疲れているだけだと」
「俺には、眠いだけだと」
「…………」
「…………」
二人は。
しばらく。
黙った。
「違いますね」
フェルナンドが言った。
「俺もそう思います」
「ですが」
フェルナンドは。
少し考える。
「本人が話したくないことを、無理に聞き出すつもりはありません」
「俺もです」
「とはいえ」
「何もないとは思えない」
「ええ」
意見が。
一致した。
「少し」
エルネストが。
声を落とす。
「調べますか」
「そうしましょう」
「ただし」
「本人には知られないように、ですね」
「……はい」
「あなたが動けば、すぐに気づかれそうですが」
「何故です!?」
「妹君のことになると、分かりやすいので」
「…………」
「否定なさらないのですか?」
「できません」
「そうですか」
「フェルナンド様も、人のことは言えないと思いますが」
「何故です?」
「…………」
エルネストは。
フェルナンドを見る。
「何です?」
「いえ」
まだ。
本人は。
気づいていないらしい。
「何でもありません」
「そうですか」
「はい」
二人は。
マリアネラの乗る馬車へ戻った。
◇◇◇
さらに二日後。
王都の伯爵邸で。
小規模な音楽会が開かれた。
招待客は。
若い貴族を中心に。
三十名ほど。
マリアネラも。
フェルナンドと共に招かれていた。
「マリアネラ」
「ルディ」
「この前の手紙、届いた?」
「ええ。返事も出したでしょう?」
「届いたわ」
「本は?」
「持ってきたわよ」
「ここに?」
「馬車に置いてあるわ。帰りに渡す」
「ありがとう」
「どういたしまして」
二人が話している。
少し離れた場所で。
フェルナンドは。
その様子を見ていた。
「仲良くなったな」
隣にいたエルネストが言う。
「そのようですね」
「よかった」
「友人が増えることが?」
「マリーは、気の合わない相手に無理に合わせる方じゃないので」
「なるほど」
「イルムヒルデ嬢とは、本当に気が合うんでしょう」
「…………」
フェルナンドは。
マリアネラを見る。
笑っている。
少なくとも。
今は。
いつもの彼女だった。
「…………」
だが。
何もない。
そうは。
やはり思えなかった。
◇◇◇
「アレハンドラ様」
会場の反対側。
ルシアが。
小さな声で呼んだ。
「何?」
「……今日は」
「何?」
「いえ」
続かなかった。
ビクトリアも。
隣で黙っている。
「何なの、二人とも」
「…………」
「最近、ずっとそうね」
アレハンドラが。
苛立ったように言う。
「何か言いたいことがあるなら、言えばいいでしょう?」
「…………」
「…………」
どちらも。
言わない。
「……もういいわ」
アレハンドラが。
二人から目を逸らした。
「あなたたちが何もしないなら、私一人で結構よ」
「アレハンドラ様」
ルシアが。
思わず呼ぶ。
「何?」
「もう……」
「もう?」
「…………」
また。
言えない。
「ほら」
アレハンドラは。
冷たく笑った。
「何も言えないじゃない」
「…………」
「なら、黙っていて」
そう言って。
アレハンドラは。
二人から離れた。
◇◇◇
演奏が。
一度。
休憩に入った。
招待客たちは。
用意された飲み物や軽食を手に。
思い思いに話をしている。
「少し失礼するわ」
マリアネラが。
イルムヒルデへ声をかける。
「ええ」
席を立つ。
その姿を。
アレハンドラが見ていた。
「…………」
空いた椅子。
その座面には。
淡い色の布が張られている。
アレハンドラは。
近くに置かれていたグラスへ。
手を伸ばした。
「アレハンドラ様」
ルシアが。
低い声で呼ぶ。
「何?」
「何をなさるおつもりですか」
「何も」
「それなら、そのグラスは」
「喉が渇いただけよ」
「…………」
アレハンドラは。
マリアネラの席へ近づく。
「やめた方が……」
今度は。
ビクトリアだった。
「…………」
アレハンドラが。
振り返る。
「何?」
「いえ……」
「二人とも」
声が。
冷たくなる。
「黙っていて」
「でも」
「いいから」
グラスを持つ手が。
動く。
少し。
傾く。
その時だった。
「何をなさっているのです?」
「…………!」
アレハンドラの手が。
止まった。
ゆっくり。
振り返る。
「フェ……」
声が。
震える。
「フェルナンド様……」
そこに。
フェルナンドが立っていた。
その少し後ろには。
エルネストもいる。
「質問にお答えいただけますか?」
「…………」
「そのグラスを持って」
フェルナンドの視線が。
マリアネラの椅子へ向く。
「何をなさっていたのです?」
「これは……」
アレハンドラの顔から。
血の気が引いていく。
「何も」
「何も?」
「ええ。ただ……」
「ただ?」
「…………」
答えが。
出ない。
フェルナンドは。
怒鳴らない。
声を荒らげもしない。
ただ。
いつもの。
穏やかな敬語で。
「もう一度、お尋ねします」
「…………」
「何をなさっていたのです?」
「…………」
ルシアも。
ビクトリアも。
何も言えなかった。
その時。
「……何?」
マリアネラの声がした。
戻ってきた。
そして。
フェルナンド。
エルネスト。
アレハンドラ。
ルシア。
ビクトリア。
その全員を見る。
「何をしているの?」
「マリー」
エルネストが呼ぶ。
「兄様?」
「…………」
エルネストは。
妹を見る。
次に。
アレハンドラを見る。
「マリアネラ嬢」
フェルナンドが。
静かに言った。
「少し、お話があります」
「…………?」
マリアネラは。
眉を寄せた。
◇◇◇
その夜。
ルシアは。
自室の机に座っていた。
目の前には。
白い便箋。
「…………」
今日。
アレハンドラは。
フェルナンドに見つかった。
あの後。
何が話されたのか。
ルシアは。
最後まで聞いていない。
ただ。
一つだけ。
分かっている。
自分は。
また。
止められなかった。
「…………」
止めようとはした。
声もかけた。
でも。
それだけ。
アレハンドラに。
黙っていてと言われて。
それ以上。
何もできなかった。
「…………」
ルシアは。
ペンを取った。
便箋の上へ。
ゆっくり。
文字を書く。
『マリアネラ様へ』
そこで。
手が止まった。
「…………」
何を書けばいい。
ごめんなさい。
今まで。
嫌味を言って。
笑って。
あなたが困ればいいと思って。
ごめんなさい。
そんな言葉で。
済むのだろうか。
「…………」
『あなたも同じでしょう?』
アレハンドラの声が。
蘇る。
その通りだ。
自分も。
同じだった。
今さら。
違う顔をして。
謝って。
それで。
許してもらおうというのか。
「…………」
謝る資格など。
自分に。
あるのだろうか。
ペン先から。
一滴。
インクが落ちた。
マリアネラの名の下に。
小さな黒い染みが。
広がっていく。
ルシアは。
それを。
ただ。
見つめていた。




