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離婚を前提に結婚してください!  作者: 春野清花


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13/17

第十二話:契約とは関係なく

 音楽会での一件から。


 三日が経った。



 ◇◇◇



 リュミエール公爵邸の応接室には、普段とは違う。


 重い空気が流れていた。


 上座には。


 ロドリゴとベアトリス。


 その傍らに、フェルナンド。


 向かいには。


 モンテロ侯爵夫妻と。


 その娘、アレハンドラが座っている。


 そして。


 今回の件で。


 直接被害を受けたマリアネラと。


 その父、ヴァレンティン男爵も同席していた。


「この度は」


 最初に口を開いたのは。


 モンテロ侯爵だった。


「娘がマリアネラ様になしたことについて、親として、またモンテロ侯爵家当主として、深くお詫び申し上げます」


 侯爵が。


 深く頭を下げる。


 隣に座る夫人も。


 同じように頭を下げた。


「申し訳ございませんでした」


「…………」


 マリアネラは。


 少しだけ。


 居心地の悪さを覚えた。


 自分より。


 遥かに高位の侯爵夫妻が。


 自分へ頭を下げている。


 だが。


 これは。


 爵位の上下だけで済ませていい話ではない。


 それも。


 分かっている。


「顔をお上げください」


 マリアネラが言う。


「…………」


 侯爵夫妻が。


 ゆっくりと顔を上げた。


「謝罪は、お受けいたします」


「ありがとうございます」


「ただ」


 マリアネラは。


 アレハンドラを見る。


「私が腹を立てているかどうかだけの問題ではないことも、分かっています」


「…………」


「ですから、今後については両家でお決めください」


「……承知いたしました」


 モンテロ侯爵が答える。


 その顔には。


 疲労が滲んでいた。


 娘が。


 何をしたのか。


 詳しく知ったのだろう。


 肩をぶつけた。


 飲み物をかけた。


 そして。


 婚約者の椅子へ。


 飲み物をこぼそうとしたところを。


 次期リュミエール公爵本人に見つかった。


 一つだけなら。


 若い令嬢同士の諍いとして。


 厳重に注意するだけで。


 済んだかもしれない。


 だが。


 繰り返されていた。


 しかも。


 相手は。


 正式に婚約が公表されている。


 次期リュミエール公爵夫人だ。


 もはや。


 アレハンドラ一人の問題ではなかった。


「アレハンドラ」


 侯爵夫人が。


 娘を見る。


「…………」


 アレハンドラは。


 膝の上で。


 手を握りしめた。


 そして。


 立ち上がる。


「マリアネラ様」


「…………」


「この度は」


 僅かに。


 声が震えた。


「私の軽率な行いにより、不快な思いをさせてしまい……申し訳ございませんでした」


 深く。


 頭を下げる。


「…………」


 マリアネラは。


 その姿を見た。


 心から。


 納得しているのか。


 反省しているのか。


 それは。


 分からない。


 けれど。


 今。


 それを問い詰める必要もないと思った。


「謝罪は受け取ります」


「……ありがとうございます」


 アレハンドラが。


 顔を上げる。


 その視線が。


 一瞬だけ。


 フェルナンドへ向いた。


「…………」


 フェルナンドは。


 何も言わなかった。


 いつも通り。


 整った顔には。


 ほとんど表情がない。


 けれど。


 アレハンドラは。


 すぐに。


 目を逸らした。


 あの日。


 向けられた視線を、まだ。


 忘れられていなかった。


「今後についてですが」


 ロドリゴが。


 静かに口を開く。


「我が家としては、マリアネラ嬢への接触を、当面控えていただきたい」


「当然のことと存じます」


 モンテロ侯爵が。


 すぐに答える。


「また、娘の社交活動についても、当面、全て辞退させます」


「…………」


「本人にも、自分が何をしたのか、十分に考えさせます」


「分かりました」


 ロドリゴは。


 それ以上。


 追及しなかった。


 家同士として。


 必要な線引きをする。


 それで。


 今回の会談は。


 終わる。


「ヴァレンティン男爵」


 モンテロ侯爵が。


 改めて。


 マリアネラの父を見る。


「本当に、申し訳なかった」


「…………」


 ヴァレンティン男爵は。


 暫く。


 侯爵を見た。


「娘が怪我をしなかったことだけは、幸いでした」


「……ああ」


「ですが」


 声が。


 少しだけ。


 低くなる。


「二度とないようにしていただきたい」


「無論だ」


「それなら、私からはそれ以上申し上げることはありません」


「感謝する」


 父親同士が。


 短く。


 言葉を交わす。


「…………」


 マリアネラは。


 その横顔を見た。


 父も。


 怒っている。


 当然だ。


 兄だけではなかったらしい。


 そのことに。


 今さら気づいた。


「…………」


 何となく。


 肩を縮めた。



 ◇◇◇



 モンテロ侯爵家の馬車が。


 リュミエール公爵邸を離れていく。


 車内で。


 アレハンドラは。


 一言も話さなかった。


 父も。


 母も。


 今は。


 何も言わない。


「…………」


 窓の外を見る。


 王都の景色が。


 流れていく。


 これまで。


 何度も通った道。


 何度も参加した。


 茶会。


 夜会。


 音楽会。


 自分が行けば。


 誰かが話しかけてきた。


 侯爵令嬢。


 アレハンドラ・モンテロ。


 それだけで。


 人は集まった。


「…………」


 けれど。


 次に。


 いつ。


 その場所へ戻れるのか。


 分からない。


 戻った時。


 以前と同じように。


 人が集まるのかも。


 分からない。


『マリアネラ嬢に対して、これを繰り返していたのですね』


「…………」


 あの声が。


 まだ。


 耳に残っている。


 怒鳴られたわけではない。


 責め立てられたわけでもない。


 ただ。


 冷たかった。


 自分という人間そのものが。


 彼の視界から。


 切り離されたような。


 そんな目だった。


「…………」


 アレハンドラは。


 膝の上で、指を強く握った。


 そして。


 その日を境に。


 彼女の名が。


 社交の場で語られることは。


 少しずつ。


 減っていった。


 誰かが。


 露骨に悪口を言うわけではない。


 誰かが。


 面と向かって責めるわけでもない。


 ただ。


 招待状が減る。


 話題に出されなくなる。


 以前なら、彼女の周りにいた令嬢たちも。


 自然と、別の輪へ移っていく。


 リュミエール公爵家から。


 正式に抗議を受けた令嬢。


 その事実だけで十分だった。


 貴族社会は。


 時に。


 言葉よりも。


 沈黙の方が。


 雄弁だった。



 ◇◇◇



 同じ日の午後。


 ヴァレンティン男爵邸に。


 一台の馬車が停まった。


「お客様?」


 マリアネラは。


 侍女から告げられ。


 首を傾げた。


「はい」


「誰?」


「メンドーサ子爵令嬢でございます」


「…………」


 マリアネラは。


 一度。


 瞬きをした。


「ルシア様?」


「はい」


 先触れは。


 届いていた。


 会ってほしい。


 話したいことがある。


 ただ。


 それだけ。


 何の話なのかは。


 書かれていなかった。


「……分かったわ」


 マリアネラは。


 立ち上がった。



 ◇◇◇



 応接室へ入ると。


 ルシアは。


 一人だった。


「ごきげんよう、マリアネラ様」


「ごきげんよう、ルシア様」


 互いに。


 礼をする。


「どうぞ、座って」


「ありがとうございます」


 二人が。


 向かい合って座る。


 侍女が。


 茶を用意する。


「…………」


「…………」


 会話が。


 ない。


 これまで。


 二人だけで。


 話したことなど。


 ほとんどなかった。


 あるとしても。


 アレハンドラやビクトリアと。


 一緒にいる時。


 それも。


 友好的なものではない。


「それで」


 マリアネラが。


 先に口を開いた。


「お話って?」


「……はい」


 ルシアは。


 膝の上で。


 手を握った。


「マリアネラ様に」


「…………」


「謝りたくて、参りました」


「…………」


「先日のことだけではありません」


 マリアネラは。


 黙って。


 続きを待つ。


「今まで」


 ルシアが。


 ゆっくり。


 言葉を選ぶ。


「私は、何度もマリアネラ様へ失礼なことを言いました」


「…………」


「男爵令嬢なのに、と」


「…………」


「フェルナンド様の婚約者には相応しくないと」


「…………」


「アレハンドラ様やビクトリア様と一緒に、笑ったこともあります」


「ええ」


 マリアネラは。


 否定しなかった。


「覚えているわ」


「……はい」


 ルシアの指が。


 僅かに、震えた。


「私は」


「…………」


「アレハンドラ様に流されていました」


「…………」


「でも」


 すぐに、続ける。


「それを、言い訳にするつもりはありません」


「…………」


「誰かに言わされたわけではありません」


「…………」


「私は、自分で言いました」


「…………」


「自分で笑いました」


「…………」


「ですから」


 ルシアは。


 マリアネラを。


 真っ直ぐ見る。


「私が悪かったです」


「…………」


「申し訳ありませんでした」


 頭を下げる。


「…………」


 マリアネラは。


 何も言わず。


 その姿を見た。


 昨日まで。


 いや。


 ほんの少し前まで。


 この令嬢は。


 自分を見て。


 笑っていた。


 嫌味を言った。


 アレハンドラの隣で。


 何度も。


 けれど。


 今。


 目の前にいるルシアは。


 そのことを。


 誰かのせいには。


 しなかった。


「……手紙を」


 頭を下げたまま。


 ルシアが言う。


「書こうとしました」


「手紙?」


「はい」


「…………」


「何度も」


 ルシアの声が。


 少し。


 掠れる。


「でも」


「…………」


「書けませんでした」


「どうして?」


「……分からなくなったんです」


 ルシアは。


 ゆっくり。


 顔を上げる。


「何を書けばいいのか」


「…………」


「ごめんなさいと書いて」


「…………」


「それで、私がしたことがなくなるわけではありません」


「…………」


「それに」


 一度。


 息を吸う。


「紙の向こうから謝るのは、違うと思いました」


「…………」


「怖くても」


「…………」


「ちゃんと、マリアネラ様の前で言わなければいけないと思ったんです」


「…………」


「許していただこうとは、思っていません」


 ルシアの声が。


 震える。


「ただ」


「…………」


「謝らせてください」


 もう一度。


 深く。


 頭を下げた。


「本当に」


「…………」


「申し訳ありませんでした」


 静かだった。


 時計の針が。


 進む音だけが。


 聞こえる。


「……腹は立ったわ」


 マリアネラが。


 言った。


「…………はい」


「嫌なことも言われたと思ってる」


「はい」


「面倒だとも思った」


「……はい」


「だから」


 マリアネラは。


 少しだけ。


 息を吐く。


「なかったことにはしないわ」


「…………」


 ルシアが。


 顔を上げる。


「忘れたわけでもない」


「はい」


「でも」


 マリアネラは。


 真っ直ぐ。


 ルシアを見る。


「今のあなたには、もう腹は立ってないわ」


「…………」


 ルシアの目が。


 大きくなる。


「あなたが今日」


「…………」


「ここへ来て」


「…………」


「自分の口で言ってくれたことは」


 マリアネラは、少しだけ。


 笑った。


「ちゃんと覚えておく」


「…………」


 ルシアの目に。


 熱いものが。


 込み上げた。


 泣きそうになる。


 けれど。


 泣かなかった。


 今。


 泣いて。


 自分が楽になるのは。


 違う気がした。


 唇を。


 強く結ぶ。


 一度。


 息を整える。


「……ありがとう」


 それでも。


 声が。


 少し震えた。


「ございます」


「…………」


「謝罪を受け取ってくださって」


 ぐっと。


 堪える。


「ありがとう、ございます!」


「……ええ」


 マリアネラは。


 それ以上。


 何も言わなかった。


 許す。


 許さない。


 そんな言葉も。


 必要ないと思った。


 ただ。


 目の前の謝罪を。


 受け取った。


 それで。


 今は。


 十分だった。



 ◇◇◇



 帰り際。


 玄関で。


 ルシアが振り返った。


「それでは、マリアネラ様」


「ええ」


「失礼いたします」


「ごきげんよう、ルシア様」


「…………」


 一瞬。


 ルシアが。


 驚いたような顔をする。


 そして。


 小さく。


 微笑んだ。


「ごきげんよう、マリアネラ様」


 それだけ。


 だった。


 友人になったわけではない。


 これまでのことが。


 消えたわけでもない。


 けれど。


 次に会った時。


 もう。


 互いに。


 目を逸らす必要はない。


 そのくらいの距離には。


 なった。



 ◇◇◇



「……一人で?」


 同じ頃。


 ビクトリアは。


 ルシアがヴァレンティン男爵邸を訪れたと聞き。


 目を瞬いた。


「ええ」


 共通の知人が。


 何気なく答える。


「お一人だったそうよ」


「…………そう」


 ビクトリアは。


 それだけ答えた。


「…………」


 ルシアは。


 行った。


 一人で。


 マリアネラのところへ。


「…………」


 自分も。


 あの日。


 言った。


『私も、同罪です』


 その言葉は。


 嘘ではない。


 今でも。


 そう思っている。


 けれど。


 それから。


 自分は。


 何をしただろう。


「…………」


 何も。


 していない。


 ビクトリアは。


 自分の手元へ。


 視線を落とした。



 ◇◇◇



 音楽会から。


 五日が経った。


 その日。


 マリアネラは。


 リュミエール公爵邸を訪れていた。


 婚約者として。


 予定されていた訪問だ。


 断る理由はない。


 断るほどのことでもない。


 そう、思っていた。


「…………」


 馬車の窓から、公爵邸が見えてくる。


「…………」


「マリー」


「何?」


 向かいに座るエルネストが、妹を見る。


「何でそんなに姿勢がいいんだ?」


「いつもでしょう」


「そうか?」


「そうよ」


「…………」


「何よ」


「別に」


「変な兄様」


「…………」


 エルネストは。


 首を傾げた。


 何か、おかしい。


 だが。


 何がおかしいのかは、分からなかった。



 ◇◇◇



「ごきげんよう、マリアネラ嬢」


「……ごきげんよう、フェルナンド様」


「…………」


「…………」


 玄関広間。


 二人は。


 いつも通り、挨拶を交わした。


 フェルナンドは、いつも通り。


 穏やかだ。


 マリアネラも、いつも通り。


 澄ました顔をしている。


「本日は、よろしくお願いいたします」


「ええ。こちらこそ」


「…………」


「…………」


 完璧だった。


 礼儀正しい。


 非の打ち所がない。


「…………」


 エルネストは。


 二人を見た。


 何故だろう。


 空気が。


 妙に、硬い。


「……何だ?」


「何が?」


 マリアネラが、すぐに振り返る。


「いや」


「変な兄様」


「…………」


 やはり。


 何か。


 おかしい。



 ◇◇◇



「あら、マリアネラ」


「ベアトリス様」


 応接室へ入ると。


 ベアトリスが。


 笑顔で迎えた。


「いらっしゃい」


「本日もよろしくお願いいたします」


「そんなに畏まらなくてもいいのよ」


「そういうわけには」


「ふふ」


「…………」


 ベアトリスは。


 マリアネラを見る。


 次に。


 息子を見る。


「…………」


「母上?」


「何?」


「何か?」


「いいえ?」


「…………」


 フェルナンドが。


 僅かに、眉を寄せる。


 マリアネラは、何となく。


 茶器へ視線を逃がした。


「今日は」


 ベアトリスが、何事もなかったように。


 資料を取り出す。


「先日お話しした慈善事業の続きなのだけれど」


「はい」


 話が始まる。


 孤児院への支援。


 冬を前にした。


 衣類や燃料の確保。


 地方の領地から王都へ運ぶ物資。


 マリアネラはすぐに、話へ集中した。


「この費用は」


「ええ」


「昨年より増えているのですね」


「よく気づいたわね」


「燃料費が上がったからでしょうか」


「それもあるわ」


「でしたら……」


 いつの間にか、普段通り。


 言葉が出てくる。


 フェルナンドも、必要なところで、説明を加える。


「…………」


 ベアトリスは。


 そんな二人を。


 静かに見ていた。


 話している時は。


 いつも通り。


 けれど。


 少し。


 間が空くと。


 互いに。


 妙に。


 相手を意識している。


「…………」


 なるほど。


 やはり。


 何かあったらしい。


「では」


 ベアトリスは。


 資料を閉じた。


「今日はここまでにしましょうか」


「はい」


「マリアネラ、ありがとう」


「いいえ」


「フェルナンド」


「はい」


「後はお願いね」


「……何をです?」


「マリアネラをお送りするまで」


「それは、もちろん」


「そう」


 ベアトリスは、にこりと笑う。


「では、私は少し用事があるから」


「…………」


 フェルナンドが、母を見る。


「今日は本当にあるのですか?」


「あるわよ」


「そうですか」


「今日は」


「…………」


「では」


 ベアトリスは。


 機嫌よく、部屋を出ていった。


「…………」


 マリアネラが、閉じた扉を見る。


「今」


「はい」


「今日はって言ったわよね」


「言いましたね」


「…………」


「…………」


 少し。


 いつもの空気が、戻った。


「…………」


 エルネストが壁際で、小さく息を吐く。


 何なのだ。


 本当に。



 ◇◇◇



 暫くして。


 マリアネラが、帰る時間になった。


 フェルナンドは玄関まで、彼女を送る。


 エルネストは少し後ろを歩いていた。


「…………」


「…………」


 廊下を、並んで歩く。


 会話が。


 ない。


「マリアネラ嬢」


「何?」


 先に口を開いたのは、フェルナンドだった。


「少し」


「…………」


「お時間をいただいても?」


「……ええ」


 二人が、足を止める。


 エルネストも、後ろで止まった。


「エルネスト」


「はい」


「少しだけ、先で待っていていただけますか」


「…………」


 エルネストが妹を見る。


 フェルナンドを見る。


「分かりました」


 何か。


 ある。


 やはり。


 ある。


 そう思いながら、少し離れる。


「…………」


 フェルナンドは、マリアネラを見る。


「先日のことですが」


「…………」


 やはり、その話か。


「ええ」


「私は」


 一度、言葉を切る。


「不機嫌な態度を取ってしまいました」


「…………」


「申し訳ありません」


「……別に」


「いえ」


「…………」


「あなたが何も話さなかったことに、私は勝手に不満を抱きました」


「…………」


「ですが」


 フェルナンドは、静かに続ける。


「あなたには、私へ報告する義務はありません」


「…………」


「契約にも、そのような条項はありません」


「……ええ」


「ですから」


 少し、目を伏せる。


「私が不機嫌になるのは、筋が違いました」


「…………」


 マリアネラは、フェルナンドを見る。


 そして、少しだけ。


 唇を尖らせた。


「私も」


「はい」


「言い方は悪かったわ」


「…………」


「契約上、迷惑をかけていないなんて」


 言ってから、少し。


 視線を逸らす。


「……あんな言い方をする必要はなかったと思う」


「…………」


「だから」


 小さく。


 息を吐く。


「そこは謝るわ」


「ありがとうございます」


「でも」


「はい」


「黙っていたことまで謝るつもりはないわよ」


「…………」


「自分で何とかできると思ったもの」


「ええ」


「兄様に言ったら騒ぐし」


 少し離れた場所で、エルネストの眉が動いた。


「それに」


 マリアネラは、フェルナンドを見る。


「あなたにまで、いちいち話す必要があるとは思わなかったの」


「……分かっています」


「なら」


「ですが」


「…………」


 フェルナンドは、マリアネラを見る。


「私は」


 一度。


 止まる。


「知りたかったのです」


「…………」


 マリアネラが。


 瞬きをする。


「知りたかった?」


「はい」


「…………」


「あなたに、何が起きていたのか」


「…………」


「私は」


 少しだけ。


 眉を寄せる。


「自分だけが何も知らなかったことが」


「…………」


「嫌だったようです」


「…………」


 言ってから。


 フェルナンド自身も。


 少し。


 不思議そうな顔をした。


「ようですって」


「今、整理しているところですので」


「…………」


「少々、曖昧な表現になります」


「何よ、それ」


 マリアネラが思わず、小さく笑った。


「申し訳ありません」


「別に謝らなくていいわよ」


「そうですか」


「ええ」


「…………」


 空気が少しだけ、柔らかくなる。


「でも」


 マリアネラは、首を傾げた。


「どうして?」


「…………」


 フェルナンドが。


 止まった。


「…………」


「何?」


「…………」


「フェルナンド様?」


「…………」


「そんなに考えること?」


「少々お待ちください」


「…………」


 マリアネラは、目を瞬いた。


 本当に、考えている。


 いつもなら、質問をすれば、ほとんど間を置かず、答える人なのに。


「…………」


 フェルナンドは、考える。


 何故、知りたかったのか。


 婚約者だから。


 それが。


 一番、分かりやすい。


 だが、先日は。


 その言葉だけでは、足りないような気がした。


 契約で、婚約した。


 だから、婚約者になった。


 なら、婚約者として。


 必要なことだけを知ればいい。


 それでいいはずだ。


 けれど、自分は。


 必要だから、知りたかったのだろうか。


「…………」


 違う、気がする。


 では、何故。


「…………」


「まだ?」


「考えています」


「長いわね」


「私も、そう思います」


「…………」


 マリアネラが少しだけ、吹き出した。


「自分で言うのね」


「事実ですので」


「そう」


「…………」


 そして、ようやく。


 フェルナンドは口を開いた。


「……あなたが」


「うん」


「私の婚約者だから」


「…………」


「では、足りませんか?」


「…………」


 マリアネラが。


 フェルナンドを見る。


「それ」


「はい」


「結局、婚約者としてってことじゃないの?」


「…………」


 フェルナンドはまた、黙った。


「ほら」


「……そうですね」


「でしょう?」


「ですが」


「何?」


「それだけではないような気もしています」


「…………」


「まだ」


 フェルナンドは。


 僅かに。


 困ったように。


 眉を寄せる。


「上手く説明できません」


「…………」


 珍しい。


 マリアネラは、そう思った。


 この人にも、分からないことがあるらしい。


「……そう」


「はい」


「じゃあ」


 マリアネラは少しだけ、視線を逸らす。


「分かったら教えて」


「…………」


 フェルナンドが、目を瞬いた。


「よろしいのですか?」


「何が?」


「理由を」


「だって」


「…………」


「聞いたのは私でしょう?」


「……そうですね」


「ええ」


「分かりました」


 フェルナンドは、小さく頷いた。


「分かったら、お話しします」


「そうして」


「はい」


「…………」


「…………」


 また、少しの沈黙。


 けれど。


 先ほどまでの、硬い沈黙ではなかった。


「それと」


 フェルナンドが言う。


「まだあるの?」


「一つだけ」


「何?」


「今後」


 フェルナンドは、マリアネラを見る。


「何かあった時は」


「…………」


「私にも話していただけませんか」


「…………」


「それは」


 マリアネラが少しだけ、身構える。


「契約に追加するってこと?」


「いいえ」


 即答だった。


「…………」


「契約とは関係ありません」


「…………」


「条項を追加するつもりもありません」


「じゃあ」


「私が」


 フェルナンドは一瞬だけ、ばつが悪そうに、口を開いた。


「お願いしています」


「…………」


 マリアネラは目を瞬いた。


 お願い。


 契約ではなく、義務でもなく。


 フェルナンド自身が、そうしてほしいと言っている。


「…………」


「駄目ですか?」


「…………」


 マリアネラは少し、困った。


 契約なら簡単だった。


 書いてある。


 守る。


 それだけ。


 けれど、これは。


 書いていない。


 守らなければならない。


 義務もない。


「……善処するわ」


「善処ではなく」


「何よ」


「話していただけると助かります」


「努力するわよ!」


「努力」


「するって言ってるでしょう!」


「…………」


 フェルナンドは少しだけ、考えた。


「では」


「何?」


「それで構いません」


「…………」


「お願いします」


「……分かったわよ」


 マリアネラは。


 ぷいと。


 顔を逸らした。


 耳が、ほんの少しだけ、熱い。


 何故かは、分からないけれど。


「…………」


 フェルナンドは、そんな彼女を少しだけ、まじまじと見た。


「では、参りましょうか」


「ええ」


 二人は、再び。


 歩き始める。


 少し先で、エルネストが待っていた。


「終わりましたか?」


「ええ」


 フェルナンドが答える。


「何の話だったんだ?」


「別に」


 マリアネラが、すぐに言う。


「…………」


 エルネストは、妹を見る。


 フェルナンドを見る。


「…………」


「何よ」


「いや」


 さっきまで。


 妙に硬かった空気が。


 少し、戻っている。


「……仲直りしたのか?」


「喧嘩してないわよ!」


「喧嘩ではありません」


 また、同時だった。


「…………」


 エルネストは、頭を掻いた。


「じゃあ、何だったんだ……」


「兄様には関係ないでしょう」


「俺には言えって怒られた直後にそれ言うのか!?」


「それとこれは別よ!」


「何が違うんだ!!」


「うるさい!」


「…………」


 フェルナンドは。


 その兄妹を見た。


 少しだけ、口元を緩めた。



 ◇◇◇



「行ってしまったわね」


 窓辺から。


 ヴァレンティン家の馬車を見送り、ベアトリスが言った。


「そうですね」


 フェルナンドが答える。


「…………」


「何です?」


「いいえ?」


「…………」


「今日は」


 ベアトリスは、息子を見る。


「少し、機嫌がいいのね」


「そうでしょうか」


「ええ」


「特に変わりませんが」


「そう」


「はい」


「…………」


「…………」


「仲直りした?」


「喧嘩はしていません」


「まあ」


 ベアトリスが、少しだけ怪訝そうに目を細める。


「エルネストと同じことを聞くのですね」


「そうなの?」


「ええ」


「それで?」


「ですから」


 フェルナンドは僅かに、眉を寄せる。


「喧嘩ではありません」


「そう」


「はい」


「なら、いいわ」


「…………」


 ベアトリスは。


 それ以上、聞かなかった。


 ただ、息子が。


 ヴァレンティン家の馬車が見えなくなった後も。


 暫く、窓の外を見ていたことだけは黙って、覚えておいた。



 ◇◇◇



 契約には、書かれていない。


 何かあった時。


 相手へ話さなければならないという、義務はない。


 心配することも、相手のことを、もっと知りたいと思うことも。


 どこにも、書かれていない。


 けれど、フェルナンドは。


 それを。


 契約へ書き足さなかった。


 ただ、自分の言葉で。


 マリアネラへ頼んだ。


 そして。


 マリアネラも、契約にないその頼みを、断らなかった。


 ほんの少し、二人の関係が、決められた条項の外へ。


 はみ出したことに。


 まだ、どちらも気づいてはいなかった。

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