第十二話:契約とは関係なく
音楽会での一件から。
三日が経った。
◇◇◇
リュミエール公爵邸の応接室には、普段とは違う。
重い空気が流れていた。
上座には。
ロドリゴとベアトリス。
その傍らに、フェルナンド。
向かいには。
モンテロ侯爵夫妻と。
その娘、アレハンドラが座っている。
そして。
今回の件で。
直接被害を受けたマリアネラと。
その父、ヴァレンティン男爵も同席していた。
「この度は」
最初に口を開いたのは。
モンテロ侯爵だった。
「娘がマリアネラ様になしたことについて、親として、またモンテロ侯爵家当主として、深くお詫び申し上げます」
侯爵が。
深く頭を下げる。
隣に座る夫人も。
同じように頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
「…………」
マリアネラは。
少しだけ。
居心地の悪さを覚えた。
自分より。
遥かに高位の侯爵夫妻が。
自分へ頭を下げている。
だが。
これは。
爵位の上下だけで済ませていい話ではない。
それも。
分かっている。
「顔をお上げください」
マリアネラが言う。
「…………」
侯爵夫妻が。
ゆっくりと顔を上げた。
「謝罪は、お受けいたします」
「ありがとうございます」
「ただ」
マリアネラは。
アレハンドラを見る。
「私が腹を立てているかどうかだけの問題ではないことも、分かっています」
「…………」
「ですから、今後については両家でお決めください」
「……承知いたしました」
モンテロ侯爵が答える。
その顔には。
疲労が滲んでいた。
娘が。
何をしたのか。
詳しく知ったのだろう。
肩をぶつけた。
飲み物をかけた。
そして。
婚約者の椅子へ。
飲み物をこぼそうとしたところを。
次期リュミエール公爵本人に見つかった。
一つだけなら。
若い令嬢同士の諍いとして。
厳重に注意するだけで。
済んだかもしれない。
だが。
繰り返されていた。
しかも。
相手は。
正式に婚約が公表されている。
次期リュミエール公爵夫人だ。
もはや。
アレハンドラ一人の問題ではなかった。
「アレハンドラ」
侯爵夫人が。
娘を見る。
「…………」
アレハンドラは。
膝の上で。
手を握りしめた。
そして。
立ち上がる。
「マリアネラ様」
「…………」
「この度は」
僅かに。
声が震えた。
「私の軽率な行いにより、不快な思いをさせてしまい……申し訳ございませんでした」
深く。
頭を下げる。
「…………」
マリアネラは。
その姿を見た。
心から。
納得しているのか。
反省しているのか。
それは。
分からない。
けれど。
今。
それを問い詰める必要もないと思った。
「謝罪は受け取ります」
「……ありがとうございます」
アレハンドラが。
顔を上げる。
その視線が。
一瞬だけ。
フェルナンドへ向いた。
「…………」
フェルナンドは。
何も言わなかった。
いつも通り。
整った顔には。
ほとんど表情がない。
けれど。
アレハンドラは。
すぐに。
目を逸らした。
あの日。
向けられた視線を、まだ。
忘れられていなかった。
「今後についてですが」
ロドリゴが。
静かに口を開く。
「我が家としては、マリアネラ嬢への接触を、当面控えていただきたい」
「当然のことと存じます」
モンテロ侯爵が。
すぐに答える。
「また、娘の社交活動についても、当面、全て辞退させます」
「…………」
「本人にも、自分が何をしたのか、十分に考えさせます」
「分かりました」
ロドリゴは。
それ以上。
追及しなかった。
家同士として。
必要な線引きをする。
それで。
今回の会談は。
終わる。
「ヴァレンティン男爵」
モンテロ侯爵が。
改めて。
マリアネラの父を見る。
「本当に、申し訳なかった」
「…………」
ヴァレンティン男爵は。
暫く。
侯爵を見た。
「娘が怪我をしなかったことだけは、幸いでした」
「……ああ」
「ですが」
声が。
少しだけ。
低くなる。
「二度とないようにしていただきたい」
「無論だ」
「それなら、私からはそれ以上申し上げることはありません」
「感謝する」
父親同士が。
短く。
言葉を交わす。
「…………」
マリアネラは。
その横顔を見た。
父も。
怒っている。
当然だ。
兄だけではなかったらしい。
そのことに。
今さら気づいた。
「…………」
何となく。
肩を縮めた。
◇◇◇
モンテロ侯爵家の馬車が。
リュミエール公爵邸を離れていく。
車内で。
アレハンドラは。
一言も話さなかった。
父も。
母も。
今は。
何も言わない。
「…………」
窓の外を見る。
王都の景色が。
流れていく。
これまで。
何度も通った道。
何度も参加した。
茶会。
夜会。
音楽会。
自分が行けば。
誰かが話しかけてきた。
侯爵令嬢。
アレハンドラ・モンテロ。
それだけで。
人は集まった。
「…………」
けれど。
次に。
いつ。
その場所へ戻れるのか。
分からない。
戻った時。
以前と同じように。
人が集まるのかも。
分からない。
『マリアネラ嬢に対して、これを繰り返していたのですね』
「…………」
あの声が。
まだ。
耳に残っている。
怒鳴られたわけではない。
責め立てられたわけでもない。
ただ。
冷たかった。
自分という人間そのものが。
彼の視界から。
切り離されたような。
そんな目だった。
「…………」
アレハンドラは。
膝の上で、指を強く握った。
そして。
その日を境に。
彼女の名が。
社交の場で語られることは。
少しずつ。
減っていった。
誰かが。
露骨に悪口を言うわけではない。
誰かが。
面と向かって責めるわけでもない。
ただ。
招待状が減る。
話題に出されなくなる。
以前なら、彼女の周りにいた令嬢たちも。
自然と、別の輪へ移っていく。
リュミエール公爵家から。
正式に抗議を受けた令嬢。
その事実だけで十分だった。
貴族社会は。
時に。
言葉よりも。
沈黙の方が。
雄弁だった。
◇◇◇
同じ日の午後。
ヴァレンティン男爵邸に。
一台の馬車が停まった。
「お客様?」
マリアネラは。
侍女から告げられ。
首を傾げた。
「はい」
「誰?」
「メンドーサ子爵令嬢でございます」
「…………」
マリアネラは。
一度。
瞬きをした。
「ルシア様?」
「はい」
先触れは。
届いていた。
会ってほしい。
話したいことがある。
ただ。
それだけ。
何の話なのかは。
書かれていなかった。
「……分かったわ」
マリアネラは。
立ち上がった。
◇◇◇
応接室へ入ると。
ルシアは。
一人だった。
「ごきげんよう、マリアネラ様」
「ごきげんよう、ルシア様」
互いに。
礼をする。
「どうぞ、座って」
「ありがとうございます」
二人が。
向かい合って座る。
侍女が。
茶を用意する。
「…………」
「…………」
会話が。
ない。
これまで。
二人だけで。
話したことなど。
ほとんどなかった。
あるとしても。
アレハンドラやビクトリアと。
一緒にいる時。
それも。
友好的なものではない。
「それで」
マリアネラが。
先に口を開いた。
「お話って?」
「……はい」
ルシアは。
膝の上で。
手を握った。
「マリアネラ様に」
「…………」
「謝りたくて、参りました」
「…………」
「先日のことだけではありません」
マリアネラは。
黙って。
続きを待つ。
「今まで」
ルシアが。
ゆっくり。
言葉を選ぶ。
「私は、何度もマリアネラ様へ失礼なことを言いました」
「…………」
「男爵令嬢なのに、と」
「…………」
「フェルナンド様の婚約者には相応しくないと」
「…………」
「アレハンドラ様やビクトリア様と一緒に、笑ったこともあります」
「ええ」
マリアネラは。
否定しなかった。
「覚えているわ」
「……はい」
ルシアの指が。
僅かに、震えた。
「私は」
「…………」
「アレハンドラ様に流されていました」
「…………」
「でも」
すぐに、続ける。
「それを、言い訳にするつもりはありません」
「…………」
「誰かに言わされたわけではありません」
「…………」
「私は、自分で言いました」
「…………」
「自分で笑いました」
「…………」
「ですから」
ルシアは。
マリアネラを。
真っ直ぐ見る。
「私が悪かったです」
「…………」
「申し訳ありませんでした」
頭を下げる。
「…………」
マリアネラは。
何も言わず。
その姿を見た。
昨日まで。
いや。
ほんの少し前まで。
この令嬢は。
自分を見て。
笑っていた。
嫌味を言った。
アレハンドラの隣で。
何度も。
けれど。
今。
目の前にいるルシアは。
そのことを。
誰かのせいには。
しなかった。
「……手紙を」
頭を下げたまま。
ルシアが言う。
「書こうとしました」
「手紙?」
「はい」
「…………」
「何度も」
ルシアの声が。
少し。
掠れる。
「でも」
「…………」
「書けませんでした」
「どうして?」
「……分からなくなったんです」
ルシアは。
ゆっくり。
顔を上げる。
「何を書けばいいのか」
「…………」
「ごめんなさいと書いて」
「…………」
「それで、私がしたことがなくなるわけではありません」
「…………」
「それに」
一度。
息を吸う。
「紙の向こうから謝るのは、違うと思いました」
「…………」
「怖くても」
「…………」
「ちゃんと、マリアネラ様の前で言わなければいけないと思ったんです」
「…………」
「許していただこうとは、思っていません」
ルシアの声が。
震える。
「ただ」
「…………」
「謝らせてください」
もう一度。
深く。
頭を下げた。
「本当に」
「…………」
「申し訳ありませんでした」
静かだった。
時計の針が。
進む音だけが。
聞こえる。
「……腹は立ったわ」
マリアネラが。
言った。
「…………はい」
「嫌なことも言われたと思ってる」
「はい」
「面倒だとも思った」
「……はい」
「だから」
マリアネラは。
少しだけ。
息を吐く。
「なかったことにはしないわ」
「…………」
ルシアが。
顔を上げる。
「忘れたわけでもない」
「はい」
「でも」
マリアネラは。
真っ直ぐ。
ルシアを見る。
「今のあなたには、もう腹は立ってないわ」
「…………」
ルシアの目が。
大きくなる。
「あなたが今日」
「…………」
「ここへ来て」
「…………」
「自分の口で言ってくれたことは」
マリアネラは、少しだけ。
笑った。
「ちゃんと覚えておく」
「…………」
ルシアの目に。
熱いものが。
込み上げた。
泣きそうになる。
けれど。
泣かなかった。
今。
泣いて。
自分が楽になるのは。
違う気がした。
唇を。
強く結ぶ。
一度。
息を整える。
「……ありがとう」
それでも。
声が。
少し震えた。
「ございます」
「…………」
「謝罪を受け取ってくださって」
ぐっと。
堪える。
「ありがとう、ございます!」
「……ええ」
マリアネラは。
それ以上。
何も言わなかった。
許す。
許さない。
そんな言葉も。
必要ないと思った。
ただ。
目の前の謝罪を。
受け取った。
それで。
今は。
十分だった。
◇◇◇
帰り際。
玄関で。
ルシアが振り返った。
「それでは、マリアネラ様」
「ええ」
「失礼いたします」
「ごきげんよう、ルシア様」
「…………」
一瞬。
ルシアが。
驚いたような顔をする。
そして。
小さく。
微笑んだ。
「ごきげんよう、マリアネラ様」
それだけ。
だった。
友人になったわけではない。
これまでのことが。
消えたわけでもない。
けれど。
次に会った時。
もう。
互いに。
目を逸らす必要はない。
そのくらいの距離には。
なった。
◇◇◇
「……一人で?」
同じ頃。
ビクトリアは。
ルシアがヴァレンティン男爵邸を訪れたと聞き。
目を瞬いた。
「ええ」
共通の知人が。
何気なく答える。
「お一人だったそうよ」
「…………そう」
ビクトリアは。
それだけ答えた。
「…………」
ルシアは。
行った。
一人で。
マリアネラのところへ。
「…………」
自分も。
あの日。
言った。
『私も、同罪です』
その言葉は。
嘘ではない。
今でも。
そう思っている。
けれど。
それから。
自分は。
何をしただろう。
「…………」
何も。
していない。
ビクトリアは。
自分の手元へ。
視線を落とした。
◇◇◇
音楽会から。
五日が経った。
その日。
マリアネラは。
リュミエール公爵邸を訪れていた。
婚約者として。
予定されていた訪問だ。
断る理由はない。
断るほどのことでもない。
そう、思っていた。
「…………」
馬車の窓から、公爵邸が見えてくる。
「…………」
「マリー」
「何?」
向かいに座るエルネストが、妹を見る。
「何でそんなに姿勢がいいんだ?」
「いつもでしょう」
「そうか?」
「そうよ」
「…………」
「何よ」
「別に」
「変な兄様」
「…………」
エルネストは。
首を傾げた。
何か、おかしい。
だが。
何がおかしいのかは、分からなかった。
◇◇◇
「ごきげんよう、マリアネラ嬢」
「……ごきげんよう、フェルナンド様」
「…………」
「…………」
玄関広間。
二人は。
いつも通り、挨拶を交わした。
フェルナンドは、いつも通り。
穏やかだ。
マリアネラも、いつも通り。
澄ました顔をしている。
「本日は、よろしくお願いいたします」
「ええ。こちらこそ」
「…………」
「…………」
完璧だった。
礼儀正しい。
非の打ち所がない。
「…………」
エルネストは。
二人を見た。
何故だろう。
空気が。
妙に、硬い。
「……何だ?」
「何が?」
マリアネラが、すぐに振り返る。
「いや」
「変な兄様」
「…………」
やはり。
何か。
おかしい。
◇◇◇
「あら、マリアネラ」
「ベアトリス様」
応接室へ入ると。
ベアトリスが。
笑顔で迎えた。
「いらっしゃい」
「本日もよろしくお願いいたします」
「そんなに畏まらなくてもいいのよ」
「そういうわけには」
「ふふ」
「…………」
ベアトリスは。
マリアネラを見る。
次に。
息子を見る。
「…………」
「母上?」
「何?」
「何か?」
「いいえ?」
「…………」
フェルナンドが。
僅かに、眉を寄せる。
マリアネラは、何となく。
茶器へ視線を逃がした。
「今日は」
ベアトリスが、何事もなかったように。
資料を取り出す。
「先日お話しした慈善事業の続きなのだけれど」
「はい」
話が始まる。
孤児院への支援。
冬を前にした。
衣類や燃料の確保。
地方の領地から王都へ運ぶ物資。
マリアネラはすぐに、話へ集中した。
「この費用は」
「ええ」
「昨年より増えているのですね」
「よく気づいたわね」
「燃料費が上がったからでしょうか」
「それもあるわ」
「でしたら……」
いつの間にか、普段通り。
言葉が出てくる。
フェルナンドも、必要なところで、説明を加える。
「…………」
ベアトリスは。
そんな二人を。
静かに見ていた。
話している時は。
いつも通り。
けれど。
少し。
間が空くと。
互いに。
妙に。
相手を意識している。
「…………」
なるほど。
やはり。
何かあったらしい。
「では」
ベアトリスは。
資料を閉じた。
「今日はここまでにしましょうか」
「はい」
「マリアネラ、ありがとう」
「いいえ」
「フェルナンド」
「はい」
「後はお願いね」
「……何をです?」
「マリアネラをお送りするまで」
「それは、もちろん」
「そう」
ベアトリスは、にこりと笑う。
「では、私は少し用事があるから」
「…………」
フェルナンドが、母を見る。
「今日は本当にあるのですか?」
「あるわよ」
「そうですか」
「今日は」
「…………」
「では」
ベアトリスは。
機嫌よく、部屋を出ていった。
「…………」
マリアネラが、閉じた扉を見る。
「今」
「はい」
「今日はって言ったわよね」
「言いましたね」
「…………」
「…………」
少し。
いつもの空気が、戻った。
「…………」
エルネストが壁際で、小さく息を吐く。
何なのだ。
本当に。
◇◇◇
暫くして。
マリアネラが、帰る時間になった。
フェルナンドは玄関まで、彼女を送る。
エルネストは少し後ろを歩いていた。
「…………」
「…………」
廊下を、並んで歩く。
会話が。
ない。
「マリアネラ嬢」
「何?」
先に口を開いたのは、フェルナンドだった。
「少し」
「…………」
「お時間をいただいても?」
「……ええ」
二人が、足を止める。
エルネストも、後ろで止まった。
「エルネスト」
「はい」
「少しだけ、先で待っていていただけますか」
「…………」
エルネストが妹を見る。
フェルナンドを見る。
「分かりました」
何か。
ある。
やはり。
ある。
そう思いながら、少し離れる。
「…………」
フェルナンドは、マリアネラを見る。
「先日のことですが」
「…………」
やはり、その話か。
「ええ」
「私は」
一度、言葉を切る。
「不機嫌な態度を取ってしまいました」
「…………」
「申し訳ありません」
「……別に」
「いえ」
「…………」
「あなたが何も話さなかったことに、私は勝手に不満を抱きました」
「…………」
「ですが」
フェルナンドは、静かに続ける。
「あなたには、私へ報告する義務はありません」
「…………」
「契約にも、そのような条項はありません」
「……ええ」
「ですから」
少し、目を伏せる。
「私が不機嫌になるのは、筋が違いました」
「…………」
マリアネラは、フェルナンドを見る。
そして、少しだけ。
唇を尖らせた。
「私も」
「はい」
「言い方は悪かったわ」
「…………」
「契約上、迷惑をかけていないなんて」
言ってから、少し。
視線を逸らす。
「……あんな言い方をする必要はなかったと思う」
「…………」
「だから」
小さく。
息を吐く。
「そこは謝るわ」
「ありがとうございます」
「でも」
「はい」
「黙っていたことまで謝るつもりはないわよ」
「…………」
「自分で何とかできると思ったもの」
「ええ」
「兄様に言ったら騒ぐし」
少し離れた場所で、エルネストの眉が動いた。
「それに」
マリアネラは、フェルナンドを見る。
「あなたにまで、いちいち話す必要があるとは思わなかったの」
「……分かっています」
「なら」
「ですが」
「…………」
フェルナンドは、マリアネラを見る。
「私は」
一度。
止まる。
「知りたかったのです」
「…………」
マリアネラが。
瞬きをする。
「知りたかった?」
「はい」
「…………」
「あなたに、何が起きていたのか」
「…………」
「私は」
少しだけ。
眉を寄せる。
「自分だけが何も知らなかったことが」
「…………」
「嫌だったようです」
「…………」
言ってから。
フェルナンド自身も。
少し。
不思議そうな顔をした。
「ようですって」
「今、整理しているところですので」
「…………」
「少々、曖昧な表現になります」
「何よ、それ」
マリアネラが思わず、小さく笑った。
「申し訳ありません」
「別に謝らなくていいわよ」
「そうですか」
「ええ」
「…………」
空気が少しだけ、柔らかくなる。
「でも」
マリアネラは、首を傾げた。
「どうして?」
「…………」
フェルナンドが。
止まった。
「…………」
「何?」
「…………」
「フェルナンド様?」
「…………」
「そんなに考えること?」
「少々お待ちください」
「…………」
マリアネラは、目を瞬いた。
本当に、考えている。
いつもなら、質問をすれば、ほとんど間を置かず、答える人なのに。
「…………」
フェルナンドは、考える。
何故、知りたかったのか。
婚約者だから。
それが。
一番、分かりやすい。
だが、先日は。
その言葉だけでは、足りないような気がした。
契約で、婚約した。
だから、婚約者になった。
なら、婚約者として。
必要なことだけを知ればいい。
それでいいはずだ。
けれど、自分は。
必要だから、知りたかったのだろうか。
「…………」
違う、気がする。
では、何故。
「…………」
「まだ?」
「考えています」
「長いわね」
「私も、そう思います」
「…………」
マリアネラが少しだけ、吹き出した。
「自分で言うのね」
「事実ですので」
「そう」
「…………」
そして、ようやく。
フェルナンドは口を開いた。
「……あなたが」
「うん」
「私の婚約者だから」
「…………」
「では、足りませんか?」
「…………」
マリアネラが。
フェルナンドを見る。
「それ」
「はい」
「結局、婚約者としてってことじゃないの?」
「…………」
フェルナンドはまた、黙った。
「ほら」
「……そうですね」
「でしょう?」
「ですが」
「何?」
「それだけではないような気もしています」
「…………」
「まだ」
フェルナンドは。
僅かに。
困ったように。
眉を寄せる。
「上手く説明できません」
「…………」
珍しい。
マリアネラは、そう思った。
この人にも、分からないことがあるらしい。
「……そう」
「はい」
「じゃあ」
マリアネラは少しだけ、視線を逸らす。
「分かったら教えて」
「…………」
フェルナンドが、目を瞬いた。
「よろしいのですか?」
「何が?」
「理由を」
「だって」
「…………」
「聞いたのは私でしょう?」
「……そうですね」
「ええ」
「分かりました」
フェルナンドは、小さく頷いた。
「分かったら、お話しします」
「そうして」
「はい」
「…………」
「…………」
また、少しの沈黙。
けれど。
先ほどまでの、硬い沈黙ではなかった。
「それと」
フェルナンドが言う。
「まだあるの?」
「一つだけ」
「何?」
「今後」
フェルナンドは、マリアネラを見る。
「何かあった時は」
「…………」
「私にも話していただけませんか」
「…………」
「それは」
マリアネラが少しだけ、身構える。
「契約に追加するってこと?」
「いいえ」
即答だった。
「…………」
「契約とは関係ありません」
「…………」
「条項を追加するつもりもありません」
「じゃあ」
「私が」
フェルナンドは一瞬だけ、ばつが悪そうに、口を開いた。
「お願いしています」
「…………」
マリアネラは目を瞬いた。
お願い。
契約ではなく、義務でもなく。
フェルナンド自身が、そうしてほしいと言っている。
「…………」
「駄目ですか?」
「…………」
マリアネラは少し、困った。
契約なら簡単だった。
書いてある。
守る。
それだけ。
けれど、これは。
書いていない。
守らなければならない。
義務もない。
「……善処するわ」
「善処ではなく」
「何よ」
「話していただけると助かります」
「努力するわよ!」
「努力」
「するって言ってるでしょう!」
「…………」
フェルナンドは少しだけ、考えた。
「では」
「何?」
「それで構いません」
「…………」
「お願いします」
「……分かったわよ」
マリアネラは。
ぷいと。
顔を逸らした。
耳が、ほんの少しだけ、熱い。
何故かは、分からないけれど。
「…………」
フェルナンドは、そんな彼女を少しだけ、まじまじと見た。
「では、参りましょうか」
「ええ」
二人は、再び。
歩き始める。
少し先で、エルネストが待っていた。
「終わりましたか?」
「ええ」
フェルナンドが答える。
「何の話だったんだ?」
「別に」
マリアネラが、すぐに言う。
「…………」
エルネストは、妹を見る。
フェルナンドを見る。
「…………」
「何よ」
「いや」
さっきまで。
妙に硬かった空気が。
少し、戻っている。
「……仲直りしたのか?」
「喧嘩してないわよ!」
「喧嘩ではありません」
また、同時だった。
「…………」
エルネストは、頭を掻いた。
「じゃあ、何だったんだ……」
「兄様には関係ないでしょう」
「俺には言えって怒られた直後にそれ言うのか!?」
「それとこれは別よ!」
「何が違うんだ!!」
「うるさい!」
「…………」
フェルナンドは。
その兄妹を見た。
少しだけ、口元を緩めた。
◇◇◇
「行ってしまったわね」
窓辺から。
ヴァレンティン家の馬車を見送り、ベアトリスが言った。
「そうですね」
フェルナンドが答える。
「…………」
「何です?」
「いいえ?」
「…………」
「今日は」
ベアトリスは、息子を見る。
「少し、機嫌がいいのね」
「そうでしょうか」
「ええ」
「特に変わりませんが」
「そう」
「はい」
「…………」
「…………」
「仲直りした?」
「喧嘩はしていません」
「まあ」
ベアトリスが、少しだけ怪訝そうに目を細める。
「エルネストと同じことを聞くのですね」
「そうなの?」
「ええ」
「それで?」
「ですから」
フェルナンドは僅かに、眉を寄せる。
「喧嘩ではありません」
「そう」
「はい」
「なら、いいわ」
「…………」
ベアトリスは。
それ以上、聞かなかった。
ただ、息子が。
ヴァレンティン家の馬車が見えなくなった後も。
暫く、窓の外を見ていたことだけは黙って、覚えておいた。
◇◇◇
契約には、書かれていない。
何かあった時。
相手へ話さなければならないという、義務はない。
心配することも、相手のことを、もっと知りたいと思うことも。
どこにも、書かれていない。
けれど、フェルナンドは。
それを。
契約へ書き足さなかった。
ただ、自分の言葉で。
マリアネラへ頼んだ。
そして。
マリアネラも、契約にないその頼みを、断らなかった。
ほんの少し、二人の関係が、決められた条項の外へ。
はみ出したことに。
まだ、どちらも気づいてはいなかった。




