第三話 邂逅、北京の毒蛇
深いスリットの入ったチャイナドレス風の武術着を纏ったその少女は、あまりにも無防備な広信の態度に、一瞬だけ毒気を抜かれたように目を丸くした。
「……全く警戒心がない男ネ。私は王玲。練丹学部志望アル」
王玲はナイフを袖口にしまうと、広信から皿を受け取った。
練丹学部。それは武林大学において、猛毒や神経毒、あるいは人体を強制的に強化する劇薬の調合を専門とする、狂気の学部である。
王玲は、幼少期からありとあらゆる毒を摂取し、自らの体液すらも毒化させている暗殺一族の末裔だった。
(この男、強烈な技をもつ巴流の使い手を従えているアル。ただの素人のはずがない……ここは一つ、私の『挨拶』を受け取ってもらうヨ)
王玲はよそられたカレーを見つめると、懐から小さな竹の筒を取り出した。
「いい匂いだけど、少しパンチが足りないアル。私の『特製スパイス』を入れてあげるヨ」
そう言うと、彼女はカレーの鍋に向かって、竹の筒から紫色の粉末をパラパラと振りかけた。
「あッ、貴様! それは……!」
四郎が血相を変えて立ち上がりかけたが、広信は「おっ、味変だね! いただきます!」と、四郎を制止する間もなく、紫色の粉がかかったカレーをスプーンですくい、躊躇なく口に放り込んだ。
王玲の口角が、残酷に吊り上がる。
(ふふん、馬鹿な男アル。それは微量で巨象の心臓すら停止させる猛毒『紫斑痺草』……)
「……おおおおッ!?」
広信が突如、目を見開いてスプーンを握りしめた。
「どうアルか? 己の愚かさを呪いながら死ぬがいいヨ……」と最後まで言いかけたところで、信じられない光景を目の当たりにした。
「すごい! なにこれ、花椒の親玉みたいな強烈なシビレ! 舌の先から胃袋にかけて、ビリビリと電気が走るような刺激的な『麻』の感覚……! 疲労で鈍った胃腸が、一気に活性化していくのが分かるよ! 玲ちゃん、これめちゃくちゃ美味しいね!!」
広信は大量の汗をかきながら、満面の笑みでカレーをガツガツと掻き込み始めたのだ。
「は、はぁぁッ!?」
王玲の美しい顔が、驚愕で引きつった。
(ば、馬鹿な! 神経毒が直撃しているはずなのに、なぜ『ちょっと刺激の強い激辛スパイス』みたいなリアクションで済んでいるアルか!?)
広信の胃袋は、エクストリーム山岳部時代に「水たまりの泥水」や「消費期限切れの怪しい糧食」、さらには「生煮えの謎キノコ」などを散々消化させられてきた結果、常人の数百倍の解毒能力と耐久度を獲得していた。致死量の神経毒ですら、修羅場を潜り抜けた胃壁の前では「ちょっと強めの刺激物」として処理されてしまうのである。
その光景を見ていた四郎は、ワナワナと震えながら深く頷いた。
(……なんという事だ。広信は、あの一瞬で猛毒の成分を看破し、自らの『内功』の力で毒素を完全に中和・分解してしまった……! これが、真の達人の喫食……!)
「広信……! 俺も、その境地に少しでも近づきたい! 俺にもその『特製スパイス』をかけてくれ!」
「えっ? 四郎くんは辛いの大丈夫なの? 結構ビリビリくるよ?」
「構わん!!」
もはや王玲の脳内はパニックだった。
(この男たち、狂ってるヨ……! 特製の毒を、ただの調味料扱いしているネ……!)
広信は、竹の筒を握りしめたまま呆然としている王玲に向かって、朗らかな笑顔を向けた。
「いやー、玲ちゃんは山野草やスパイスの知識がすごいんだね! 山で採れる植物って、一つ間違えると毒だったりするから、そういう知識がある人が仲間にいるとすっごく助かるんだ。ねえ、良かったらこれから、僕らのキャンプに合流しない?」
「えっ……合流、アルか?」
「うん! 僕がご飯を作るし、四郎くんが薪割りをしてくれる。玲ちゃんには、調味料の配合とか、テントの周りの『獣よけの罠』をお願いしたいな。どうかな?」
広信のその言葉は、黒社会でも毒を扱う忌み子として常に孤独だった王玲の胸に、かつてない温かな衝撃を与えた。
自分を真正面から受け止め、笑顔で毒を「美味しい」と言う男。そして、自分を「頼りになる仲間」として必要としてくれる男。
王玲は、ほんのりと頬を朱色に染め、視線を逸らしながら竹の筒をしまった。
「……ほ、本当に物好きネ。そこまで言うなら、私の『薬の知識』を貸してやらないこともないヨ。その代わり……毎日美味しいご飯を作るアル!」
「任せてよ! よーし、これで三人パーティーだ!」
こうして、武林大学史上最も凶悪な『キャンプパーティー』が結成された。
遠くの茂みからモニタリングを続けていた試験官たちは、本部に絶望的な報告を上げていた。
『……本部、こちら第4エリア。報告します……今年の共通テスト枠のバケモノ(広信)が、巴流の使い手と北京の毒蛇を、カレーで手懐けました。奴ら、今から三人で優雅に食後のコーヒーを淹れようとしています……』




