第一話 序章、高校3年の夏
佛滾高校エクストリーム山岳部。
林広信、高校最後の夏。
激しい風雨が、容赦なく18歳の肉体を叩いていた。
標高2800メートル、北アルプスの稜線。視界は濃霧によってわずか数メートルに遮られ、周囲の世界はただ白く、冷たい絶望に染まっている。
「足を止めるなッ! 胸を張れ、顔を上げろォ!!」
先頭を行く部長の怒号が、強風の轟音に掻き消されかける。
林広信は、一言も発さず、ただ前を見つめていた。背には、総重量35キロを超える巨大なザックがのしかかっている。
中身は個人装備だけではない。4人用の極厚の天幕、鋼鉄のペグ、非常用の重い水袋。班の「共同装備」の重みが、容赦なく広信の両肩を骨ごと押し潰そうとしていた。
ふくらはぎの筋肉は、とっくに限界を迎えて乳酸の海に沈んでいる。
ここで力任せに一歩を踏み出せば、次の瞬間に足が攣り、滑落、そして即座にチーム全体の「減点」を意味する。
(……骨で立て。骨で歩け)
広信は脳内で、何度もその呪文を繰り返した。息を吐き、右足を一歩前へ。着地した瞬間、膝の関節をロックし、自らの体重と35キロの質量を「骨格」で支える。
筋肉を完全に弛緩させるそのわずか0.5秒の刹那。それこそが、過酷な縦走を生き抜くための省エネ歩行技術『レストステップ』だった。
一歩ごとに、肉体を限界まで「脱力」させる。泥濘が足元をすくおうとも、体幹の芯だけはブレない。
他校の選手たちが荒い呼吸を吐き、苦悶に顔を歪める中、広信の班だけは無表情のまま、機械のような正確さで、音もなく泥の斜面を登り続けていた。
午後4時。命からがら辿り着いた幕営地は、風速20メートルを超える文字通りの地獄だった。
「幕営開始! 制限時間5分、1秒でも遅れれば即減点だ!」
休む間もなく、広信たちの手が動く。言葉によるコミュニケーションなど不要だった。
風上で天幕の端を体ごと踏みつけ、ペグを打つ。突風で布地が凧のように煽られ、引きちぎられそうになるのを、広信は前腕の筋力で強引にねじ伏せた。指先の感覚は寒さで疾うに消失している。しかし、彼の細胞は「結び方」を記憶していた。
(もやい結び、テンションの固定、よし!)
ブラインドタッチでポールをスリーブにしならせ、カン、カン、カンと泥の中に鋼の杭を打ち込んでいく。
荒れ狂う嵐のど真ん中に、寸分の歪みもない完璧な四角錐の結界」が立ち上がった。タイムは3分12秒。他校が風に天幕を飛ばされ、悲鳴を上げている横で、広信たちの班は静かに天幕の中へと滑り込んだ。
しかし、遮風された天幕の中も、決して「楽園」ではなかった。
待っていたのは、極度の飢えと渇き、そして、あまりにも冷酷な作業としての食事だった。
軽量化という名の絶対正義の前において、コンロのガスも、食材の水分も、すべては悪とみなされる。広信がリュックから取り出したのは、味気ないアイラップの袋に入った『アルファ米』と、水だけだった。
お湯を沸かすことすら許されない。水を袋に注ぎ、ただじっと待つ。
出来上がったのは、ボソボソとした芯の残る、冷え切った米の塊だった。
(……味がしない。いや、パサパサの砂を噛んでいるようだ)
一切の感情を殺し、広信はその「カロリー」を胃袋へ流し込んでいく。
凍えた胃袋が、冷たい食物を拒絶して震える。その時、広信の脳裏に強烈な「渇望」が焼き付いた。
(……いつか。いつか大学に入ったら、好きなだけ火を焚いてやる。重くて不便な鉄の鍋を最高の焚火で熱して、これでもかとスパイスをぶち込んだ、熱々で、油の滴る、美味いメシを食ってやるんだ……!!)
冷たいアルファ米を噛み締めると血のような悔し涙が一筋流れた。
午後8時、消灯。
ゴツゴツとした岩の突起が背中に突き刺さる天幕の床。敷かれているのは、厚さわずか数ミリのペラペラの銀マット一枚。
隣には、汗と泥の臭いを放つ部員たちが、隙間なく密着して横たわっている。
寒さが皮膚を刺し、ガタガタと歯の根が合わない。部長の激しいいびきが狭い天幕内に反響し、自らの心臓の鼓動すらも精神を削るノイズとなる。
普通の人間なら、一睡もできずに朝を迎えるであろう拷問のごとき環境。
だが、広信はサバイバルシートで作った手製のアイマスクを深く被り、意識を断つ。
(寝るんだ。今ここで寝なければ、明日の大キレットの登りで滑落して死ぬ。五感を閉じろ。脳を、シャットダウンしろ……!)
外部のあらゆるストレスを脳内で強制的に「無」へと変換し、肉体の修復だけに全エネルギーを注ぎ込む、文字通りの気絶。
翌朝。
広信はパチリと目を開けた。その瞳には、前日の地獄のような疲労など少しも残っていない。
ほぼ完全に回復した精神と肉体で、彼は静かにザックを持ち上げた。
この3年間、大自然の中で、一歩間違えれば遭難するという本物の恐怖と戦い続けてきた広信。
広信の胸には大学に入り、自分の思いを遂げるという目標が熱く宿っていた。
インターハイを終え、広信たちの班は上位入賞という結果で最後の夏を終えた。
ようやく過酷なエクストリーム山岳部を引退した林広信の胸には、ひとつの強烈な野望が燃え盛っていた。
「絶対に、国立の大学に入ってやる。そして……思う存分、ゆるキャンを満喫するんだ!」
その執念は、広信を猛烈な受験勉強へと駆り立てた。
だが、その姿に両親は「うちの子、おかしくなっちゃったんじゃないか……」と本気で心配させるほど、常軌を逸していた。
しかし、広信はこれまでの高校生活、灼熱の太陽や極寒の暴風雨のなか、30キロを超える荷物を背負い、何時間も歩き続けるという極限の重労働を強いられてきた男である。
それに比べれば、空調の効いた快適な自室で、ただ柔らかい椅子に座り、机に向かって問題を解くだけの受験勉強など、苦痛ゼロの知識欲を満たす娯楽でしかなかった。
結果として、広信の偏差値は秋から冬にかけて爆発的に跳ね上がり、第一志望である『国立武蔵野林業大学』のA判定を軽々と叩き出すに至る。
そして年が明け、決戦の1月。「大学入学共通テスト」の当日。
会場は、プレッシャーで胃を痛め、青ざめる受験生たちの悲壮感で満ちていた。しかし、広信一人は違った。
(うわぁ……、 室温も管理されてるし、何より試験監督が怒鳴りつけてこない! 最高すぎる!)
あまりの快適な環境に感動すら覚えながら、広信は「ゾーン(極限の集中状態)」へと突入した。吹き荒ぶ風も、雪の冷たさもない完璧な空間で、彼のペンは滑るように解答用紙を埋めていく。
自己採点の結果は、全科目正答率9割に迫る驚異的なハイスコアだった。
第一志望への合格を確信した広信は、後日、自宅のこたつでみかんを頬張りながら、スマートフォンで気楽に「Web出願」の作業を進めていた。
画面に表示された大学名の検索用プルダウンメニュー。
広信の親指が、「武」と打ち込んだ、まさにその瞬間。
「ワンッ!」
「おわっ!?」
愛犬のマキ(柴犬)が、「遊んで!」とばかりに広信の膝の上へ元気よく飛び乗ってきたのだ。
「おっと、マキ、ちょっと待って……」
体勢を崩した広信の親指が、スマートフォンの画面をツルッと滑る。
本来タップすべき『武蔵野林業大学』から数個下にズレた位置にあった大学名をタップしてしまい、あろうことか、そのまま「出願完了」のボタンを押し切ってしまった。
画面に表示された文字。『武林大学』。出願完了の自動送信メールをチラッと見た広信は、首を傾げた。
「よし、武……林大学、ね。まあ、武蔵野林業大学の略称かなんかだろう。出願完了っと」
まったく気に留めることなくスマートフォンをこたつの上に放り投げ、広信は再び甘いみかんに手を伸ばした。
その頃。
裏社会に跋扈する暗殺者や表に出れない格闘家たちの卵が、血みどろの実技試験を経て入学してくる修羅の学舎、『武林大学』の入試広報室。
本来は実践至上主義の大学だが、一応は「大学法人」としての体裁を保つため、ごく少数ながら「共通テスト利用」の一般教養枠も設けられていた。
そこへ突如として舞い込んだのが、広信の願書である。
「見てください。今年の『共通テスト枠』に、とんでもないスコアの願書が届いています……!」
顔に深い十字傷を持つ入試担当の教官が、画面を食い入るように見つめながら唸った。
傍らに立つ片眼の学部長も、白髭を撫でながら目を見開く。
「な、なんだこの点数は……!? すべての教科おいて隙が一切ない」
「ええ、他の難関大学にも余裕で受かるレベルです。我が武林大学に、わざわざこの成績で乗り込んでくるとは……」
入試担当の教官は、ゴクリと息を呑んだ。
「間違いありません。こいつは恐るべき頭脳派の怪物ですぜ……!」
「フン、面白い」
学部長は獰猛な笑みを浮かべた。
「実技試験を免除してやる価値はある。首席合格として迎え入れろ。鴉佐川と並ぶ、今年の台風の目になるかもしれんな……!」
こうして、こたつで呑気にみかんを食べていた広信は、武林大学の歴戦の教官陣から「圧倒的な知能で業界を支配しに来た、バケモノ」と勝手に恐れられながら、栄えある【一般入試枠・首席】としての合格通知を受け取ることとなった。
高校時代の地獄のような部活動から解放され、順風満帆に努力を実らせ、念願のキャンパスライフを手に入れたはずの広信。
しかし彼の進路は、愛犬のタックルと彼自身の持ち前の鈍感さによって、見事に血で血を洗う魔境へと直結してしまったのである。




