10ページ目 脳筋は場合による
今日も平凡な一日だ。
書類の間違いが多いことや、相変わらず銀髪の女官殿の姿が見えないこと、閣下がお忙しそうなことや、ふらふら歩いている陛下を見かけた気がすることなどはいつも通りの出来事である。つまり、おおむね平常通りなのだ。
この職場にいると驚きに対して耐性が付く。驚くべきことも、何となくああそうかと受け入れてしまうのだ。
とにもかくにも、ここしばらくはナイフの輝きなど見ることもない穏やかな日々が続いている。
休憩中、女官が淹れてくれた茶をすすりながら、こののんびりした日が続けばいいと切実に願った。ささやかな願いである。
今日の茶も甘みの少ないすっきりとした飲み口のものだった。いつもと違い、黄金色の水色をしている。女官が、珍しい半発酵茶だと教えてくれたが、私は飲めればいい。キラキラと目を輝かせて茶の話をする女官を遮れず相槌を打ったので、今限定で私もにわかに茶に詳しくなっている。
ただし、半刻も持たずに茶のことは頭から追い出されるだろう。後半刻というのは、休憩が終わる時刻だ。茶のことは消え果て、書類のことで頭がいっぱいになるだろう。
「ご休憩中、失礼します」
仕事を終え退出したはずの女官が、ドアをノックした。
「どうぞ」
促せば、女官は洗練された一礼をし、私に来客だと告げる。
客?
職場に訪れる個人あての客など、初めてではないだろうか。
「私宛に、ですか?」
「はい、レジス・グリ・アダン様です」
長兄である。珍しい。何かあったのだろうか?
通してもらうように依頼すると、すぐに兄が現れた。
私と同じ、枯れ草に近い色の金髪と茶色の目の青年である。
無駄な筋肉のないしっかりとした体、浮かべる笑顔はなぜかさわやか。黙っていればそんな容姿のくせに、いるだけで存在が暑苦しくにぎやかな男。
それが兄だ。
普段は軍属なので、全く会うことがない。これでも1年ぶりの再会である。
兄は爽やかな笑顔を振りまいた。
「リー! 元気していたか?」
兄は声が大きい。耳が一瞬馬鹿になりかける。それでも何とか笑顔を取り繕い、兄に声をかけたのだが。
「久しぶ」
「寝るとき腹を出していないか? ん? ちゃんと飯食ってるか?」
最後まで言えなかった。
兄はひとの話を聞かず、せっかちである。私の言いたいことも、なかなか最後まで言えない。兄に言わせると、私がのんびり過ぎるそうだ。
長い脚で瞬間移動かと思うぐらいの速さで接近した後、固い手のひらでぐりぐりと頭をなでられる。
「痛い痛い痛い! 兄さん痛いから!」
首がもげる! 相変わらずの脳筋な兄は加減がうまくない。
いや、できるだろうが私に対しては遠慮がないのだ。
幼いころは、兄が高い高い~と言いながら、私を自分の背より高く放り投げていた。あやしているつもりだったらしいが、私は恐怖で硬直していたので泣かなかった。次兄は恐怖で泣き喚いたらしい。そうして泣かなかった私は、兄の中では私は丈夫だと思い込まれているようだった。
「リーは相変わらず小さいなあ」
兄がデカすぎるだけだ。
断じて私は小さくない。
いうなれば、平均的な身長だ。
これは声を大にして言いたい事実である。
リーというのは、内戦時代に転居を繰り返していた時期の呼び名である。本名をもじって家族は皆、別名を名乗っていた。なぜか、兄は全く関係ない名前だったが。
「いきなりどうした……んですか?」
唐突に丁寧語に切り替えたのは、兄の背後に人がいたからだ。
「今日はなーリーに報告に来たんだ」
報告?
はじける笑顔の兄を眺めてから、背後の人影に目を移す。
そちらにたたずんでいるのは、褐色の肌をした妖艶な美女だった。きっちりドレスを着こなしているが、その豊満な肉体のラインがどうしてもにじみ出ている。
黒々とした髪は独特のくせがあり、それを利用してゆったりと結い上げていた。
緑の目はややたれがちで、それが色気を倍増させる。流し目だけでファンが増えそうな美女である。
私は兄を見た。満面の笑顔である。
そして美女を見た。にっこりと笑い返される。濡れたような赤い唇が美しい。
「こちらは、レナ・スーブル・ニムノス・エモニエ、俺の嫁だ」
「は?」
ちょっと待て兄、今何段階かすっ飛ばさなかっただろうか?
「レジス」
美女――レナ殿がにっこりと笑って、手にした扇で軽く兄の肩を叩いた……ように見えたのだが。
打撃音が妙に重い。
あの、筋肉の権化のような兄が、今の一撃でよろめいた。私はぼんやりとそれを見ていた。
「きちんと紹介してくださいな? 今のでは、不合格です」
「ああ、すまんすまん」
兄がぼりぼりと頭を掻きながら謝罪する。
「だが、一番いい説明だと思わないか?」
悪いとは思っていないらしい。
「短すぎます」
私はぼんやりとやり取りを眺めながら、状況を一つずつ整理しようと何とか頭でまとめていく。そうだ、まずは、
「ええと、式は」
嫁というからには、知らないうちに結婚式を挙げたのだろうか? いくら忙しいと言えど、兄の結婚式位は融通していただけるのだが。自分の知らないところで、兄の結婚式が終了していたなど。さすがにショックを受け、私は相当愕然とした顔をしていたようだ。
逆にレナ殿があわてて言葉を足してくださる。
「ああ、まだ先です、来年です、けっしてヴァレリー様に連絡していないなのではありませんわ」
「あ……そうですか、申し訳ない」
気を遣わせてしまった。いい人のようだ。兄に足らない思慮を持っている女性のようで、安心する。
そうか、レナ・スーブル……。
レナ殿の名を反芻して、音を立てて私の顔から血の気が引いた。
彼女は伯爵……エモニエ伯の、直系の姫君ではないだろうか?
めったに社交界に出てこないため、私はお顔を拝見したことはないのだが。
兄は、彼女を「レナ・スーブル・ニムノス・エモニエ」と紹介した。
初めは言うまでもなく名前だ。次は爵位、ニムノスは領地の名称であり、最後が家名となる。ちなみに、うちはただの士爵であるため、領地がないので名前は3つを名乗る。
ニムノス領のエモニエ伯。その姓は、とてもよく存じ上げている方と同じ名前だ。
にっこりと笑う人の悪そうな笑顔が脳裏にはじけ、私は脱力した。
「いつも兄がお世話になっております」
にっこりと美女が笑う。私も同じように、
「こちらこそ愚兄がお世話になっているようで」
と思考を放棄しながら言葉を返した。
彼女の言う「兄」は、第二秘書官のことである。
第二秘書官と彼女は、確かに瞳の色も髪質も同じだ。よく見れば目のあたりがかなり似ている。ただし、肌の色があまりにも違い、それが印象を重ね合わせること阻んでいる。確か、先代のエモニエ伯、つまり第二秘書官や彼女の父君は一度奥様と死別し、再婚されていたはずだ。おそらくは母が違うのだろう。
はっきり言って、かなり家格が違う婚姻であるが、兄は相変わらず何も考えていなさそうな顔をしている。婿に入るのか嫁にもらうのかは謎だが、そのあたりはさすがに二人で考えているだろう。私が口を出すことでもない。
「今日は休みだから報告に来たんだ。本当はお前が休みの日がいいと思ったんだが」
「秘書官殿はお休みがないというもっぱらの噂ですから」
噂……あながち、真実に近いのだが、それはさすがに機密事項にかかる。秘書官の業務予定も、身内といえども部外者には言えない。へらりと笑い、話題を流させてもらった。
「いったい、どこで知り合われたんですか?」
「ん? 馬上試合で出会ったな」
試合を貴婦人が見に行ったというパターンか。兄は、黙っていればさわやか筋肉青年である。口をひらけば、いささか残念な部分が見えてしまうが、恋する乙女にはそれも可愛らしいと好評だった。そう、兄は意外ともてるのである。
そんな兄が相好を崩しながら、
「強烈な槍の一撃に、惚れたんだ」
槍?
「い、いやですわ、はしたない女だと思われます」
レナ殿も、褐色のほほを赤く染めて小さく抗議の声を漏らす。急に秘書官室がピンクの空気に包まれたような錯覚に陥った。
「だが、あんなに重く鋭くえぐるように、急所を狙った一撃……あれに俺はぐっと来たんだ」
「もう……レジスったら」
疑問を解消するには、ここで割って入るべきか。なぜ手を取って見つめあう。そんな話題だったか?
「えー……と、兄上様、まるでレナ殿が馬上試合に出られていたような……」
「そうだ。全身鎧で身分を隠して、出場していたんだ。その漢気にも胸が震えたな! 盟友になれれば、と思ったが、まさかこんなに素晴らしい女性だとは思わなかった」
レナ殿は真っ赤になってうつむいている。
そもそも、令嬢があんなに重い全身鎧を着たうえで、さらに重量のある槍を振り回して試合に臨むとは、想像を絶している。今のところ、国内では女性騎士は片手以下の人数だ。それも王妃様専属で、である。一般的なご令嬢は、戦の術などは学ばない。普通は。
といっても、よそ様の家のことだ。私が詮索するのもおかしい。
彼女の細腕を眺めた。隠れ筋肉か? いったいどこにそんな力を秘めているのだろう。
「……素敵な出会いですね」
と微妙な感想を述べるにとどめた。兄とレナ殿は、見つめあったまま動かなくなった。それはどうでもいいが、そろそろ休憩が終わる。
「式の日程は、改めて教えてください」
「あっ、ごめんなさい」
レナ殿が赤くなりながら小さくなる。容姿は妖艶であるが、言動を見ていると可愛らしい方だ。これが、ギャップにときめくというやつか。私もとうとうギャップにひかれるということを理解してしまったか。
兄は咳払いをし、気を取り直したようだ。
「というわけで、式に出席してくれ。風邪をひくなよ? 休憩中、邪魔したな」
「お体には気を付けてください」
二人を見送りながら、声をかける。
「わざわざありがとう」
二人とも休憩時間が終わろうとしているのに気づいて帰って行った。ああ、そういえば、衝撃が大きすぎて椅子も勧めてなかった。失敗した。
強烈な存在感を放つ二人を廊下で見送った後、私は虚脱感とともに、あることに気付いた。
……兄が増えた。義理兄ではあるが。
にーちゃんと自称する第二秘書官の口癖を思い出す。
あれが義理とはいえ、本当になるとは、何とも言えない気持ちが湧いてくる。やたら自称すると思っていたが、第二秘書官はこのことを知っていたに違いない。
面倒事が増えた、と、すっかり冷えてしまったお茶を呷りながら考えた。
休日がどうというよりは、結婚式の日、二人も秘書官が抜けれるのかどうするのか、相談することを考え、ずるずると椅子に沈み込む。
あまり秘書官の予定自体も、情報流出を考え、最低限の場所にしか記録をしない。本当に、予定表や日記があれば記録できるのに、と八つ当たり気味に考えるのであった。