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203 開けてはいけない

それは些細なわだかまりであった。しこり、もしくは均等に並べられた中の嫌な仲間外れひとつ。そういう違和感が四面に飛散したために、一色化した脳内は折角正常であった認識を歪めたのである。要するに、私の視界には一切のもの、床や壁にまで目があるように映るので、左へ意識を逃がそうとすると右が、上へ意識を逃がそうとすると足元が怪しさを持ってしまうという。ゲームを開始してからというもの何もかも気懸りになる私の脳みそは、なんと便利でなんと愚かだろう。来る時は壁の延長でしか存在しなかった扉も、戻る頃には、私の目玉を掴もうと手招く夥しい手に変貌しており、ドアノブを触る頃になると私は、催眠をくらった様になってしまった。これらはつまり警告である。早くやり遂げなければ、お前の脳は壊れるぞ。という脅迫が、私を際限なく襲っている。成せ。さもないと、悪魔は本当に私の手で——。その刺激は非日常であり、没入感であった。誰もが幼少期に夢見る空想の再現。史上の体験。愉快。

 しかしドアノブをいざ捻ろうとしたところで、私の思考は待ったがかかった。たかが気配程度の幻覚で、彼が実際そこにいる保証がどこにあろう。気狂った人になって見境なく扉を開けた結果、私が彼を探しているという情報がどこからともなく漏れ出し、彼に察されてしまったなら、今度こそ私たちは出会える機会を失うかもしれない。その時が本当の敗北だ。私は演じるべきである。この新感覚をあたかも味わっていないように振る舞わなければならない。と、まずはドアノブに触れていた手を引っ込めた。私が我慢したことで夥しくあった手も、自然と無機質な鉄の面に吸い込まれていくのだった。——開けてはいけない。今は上へ行こう。生真面目になれば高揚感も不思議とやけに冷静な心持ちへシフトし、言霊というのは存在するのだという気にさせた。階段を上る間も、顕著だった幼稚さが馬鹿馬鹿しい程に感じられず、私は私が偽物である様相に陥った。けれど数秒後にはやはり私であった。地上階から僅かに響く物音は、地上階では恐らく耳を埋める程がなり立てる騒音になっているだろう。その音が聞こえた刹那、私は肉にありつけた野生のように、堪らない好奇心で駆け出すのだった。室内に台風が起こって、重かろうが軽かろうが問わず、滅茶苦茶に掻き乱してしまっているふうの異様な物音であったから、何を目の当たりにできるのだろうと感情論が先走ったのである。しかし残念なことに、私が一階へ辿り着いた頃に音は止んだ。あれだけ五月蝿い騒音を出しておきながら、まさか私が駆け上がってきた音など知りもしなかっただろうに。私がそうして来たのを慌てて気づいたような挙動だった。出処は?私は正義感を持った巡回警備員になりきった気で、音の在処を探そうとした。けれど私がどんなに役を演じたところで、客観的に見れば人探しに没頭する物好きかもしれない。ならば、私は診察室へ向かった。行先を迷うなら原点回帰して改める魂胆だった。外来フロアに来て真っ先に入った部屋は何処だったかなど、答えは考える必要もないほど簡単で、数字のいち、平仮名のあ、英文字のAという始まりを指す記号は非常に便利だ。けれど、最初に入った部屋がAであったことに、初めて嫌悪を覚えることになろうとは。私が目にしたのは、一目瞭然荒れた部屋。壁の平面に側面をしっかり沿わせていた机も反対側へ吹き飛ばされ、そこにあったはずのベッドは窓ガラスを突き破り、あと少しで外に投げ出されそうになっていた。綺麗に向き合っていた椅子すら原型はなく、潰された勢いで部品が飛び散っている始末だった。私が想像していた通り、そこだけ台風が起こった状態であった。けれど私が恨んでいるのはそこではない。否、恨んでいると表現するのはやや過激であるので、ここはやられた、という言葉に変換しようと思う。私がこの部屋を先に開けてしまったことは、つまり私が異常に耳が良く、音の在処を聞き分けて彼を探しに来たと受け取られかねない事態である。私はこの部屋を開けてしまった。見てしまった。今慌てて扉を閉めたところで事実は取り消せない、ということで、私は一呼吸おいて診察室にお邪魔した。何かしなければ、という衝動に駆られ、何かないかと周囲を探した。まず全体を見た。病棟の様に巨大な作品が出来上がってある可能性があったからだ。一見すれば分かりにくい事柄も、観察していれば意外な発見があったことは、既に何度も経験した以上立証できるのだ。けれど、病棟の芸術は唯一無二であったらしい。それでいい。それこそ相応しい。次に逆さまの棚から引き出しをひく。何もありはしなかった。最も、私たちから意図的に逃げている子が、現段階で私たちに向けたメッセージを贈ってくれるなど、それこそ矛盾した話なのだろうが。けれどもしメッセージを遺してくれるのなら。そのメッセージとは一体何だろうか。……どっか行け、ではないだろう。ニイが私たちの前に現れてくれたのは何らかの訴えたい目的があったからに違いない。でなければ、真後ろに立ってわざわざ私を見つめる理由がない。それと同じことで、人影が頻繁に逃げることにも、何らかの理由があるはずだ。それを突き止めることが、彼を発見するチャンスに繋がらないだろうか。私は今一度荒れ果てた全体図を見渡す。犯人は一体どうして、室内をこんな惨状にしたがったのだろう。私のような美学であるなら、私が来るよりずっと前からこんな部屋があっても不思議ではなかったはず。では怒りか。自分たち二人だけの縄張りだった居場所に部外者が紛れ込んだことで、許せない心情がことごとく爆発しているのだろうか。怖いながらに様子を見ていたとするなら、私に見つかる前に逃げていた事も納得がいく。なら、私がすべきことは見つけることではない。——捕まえるのだ。警戒する迷子犬を捕まえるのなら、人は決まって角に追い詰めようとするだろう。私もそれに習って、彼を逃げ場のないところに追いやらないといけない。それなら、先程の霊安室が最も都合良い。地下の奥部屋なら、彼が扉に入った途端、ただただ入口の前で時が来るのを待ち伏せればいい。そうして観念し出てきたところを抱擁すれば、ゲームはクリアも同然である。が、そう簡単に霊安室へ追いやれるなら苦労はしない。まず、私はそこから考えなければ。病棟からライターを持ってきて火事を起こそうか。院長が遺した遺産を芸術を、私は諸共焼き払ってしまい、鮮やかな赤が建物の窓や扉などから噴き出し、輝かしい火花が何もかも奪い去ってしまう無常は、きっと戦慄するほど美しく見えるだろう。しかし、その情景を焔に包まれる者が観ることは叶わないのだ。それを避けて外に行けば、彼は私に見つけられることなく灰になるだろう。それではあまりに面白くないので、私はこの案を撤廃した。代わりに、案を利用してみせようと思った。放火するのではなく、放火するふりをすればいい。彼が縄張りを荒らされて怒っているのなら、居場所を焼いてしまおうと目論む輩は、何としても止めようとする。しばしば私の様子を窺っているのなら、私が火をつける瞬間もすぐに見つけてくれるだろう。


 ✙


 外の草むらを強引に掻き分け、激しく揺さぶられた雑草から小さな羽虫が飛び上がった。雑に掴んだ懐中電灯の光を諸に浴びた羽虫は、白く発光し、にわかに闇へ飛び去ると、ものの数秒で消え失せた。退かして斜め四十五度に傾いた青々は、私が手を離した隙に仕返しの如く跳ね返ってきては、私の立ち去ろうとした背中に幾度となくぶつかるのだった。廃病院は好意的に思うが、そこから一歩離れた先からは不快であった。ところで、どうして私はこれほどまでに外が嫌いになったのだろうか。病弱だった頃は、憧れであったはず。

 病棟に戻った後、私は病棟を故郷のように思い、とても久しい友人と再会したような喜びを覚えた。なるほど、それが起因である。

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