204 見つけた
炎とは、絶対的な自然の脅威でありつつも、圧倒的な鮮烈を魅せる、誇り高き絢爛である。記憶だ歴史だ住処だ、何であれ、容赦なく呑み込む烈火を美しいと評せば顰める者は当然出るだろうが、けれどその人すら、慄きつつ火という恐怖に依存してしまう。
山火事を見たことはあるだろうか。小鳥がツバメの涙ほどの水を与えたところで、許さず広がり続ける威厳を。風が吹き荒れる度、もがく木々を絶え間なく灰に還し、山肌を照らす赤が遠くの町の夜景の如く映える気高さを。黒々した林の隙間から漏れる赤い光が、揺らめき、決してひとつの形に留まらず、その為に激しく明滅する秀美が、天まで襲いかかり私たちの視界を残酷に罰してくるさま、私はそれを不謹慎ながらも美しいと思えてしまう。
ある意味独裁者ともいえる。私たちは非力なので、自然の力なしでは為す術なく立ち尽くす他方法はない。まるで猛威を振るう権力者に悔しながら平伏する無能の民。炎の目には私たちがそのように映っているのだろう。見えておきながら、炎は私たちの心まで燃やすのだ。あゝ、なんと卑劣な。しかしそうでなければ炎は秀麗にならない。どんなに極彩色に瞬く宝石であろうと、それが偽物なら少しの価値にもなれないのと同一である。炎とは薔薇の棘。鈴蘭の毒。ならば業火も麗しいと結論付けられて仕方あるまい。罪だろうか。ならば眼を惹く絵画も誰かにとって罪なのだ。
例えば怪盗、殺人鬼、暴君、そういった極悪人が百年経って風化されれば、美談となって恋される。いつか述べた通り、悪行とは人の興味を惹き立て、最も注目される事柄だろう。炎もまた人の眼を焼き付ける悪意。即ち、悪とは本来罪にならないのかもしれない。
私は瞳の中に炎を浮かべた。それは独裁的であるのに雅やかな紅蓮。頑固な猛炎は勢いを止まず、周囲の灰色も私の嫌いな青々も我が物にする。その時、呆然とした頭の中で人は思う。赤だ。燃えている。と。その瞬間、炎は全てを自分の色で染めるのだった。大火の目論見は果たされるのだった。炎は生涯記憶に残り続けてくれる、最高の絵画である。
私の手中には一本のライターがあった。白い蝋燭を仄かな温もりと細く頼りない灯火で色つけたライターである。深い闇の中を、脅威を隠して優しく灯ったあの火は、確かに誰かの命がそこにあるかの様だった。蝋燭を握った手の影は色濃く、今ライターを点火した瞬間もそうでいてくれた。微細に伸縮する赤は、中心部だけ王冠を思わせる金色で、私がそっと傾ける動きに合わせ、火は柔らかに揺らぐのだった。それは慈愛に見える。けれど、猫被りである。誘惑に惑わされて触れれば牙を剥き、瞬く間にその身へ憑依する悪魔。灯火が近づく緩やかな時間、入口を塞ぐ三人掛けのソファは転々と広がる茶色い染みを滲ませた。白かったであろう布は古くなって黄ばみ、埃で黒ずむ。哀愁漂う醜い物体は、細かな汚れまで徐々に姿を暴露し、院内で止まり続ける時間の経過を知らせた。無機物とはなんと可哀想だろう。
私は元から、この無機物に火をつける気などなかった。ソファから燃え盛る芸術を観賞しようとも思っていなかった。けれど実際に火を近づけてみると、ますますソファは終わりを迎える思い出に見え、火を近づける速度がゆっくりであるほど、焦らされる様な緊張感が私を高揚させた。言い換えれば、本当に燃やしてしまうかのような錯覚に陥ったのだ。その過程で私の瞳に浮かんだものは又も焔である。いっそこのまま手を滑らせて、妄想通りの焔が廃病院を包もうと、私はそれで満足と思うかもしれなかった。記憶もゲームも悪魔も何もかも投げ捨てて、たった小さな火によって生涯を終えられた情景を、外から堪能した暁には、私はもう一度病院へ足を踏み入れよう。そして、悪魔と同じく灰になれれば。
しかし私もそこまで感情的な人間ではなかった。私が真に望んでいるのは情緒的な死ではない。最終的な着地点が完璧な死である分にはそれで良いと思うが、そこへ行き着くためには過程がいる。そう、即ち記憶。花開く前に蕾を燃やしてしまっては勿体ないだろう。私は記憶を探さねばならない。今はまだ只中なのだから。——それにしても火はあまりに綺麗であった。私が煩悩に固執しすぎた故あなたの元へ飛び込めないことを、とても残念に思う。
『さあどうか、知恵をお貸しくださいラプラス様』
いくら傾けようと縦に燃える赤の中に、私は何かを見た。それは焔の残滓であったが、凝視する暇もなく私は手元のライターを落とした。但し、燃えはせず。ソファは元の暗闇の色と同化して、手のひらサイズしかない小さなライターもソファと変わらぬ色になり、視界から途絶えてしまった。そうしたのは無論私であった。そしてこれ以上ライターを拾う理由は失せたのである。無音を継続していた私の耳は、煩く駆け寄ってくる足音をとらえた。説明はそれだけで十分だろう。否、説明する暇がない。
私はとてつもない達成感と共に有頂天であった。手の震えは興奮を隠しきれず、喉元から熱がせり上がってくるのは、さながら猛火に攫われたかのようだった。私はライターを落とした直後、逸る気持ちに応じて後ろを振り返った。我ながら流れ作業のようであった。消えたライターの代わり、懐中電灯が立ち止まった少年の姿を映す。白く暗闇を照らすライトは中央の人物を確かに捕え、ドラマのワンシーンであるかのような決定的な緊迫感を与えた。手に汗が滲む。頬がほころぶ。私の瞳は一時も彼を逃しはしなかった。
「見つけた」
彼は私が自らライターを消すなど思わなかっただろう。これほど炎を愛する私が衝動に陥らなかったのは、天地がひっくり返る心地がしただろう。だから彼は立ち止まったのであろうが、それから少年が逃げたのは一瞬であったので、私も少年の顔は一瞬しか見れていない。しかし、言語化せねばならない。私が彼を捕まえたとて、そこで見る彼は二度目の彼なのだ。私は少年を見た時の初めを焼き付けたい。冷静な私の分析ではなく確かな興奮にある時の一瞬を、記憶に刻みたい。その為には二度目の淡々とした観察など意味がない。なので私は精一杯の語彙力を以て、見たままの光景を言おう。私は彼の目を見たのである。それはニイの時も同じであった。けれどそんな事は至極当然だ。人は個人を見ようとする時、第一に目を見るのだから。目とは情報を受け取る器官でありながら、他者に情報を与える器官でもある。人はその情報を基にどんな人間かを印象づけるのだ。けれど、もしこれが単なる印象に留まらなかった場合はどうだろう。ニイとの対面で、私はその虚ろな瞳と写真の笑顔を比較した。打って変わって生気のない瞳は私の目に焼き付いた訳だが、他者に対し、それを上回ることがあると、私は予想だにしていなかった事実を告白しよう。少年の両目は包帯で幅広く覆われていた。尚、見えているのか、という当然の議論は苦笑せざるを得ない。私が見たのは包帯の奥である。白い布は左右だけ妙に沈み、そこから楕円の黒シミが、掠れた水墨の様に滲んで窪みを際立たせる。少年の目は空洞であった。
ある意味、黒シミは目にも見えた。授業中の居眠り常習犯が誤魔化し切れるはずもないのに瞼に瞳を堂々と描いて、黒板を見ている風に頬杖をつく。そういう子供らしい偽装を行なっていると映った。というのも、私はあの黒シミを当初、生贄に捧げられた時の痛々しい爪痕と思っていたが、少年が逃げた後になって、そうではないと気づいた。あのシミの色を私はよく覚えている。包帯を解いたニイの蜜に似た唇、その奥から覗ける黒色が、シミと一致する黒色をしていたのだ。恐らくは、ニニの空洞もニイの口腔と同じ、完全な空洞ではなく無数の目玉が蠢いていることだろう。




