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205 子供たち

足音が大きい。しかし私は生まれて初めて煩わしいと思わなかった。ニニがニイのようであれば、私はニニを見失ってしまうかもしれなかったのだ。私はニニが向かおうとする診察室を先回りし、受付カウンターに隠れかけたところを覗き込んだ。ニニが死角に行こうが距離がしばし遠ざかろうが、彼が騒々しく走り回ってくれるのなら、私は音で位置を把握できるのだから。少年は慌ただしく、歯磨きを促す広告を壁から破き、近くの棚を両手でなぎ倒し、軽い家具は掴んで振り回し、投げるのだった。しかしそれら全てが私の方に向かってくるのではなく、寧ろ私へ襲いかかってくるのは稀であった。ニニが私に攻撃するのが目的ではない証拠に、彼が投げる方角はあまりに不規則で、時に私とはまるきり真反対の真正面に投げることがあった。花瓶の様な片手で持てるものであれば、真下目掛けて叩き割ることだってある。パニックになっているのだろうか。それとも怒りを表現しているのだろうか。どちらにせよ、彼の住処が病棟ではなく外来フロアであることは感謝したい。冠水した回廊は私たちとを隔てる境界線だったのだろう。……しかし、どれだけ逃げ回ろうが少年は窓を飛び越えて外に出ようとする素振りがない。逃げている合間に廃墟が燃やされることを懸念しているのか。それなら私と彼はよく似ている。大事な住処を荒らすのが皮肉だろうが、自ら賞賛したはずの芸術を破壊するのが矛盾だろうが、それは傍から見た勝手な偏見であって本人の中では核となる筋なのだ。私はそれを理解しているからこその行動なのであって、また彼もそうであるとするなら、私たちは分かり合えるはずなのに。何故逃げる?何故逃げる?何故逃げる?やはり私は理解されないのだろうか。ニイの虚ろな瞳さえ、私を蔑む冷めた目線だったのだろうか。それならば、私を認めてくれるのは悪魔だけである。悪魔は蝋燭の火に触れた。即ち、悪魔は私の気持ちに共感してくれるのである。私は変わらず少年と追いかけっこをする。その意味はいつの間にか変わっていた。けれど、いつの間にの間に、私は霊安室のある地下まで少年を追い詰めていた。以前霊安室で私が私を奮い立たせていた時と同じ、その調子。その調子。という掛け声が私の中で反芻される。その調子。その調子。物語のクライマックスみたいな盛り上がりが駆ける階段の反響に合わせて蓄積した。既に最下段を越え奥の廊下へ突き進んだらしい少年は、鉄の扉が閉まるのを音高く鳴らす。霊安室の扉は私が片方倒してあったので、手前にあったいずれかの扉であることが明白だった。配管から未だに漏れ出ている汚水など、気にしている場合ではなかった。なので私は身を縮ませず、この時ばかりは真ん中を突っ切った訳だが、漏れた配管の隙間から浮き出た一雫の、重力で下へこんもり膨らんだ小さな実は、絶えずその実の殆どを空中へ飛び立たせていたというのに、私が通る一瞬は時を止めていてくれた。そして、私の身体に押された風の流れが雫を微かに揺らし、先端のよく膨らんだ部分が私の方へ分離する様子は、応援する人の手の振り方によく似ていた。分離した小粒は濁りながら地面に落ち、コンクリートに集まった染みよりわずか数センチ先で、みなより色の薄い微かな染みになって蒸発する。私はそれを置いて行き、一番手前に見えた鉄の扉を開けた。札には警備室とあった。

 部屋に入り、まず私はライトを消す。元よりそのつもりはなかったものの、この部屋に限っては私の懐中電灯の力など、不要だったのである。正面の防犯カメラ映像だった。厳格な監視者は役目を終え、黒枠のどれもが永久的に冷えきった始末なのに、左上の画面だけが緑の光を映し出し、死のうとする星の点滅を真似ながら警備室という光景を不確実に浮かび上がらせていた。低解像度な上、ノイズもかなり鮮明で砂嵐じみているのに、たった一つ生き残る勇敢なこと。しかもそこには、ニニがいるではないか。場所はボイラー室であった。配管が張り巡らされ、それらはコンクリートの壁を這う見た目をしていた。その近くに配置された円柱の機材の隙間に彼がしゃがんでいることをカメラは俯瞰した視点で教えている。画質の粗さから本当にニニである、という確証はあったといえば嘘になるが、私はこれをニニだと思う。その人影はドアの方向から隠れるようにしゃがんでいたからである。私は本当に運が良い。厳密に言えば、この病院全体が私の味方をしている訳なのだが、それでも、それ自体が運良い。何故ここだけ電気が通っているかなど、そんな考察を巡らせたところで時間の無駄だけれど、ここが生きていて、ニニの居場所を随時知らせているなら、焦らないことは無駄にならない。私はこの廃病院において最も異観なところをしばし楽しもうとしたのだ。というのも、操作卓には一冊の日記が、誰かに読まれるのを待ち続ける静寂さを纏っていたので気になった。芸術作品を観賞する時の好奇心は生まれないが、ほんの興味本位である。日記を手に取る最中、私の瞳は執拗なほど映像と日記を行き来していたが、やがて日記を開く頃になると一点ばかりを眺めるようになった。……見えない。明かりがついているとはいえ、羅列された文字を見る為には些か頼りない明かりであった。私は再び懐中電灯を握り、日記のめくられた頁に向かって点灯した。

 ……█月█日。

 院長は人が良い。深夜に差し掛かる頃、彼はわざわざ私のところに立ち寄ってコンビニのおにぎりを差し入れしてくれたのだから。その時私たちは雑談とも言えないほど短い会話を交わしたのだが、それは本当に他愛ない、近況報告程度の話でしかなかった。しかし不意に院長の口から「子供たち」という言葉が飛んできたので、私はその時院長に子供がいることを知った。院長とこうして話す機会はあまりなかったのだ。けれど、述べた通りこの時は仕事中であった。私が一言に食いついた為に意欲のない怠け者と思われたりしたら堪らない。会話が自然とお開きになったのに従い、私も机に戻ることにしたのだった。

 腹ごしらえに、手に持ったままのおにぎりを開けた。薄い袋は御丁寧にも開ける順番が記されており、私は番号に沿って柔らかい袋を破き、そこから現れる、大きな海苔一枚に包まれた深緑色のおにぎりにかぶりつく。手や唇に表面が貼り着く感じと噛み切った時の海苔が割れる音に、私はつい先程の「子供たち」を思い出す。子供がいるのか。それはいい。あの情け深い院長の子供ならば、それは大層愛されて、きっと純粋な笑顔を持った可愛い子らに育つだろう。

 █月█日。

 院長の子供が入院したそうだ。ナースステーションで噂話している従業員の声が偶々耳に届いただけなので、詳しいことは知らないが、三人もまとめてとはどういう事態だろうか。一人が流行病に罹って伝染したというなら話は分かるが、言うまでもなく、ここは精神科である。集団ヒステリーという言葉は聞いた試しがある。けれど入院するほど重くなることはあるのか。はたまた、私が知らないだけでそういう病気があるのだろうか。あの院長が側に居るような環境下で三人もの子供が、狂ってしまう程のストレス下にいたとも考えにくい。残念ながら、私はここで働いているといえ、専門知識のない単なる警備員なのだ。

 振り返れば最近、院長の様子も違和感があったように思う。いや、しかし、あの噂話を聞いたが為に私の脳内が勝手にそういうこととして補完せねばと企んでいるだけかもしれないが、私が記憶している彼はどこかずっと上の空でいる雰囲気であった。けれど、やっぱり気のせいかもしれない。もしも院長が本当にぼんやりしていたのなら、それに気づいた誰かがとっくに声を掛けていそうなものである。何度も言うが、ここは精神科だ。私が気づけるなら、プロはもっと早く気づけるのだろう。

 兎に角、子供たちの早期回復を祈る。

 █月█日。

 私はあれ以来、院長を強く気になりだした。ストーカー紛いであることは許して欲しい。私は院長の近況を洞察しようと、巡回する振りをしては従業員の噂話に聞き耳を立てた。しかし基本は患者との関わりや仕事の愚痴を共有しているばかりで、私が欲する情報は全くなかった。それもそうか。どんな人気アイドルだって、毎日話題に上がって持て囃される、そんな話はない。しかし、たった一度だけ有力なものがあった。誰が話していたとか、何処で聞いたかは、私が当時もっと詳しく聞きたいと思った際、そんな理由で話したこともない人間に近づけば訝しがられるだろうと、目を瞑ってしまったので覚えていない。けれど私は暗闇に覆われた記憶の中で確かに聞きとった。「院長の子供を、見かけなくなった」

 はて。退院でもしたのだろうか。けれどそれなら例の言い方はしないだろう。私であれば直接「退院した」と言う。私はいつまでも挟まって取れない食べかすの様な胸の取っ掛りをどうにかしたく、なんと愚かにも警備員の肩書きを悪用して書庫へ忍び行ったのだ。私は隙間を見つけては何日も見つかるまでそれを繰り返していた。——けれど、三人のカルテは何処にもなかった。退院したとしても、まだカルテは残っていていい。誰かが持ち去ったのか。なんのために?

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