206 焼け!焼け!
█月█日。
666号室のニオという噂はご存知だろうか。最近、院内でまことしやかに囁かれている都市伝説らしい。勿論、666号室という部屋は病院に存在しない。けれど、存在しないはずの部屋に院長が行き来している様子を目撃した者がいるんだとか。場所は何処か?噂によって階段の踊り場というものもあれば最も都市伝説らしく、霊安室の奥というものもある。私が有力視したのは院長室の隣という声だった。
私は確かめに行った。何故ニオなのかも悟った。私がこれから書くのは懺悔であるが、誰にも打ち明けられない無責任者であることを、どうか、どうか許して欲しい。私は院長室の隣にある壁紙だけ、妙に剥がれやすい造りだったことに疑問を覚えたのだった。足元を見ると、外側に向かって巻かれるように壁紙がめくれ、壁紙の大きさは正しく、丁度病室の扉を隠せるサイズであった。私は周りに誰もいないことを確認し、こっそりめくれた部分を広げようと壁に耳を近づけたのだ。その時、私は微かながら聞いてしまった。「助けて」「痛い!目が痛いよう」と。私はこの叫び声が誰のものか知ることはなかったが、最初の目撃者はニオの叫びを聞いたのだろう。ニオとは院長の娘、その一人である。
警備員たるもの、私はここを開けなければならなかっただろう。私は恐怖してしまった。何か良くないことが行われているのではないかという疑惑が、私には耐えられなかった。私は、逃げ出した。それ以降も666号室のニオという噂は病院にあり続けた。ありながら誰も正体を知らないのは、私のように、皆して臆病だったからだろう。
院長の様子はあれからもみるみる変わっている。前のような包容力ある面影という面影はなく、一人淡々と独り言を零す様は、患者が不安になるからと、遂に長期休暇される始末になった。それでもまだ、院長の目撃証言は絶えなかった。院長。あなたは一体どうしてしまったのか。
……私は歓喜に満ちた。行く先先に在った数数の美的を顧み、しみじみ浸った。院長というその人は、悪辣非道な行為という残虐性を意図的に披露し、その身を以て汚れなき人に間接的な罪を着せたのだった。簡潔にはトラウマである。もしもこのような目撃談がなく、目上の純潔な上面だけを書き連ねる気でいたなら、私はあと一年分あまりの余白に改稿を長々書きなぐっていたところである。しかし、良かった。私の文章力では表現しきれない美を、私の文字が過ちを犯し醜怪に変えてしまったらと思うと居た堪れない。この場合、他者の拙い遺書であるほうが優秀でありやすい。そう。日記は遺書である。彼は拭えない罪悪感に苦しんだだろう。誰かが仕掛けた演目の掌に転がされ、付き纏う叱責の幻聴に支配され、身動きもままならなかっただろう。これは心理に基づく証言者であり、院長の美談を証明する評論家だ。
泥を塗れ!手におえぬ火傷を負え!よって、芸術の悪辣に拍車がかかるのだから。どうか見て見ぬふりした束縛を、朽ちた身体だけは許してやって欲しいと、私は真後ろの、縄に括られた白骨死体を救うのだった。肉も臓器も削げたというのに、警備員であり続けようとする償いは健気であった。
救えば、私はあらゆる視野から置き去りにされた防犯カメラ映像を見直す。ニニはまだそこに居てくれたのだが、二度目に私が覚えたのは日記を読み終えた後の浮き立つ気分ではない。ひどく醜い憎悪であった。あれほど芸術の痕跡に思えていたニイもニニも、この時ばかりは金に目がくらんだ窃盗犯に見えたのだ。私としても馬鹿馬鹿しい醜態であるとは思うが、彼らは羨望の先に居る許されざる罪人に成り下がってしまった。
捕まえて仕舞わなければと部屋を出た。往復の際、度々見かけていた倒れた配管は案外目の前にあった。私は配管を持ち上げると、パンを噛んだ跡の形をさりげなく真似た先端に最適であるという考えを持つ。錆びた配管は同じく錆びた取っ手を下から支え、私が蹴ってくる足に合わせて地面のコンクリートを削った。やがて蹴っても全く動かなくなった頃が取っ手を抑えきった証である。これにてボイラー室は開かずの密室となった。しかし私は警備室に戻って、慌てふためく彼を傍観するサイコパスになりたいのではない。目的は制御室にあった。ボイラー室の温度を調節する操作盤に手を触れると、たった一つだけ生き残っていた映像のことを思う。運に恵まれてきた私であれば、運によって生きているか死んでいるかも分からない、さながらシュレディンガーの猫みたいな機械を決定的な確率で生きていると変換できないだろうか。ボイラー室の防犯カメラは機能していただろう。ならば私がそれに一縷の望みをかけることも良いではないか。
尚、私にこの時あった感情は憎しみではない。言いようのない興奮である。但し彼の生死を私が握ったことによる優越感ではないことも明白である。私はただ、花が枯れ切る変遷をイメージし、喜悦したのだ。花弁は寿命に果てれば枯葉のようになり、踏まれたなら茶色く濁り、散り散りに裂いたら見る影もなくなるように、残念なことに美しいものも死せば醜く変貌する。だから儚さが美に直結するのだ。私は只今から芸術の執行官になれる。その意味での活気だった。温度の上昇を示唆する上向きの矢印に、手を伸ばす指先が武者震う。一度押す。二度押す。三度押す。気分の高鳴りに動作がリズムを打っていると自覚するが、それすら快い。中の様子を見れない事態が夢想を更に肥大化させるので、揚々とした気分は今更止みようがなかった。
焼け!焼け!あなたの血潮に芸術家の血が流れているならば!その身をその肉を焦がし、花の香りすらかき消すほどの悪臭を導け!私にその心臓を見せて欲しい。絶対的な繋がりを私の目に焼き付けて欲しい。その憎たらしい糸を!私の熱情に呪いに炎上された体躯を以て、私の愚鈍な痕跡をことごとく刻み尽くせ!
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私の足取りは実に冷静であった。というのも私は少し失敗した気持ちでいたから。あのような場で酩酊の如く気狂うなど軽率だったのだ。観覧者とは本来もっと静的な嗜みを求められるというのに。とても、観客らしからぬ。とはいえ私の夢想から花枯れる様子が拭い去られた訳ではなかった。それは本来私の持つ論理的思考と相違なかったからである。今回はそこに感情論が合わさってしまった。私が反省すべき点はそういう理性の崩壊である。私は一貫して堅物である風を装い、制御室の扉を閉めた。廊下の奥までも遠ざかっていく反響に、私の心は更に冷静さの壁を築く。深呼吸をすればまたいつもの地下道であった。廊下で待ちくたびれた様子の悪魔を連れ、私はボイラー室の前までやってくる。毅然として取っ手を固定する配管を雑に蹴り、先程と反対に力を加えられた鉄の棒は体勢を崩し、またも廊下に激しい反響を轟かせて転がった。私はニニの置かれた不定の生死に、死んでいるのではないかと手汗を滲ませた。私が扉を開けば、そこには真っ黒く焦げた遺体。燃やされた勢いで筋肉が収縮し、肘は意味不明に曲げられ、人らしくない何かとしてそこに取り残されているのだ。私はそういう妄想をし、緊張感を生む。近づいてもいないカウントダウンが近づいてきている心地であった。空想の景色と同じように、私は取っ手を押した。冷たい金属の開く音が私の耳に入り、響いたわけでもなかろうに部屋いっぱいに響いた心地がした。ここだけ全ての電気が通っていたかなど知りもせず、死んでいるかなど私の勝手な決めつけに過ぎなかったのだが、私は死んでいるだろうという妄想を一貫し、生きているという妄想を働かせるに至らなかった。
——けれどしかし、ニニは生きていたのである。扉を開ければ一番に目につく部屋の中央で、何をするでもなく立ち尽くす白髪の少年が。私は逃げ惑うこの子を監禁し焼き殺そうとしたというのに、無傷な少年は今度こそ逃走を選ばなかったのである。




