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301 君のことだよ

重い戸を開いた時、籠もった空気はやがて私の頬を凍てつかせ、氷に変えてしまう程じっくりと冷やした。開けた途端、熱気の膜が溢れ出、衣のように全身を纏ってくるそれは私の額をあっという間に濡らしてしまうものかと妄想した矢先のこれである。私は陽炎の代わりに、吐いた息から出る薄い白煙を見た。やはり、ここも死んだ施設なのか。

 ニニは尚も私を認識している。瞳のないその空洞を白布でひた隠し、黒シミで補完する焦点の在処は確かに私であるようだった。口元は幾らばかりか開いて奥に黒は見えたが目玉は見えず、やはりあの空洞に無数の目玉が隠れているのかと、微動だにしなくなった彼の包帯に手をかけようとした。そうしかけたところで、私は止めた。謎に付き従う神秘性は謎の剥離によって容易に崩落することを、つい先程語ったばかりである。私は許せなかった。未知ゆえ掻き立てられるロマンを私が自身の手で汚すのは、至極あってはならない。手が包帯から引くと、布はものの見事に彼と融合したまま、得意げにぴんと張った布で神秘を隠している。けれど、私が今しがた罪を犯そうとしたことで、いつしか満潮によって崩壊してしまう、砂の城の様な危うさを併せ持っていた。私は奥の情景を妄想するだけに留めるのだった。そこには並大抵の人間では恐怖にひれ伏すほどの脅威が、蠢き、一層グロテスクに、視界に映る万物を睨んでいることだろう。そして私が脅威に選ばれた暁には、正体の凄まじさに涙してしまうだろう。しかし、私はその姿までも妄想しようとしなかった。想像絶する戦慄を空想しておきながら、空想できる範囲で生み出すのは矛盾である。私は正体を、脳が記憶を拒絶する程の、筆舌に尽くし難いおぞましいナニカとした。彼の目は空洞ではなくなり、また秘密は霊妙となった。

「この子はニニ。わたしの弟」

「可哀想に。両目をくり抜かれちゃったんだって」

 彼も相変わらず喋らず、暴れていた間すら息を切らす特有の発声もなかったのに、遂にニイと同じく廃病院と同化してしまうのだった。打って変わった様子は奇怪で、怯えているわけでもなかろうに。と、凍りほど冷たい彼の手を持った。妄想では、この時彼の手は突如牙を剥き、私の手を手繰り寄せて幾らばかりか開かれただけの口元を只今大きく開け、仕返しと言わんばかりに私の目を食らうのだ。ただ、現実は手袋のように軽い力ない手が、私の手にもたれているだけであった。私が触れた時も離れゆく時もその灰の色は筋肉の動きを見せず、ズボンの擦れる音だけが私の横を通り過ぎていくのであった。その頃、ニニはもう私を認識してなどいなかったが、私はしばらく部屋を出ていく薄汚れた素足を目で追いかけていた。コンクリートを踏む時のかかとから地面に落とす癖には大きな足音の名残があったが、貼り付いた皮膚が地面を離れる時の剥がれる音はテープを剥がす瞬間より情けない音がし、部屋から出た以降もその音が激しくなることなく、耳から消え失せるまでの間、いつまでも淡々としていた。私は彼が出ていったあとも少し出口の方を眺める。まさかゲームの終わりがこんなにも呆気ないとは。不服だったのではない。不服には遠いが、拍子抜けに近い。私は無意識にも盛大な祝福を期待していたということか。ならば、もし彼が私の手で燃やされていたならどうだろう。血色ない肌も白の髪も黒に還り、もがく姿勢を彫刻した古めかしい銅像が転がっているようになっていたなら。私は変わり果てた姿に動悸し、ニイまでも燃やす事を決意した後、ことが済めば廃病院を炎上させ、私も共に温もりへ包まれようとしただろうか。しかし何故火が良いのか。死ねば満足なら飲み食いを絶てば良い。己が憎く、なるべく苦しみたいのなら溺れれば良い。けれど、私は私を終える瞬間は焔以外許せなかった。悪魔が火に触れたから?その身に宿ったのが火であったから、私は憧れてしまったのだろうか。私も悪魔と共に飛び込んでしまいたいのだろう。ならば、私はニニを燃やし損ねて正解であった。もし私の儀式より先に心臓を灰にしようというのなら、私は今頃、彼に対し悪魔より凶悪な憎悪に浸されていただろう。やはり、私は恵まれている。廃病院は私の後悔を同じ様に恐れているのだ。それは慈悲深い。

 彼はとうに去った。私もここに居続ける用はないので、もう出ることにした。不意にニニが部屋を出る時の足音を真似る。かかとから落とす感じを真似ようとも彼の足ではない以上、私が彼の足に成り切れることはなかったが、何がしたいのか問われれば私は彼の心情を把握したいだけだと答えたはず。彼は何故、相手を押し退けてでも逃げなかったのか。少し前まではそうしていた筈だろうに。足の進みは全く、謎を紐解いていく思考回路そのもののようであった。私はその足取りの案外愉快な心地に、さては、という閃きを授かった。彼は私を許したのかもしれない。彼はその身が破壊されかける経験を以て、私と自身が等しく似通った美意識によって構成されていることに気が付いたかもしれなかった。つまり、私の彼を監禁して燃やすという一連の魂胆は彼にとって意想外で、また肯定すべき行為であったのかもしれなかった。ゲームの攻略法は破壊にあったということか。けれど私は彼を殺さなかった。否、殺せなかった。廃病院が私を絶えず導いている為である。少年はきっとそれにも気づき、私を招かれざる客としてでなく、迎え入れるべきとして歓待するに至ったのだろう。添えた手が反射的に反応する時の、一瞬痙攣する指先さえ見当たらなかったのは主従の左証か。ならば、ニイも同じだったのではないか。初め警戒し、すっかり音も殺し身を潜めていた彼女は、廃病院が未だに私へ害を成さない事情を知って見舞いに来てくれたのだ。

 なんて都合の良い話だろう。私は悪魔と目を合わせたのだった。

「愛されてるんだね。相変わらず」


 地上階へ着いた頃、私の足取りはというと、いつの間にやら自然な足へ戻っていたらしい。それは一種の魔法かと思われた。窓から見た土砂降りが外に出れば止んで、雲間から日が覗いていた時の様な、記憶のない間に床で眠っていた時の様な、催眠が解けた感覚が私の視界に飛び込んだ為である。追いかけっこの最中、あれほど散らかっていたというのに。ニニの手によって破かれた広告は全く新しい、コンタクトレンズの注意喚起をする広告であった。いずれも精神科らしくない広告だが、病棟が生きている頃に精神科の外来フロアに足を運んだ覚えのない私としては、らしい広告を妄想の範囲でしか考えることが出来ないでいた。さておき、誰が貼り直したのだろうか。ニニでは私とはぐれた時間を加味して、片付ける時間も足らないだろう。となると、残るはニイか。私たちが地下であれやこれやしている間に、綺麗好きな長女が院内を元の通りに片付けておいたのだ。ニニが紋白蝶の侵入すら看過できない人柄なら、彼女もきっと慣れたことだ。しかし、こうも綺麗にされてはニイとニニと出会った記憶も洗われてしまいそうである。

 ただ、歩きやすくはなった。外来フロアは病棟と比べて狭く、あと一部屋散策すれば全部回れそうであったので、私は颯爽と開けていない部屋へ向かった。何処も荒れた形跡がない。ニイがそこまで素早く行動できることに、私は大分驚いていたように思う。元から割れていた硝子や斜めったソファはそのままだった。


 ✙


 私が辿り着いたのは札のない部屋であった。診察室であれば診察室。ナースステーションであればそうと書かれた札である。しかし、無いというよりは扉にあった文字がすっかり掠れて無くなっている状態だ。院長室の立派な扉のように、そこだけ一際浮いておきながら稚拙な色を持った扉は、ショッピングモールで時たま見かける幼児向けの英会話教室や体操教室を思わせる。扉は磨り硝子があって、下部は山脈を描くようにして割れていた。私は躊躇わず入り、中はやや広めの玄関に靴を置く下駄箱があった。しかし、手入れの形跡もない屋内で履物を脱ぐ必要など何処にあるというのか。下駄箱は遂に私にすら使われなくなってしまった。高さのない段差を上がり、その床は柔らかく、踏むと軽く沈んだ。低反発の床に玩具があちこち散乱し、顔のついた青い受話器、動物の形を模した車、おままごとセット等が物憂げに暗がりへ融け込んでいる。しかし、私は中央の四角いソフトブロックに目が入った。柔らかい積み木の上には合計四体のぬいぐるみが仲良く並べられている。私はそれらを照らした。その中にニイ、ニニ、ニオと同じ姿があった。

「これはね、院長先生がわたし達の為に作ってくれたプレゼント」

「優しいでしょ?」

「君のことだよ。お父さん」

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