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302 あるところに

真実を伝えられてどうだったか。といっても、私としては手応えという手応えが無いようであった。私は依然としてこの廃病院で記憶探しを続行する必要があるそう。けれど、まだ夜は長い。その間はこうして悪魔と共に付き合って貰うのも良いだろう。今でさえ、私はそれを望んでいるのだから。私は悪魔と向き合う形で腰掛ける。数多くの芸術作品を手掛けた芸術家が今私の声に応じてくれるのならどんなに良いだろうと思っていた。けれど、その芸術家は他でもない——。

「これはね、誰かの記憶」

 人形劇が始まった。両手に掴まれた四体は軽快にスキップし、楽しいことの始まりを観客に告げているようだった。又、二体ずつ掴まれたぬいぐるみの片方は院長とニオで、大きな操り手によって密着している様子は、正に私と悪魔との廃病院での関係のように思われ、密かな喜びが滲む。

「あるところに、仲良しの四人家族がいました」


 ✙


 この家に母親はいない。末っ子のニニを産んだ後、出血多量で死んでしまったから。父親は悲しんだ。ニオもニイも物心ついて間もなく、どうして母親が、自分たちの傍から居なくなってしまったのか、訳が分からなくてわんわん泣いた。きっとニニも悲しかっただろう。けれどそれでも、家族の仲が壊れはしなかった。父親が信仰深い人で、母親は天国に行ったと信じ、毎晩三人の子供に聞かせていたからだろう。

『神は我々を常に見守っている。信じ続けていれば神は私達の罪をお赦し下さり、ありとあらゆる苦悩から私達を解き放って下さる。死していくのは決して悲劇ではない。亡くなった者は神の下で更に美しい姿へ変性し、新たな命として生まれ変わるのだから。人は必ず救われる。神が私達を救って下さる』

 絵本は普段読む分にはとても短い物語であったが、父親の読み方の上手なこと。遅く穏やかな重低音の声が止む頃には、お化けを怖がった子供達は部屋が暗かろうと安心して眠ってしまうのだった。けれど父親は優しいので、棚の照明の橙色に灯る薄明かりだけは消さないでおいてくれる。もし誰かがトイレに起きても怖がらないで済んだのは、父親がしてくれる、そういう心遣いのお陰。

 やがて三人の子供は、各々別個の部屋で寝るようになった。卒業は少し早かったけれど、大人ぶったニイが姉弟揃って同じ布団は変だと父親に抗議したためだ。父親は願いを聞いてくれ、数日かけてお部屋の引越し作業が行われた。父の作業用だった部屋はニイの部屋。大人びていた部屋がビスクドールや玩具の化粧箱が置かれた、プリンセスのお部屋に変身する。物置部屋は整理され、ニニの部屋になり、ニイが散々気持ち悪がっていたカブトムシは、飼うか捨てるかの言い争いから解放されたらしい。一方ニオは元々の部屋を貰う事となり、広々した布団はニイがたびたび羨んだ。飾り気のない、とてもシンプルな部屋であった。

 ニオは後の二人と比べて誰から見ても大人しい少女であったため、部屋が分かれてから他の姉弟と遊ぶことが減った。三人が外の庭で遊ぶ中でもニオは自室にて本を読むことに明け暮れていたので、姉弟との仲は随分と希薄になった。父親がニイとニニを腕の力でぶら下げている時でさえ、ニオは窓からの景色を眺めるばかりで混ざらなかった。ニオは世間一般でいうところの引きこもりであったので、食事をとる時間でさえ姉弟とは別々。しかし、そういう生活が却って姉弟たちの仲を引き裂いている事を、彼らは全く自覚もしなかったのである。初めは自分達より広めの部屋を貰ったニオを羨んでいただけのニイも、ある日から段々とニオへ辛く当たるようになってしまった。ニオが近寄れば「来ないで」と甲高く怒鳴り、話しかけたなら「どっか行って」と言う。ニニも彼女らの様子に冷めた目線を送るのだが、それはどうもニオに向けられているようだった。その目線に気がついたニオが近づけば、これまた「来んな」と彼女が先程放った言葉を言い放つので、ニオは訳も分からぬまま孤立してしまう。

 そんなある日のことだった。ニオはいつもの通り部屋に籠っている筈だったが、父親はキッチンからニオの高い悲鳴を耳にしたので、慌てて駆けつけた。なんとニオの近くには鍋が転がって、そこで「痛い」「痛い」と悶え転がるニオの姿があり、彼女の目の前でニニはすっかり蒼白となり、手汗の滲む握り拳を震わせ、ただ突っ立っているではないか。父親もこれまた蒼白になり、さてはニニが過ちを犯してしまったのではないかと、小さな声で「ニニ……」と呼びかけた。父は彼を刺激しないつもりでいたが、父の声を聞いたニニは我に返って石像のようになっていた足を父親の方へ猛進させ、思わず親の身体に肩をぶつけたまま走り去るのであった。その去り際、「俺は知らないからな」と彼は叫ぶ。ニオの傷は大きかったが、父親のこの時露われた傷は圧倒的に彼の心臓を壊死させたように思う。父親はこの日をきっかけに変わってしまったのだった。否、その前から父親は姉弟の関係に気が付いていた筈であった。但し多忙、という言い訳が日増しに事態を先延ばしにしてしまった事が、彼の心臓が壊死するに相応しい火種になってしまったか。彼の後悔が、彼の罪への膨大な意識が、四人家族を完全に崩壊させたのは言うまでもない。

 彼が手に染めたのは悪であった。神を信じきれなくなった信仰深い彼は、それでも尚信仰深くいようと悪に染まったのだった。というのも、神はニオを見放してしまったから。ニオはあの日以来出来た傷を爪痕として残し、疼いては夜な夜な起きて「痛い」「痛い」と泣き叫ぶのである。父はその度何度もニオの手を握り、「どうか神様」と心の中で祈るのであったが、効き目がないことに疲弊した彼の心は神への信仰から外れてしまったのである。彼が次に信仰したのは悪魔であった。神はきっとニニの行いに怒り、私達を諸共見放してしまったのだろう。ならば、あらゆる悪を赦してくれる悪魔ならば、愚鈍な人間だろうと等しく救済してくれるだろうと、父は悪魔の声に耳を傾けるようになった。悪魔崇拝であった。

『さあどうか、知恵をお貸しくださいラプラス様』

 父親が何故ラプラスの悪魔を頼ったかは諸説ある。有力なのは、精神科医として、又院長として知識を得てきた筈の己でも助けられない姉弟の事変に、ならば全知全能の悪魔を頼れば、あの可哀想な姉弟たちを救ってくれはしないかと悪魔に求めたのではないか。尚、彼が本当にラプラスを信じたかは知り得ない。もしかすると、究極の知恵を持つ悪魔を求めていた彼は既存する神話の悪魔では足りないと、その究極とされる知恵の悪魔を空想し、名をラプラスと喩えたのではないか。しかし、本名の知り得ない謎の悪魔は、父親の願いを容易に応えてくれるのだった。彼は悪魔の誘いにより、遂に姉弟へ告げた。「君たちは病気だ」と。

 当然、ニイは否定した。続いてニニも強く主張するのであったが、父親という巨大な存在に抗えない子供らは嫌嫌と拒絶しながらも精神病棟へ幽閉されてしまう。幽閉、と言ったが監禁の方がずっと正しい。三人は同じ病室で誰にも気付かれることなく、父親に看取られる羽目になった。666号室であった。

 狂った父親は悪魔の囁きを喜んで受け入れる。子供達が傷つくことすら患者に注射を刺す程度の事柄のように思う。そして、彼は姉弟を生贄に捧げる事としたのだった。泣き叫ぶ三人に麻酔をかけた父親は、眠っているうちにニイの口を縫い、ニニの目玉を抉り、ニオからは心臓を摘出した。三人は人としての死を迎えた。が、人としてと書いたのは、姉弟が後に生き返ったからである。悪魔に身を侵食された彼女らは悪魔の命を借りて、半ばゾンビのようになって蘇った。遂に姉弟は救われました!

 しかし、院長の悪行が明るみになると院内は閉鎖された。警察は直ちに院長の捜索に当たったが、院長は666号室を隠れ家とし、身を潜めた。その時の院長は、決して警察から逃れたかったのではない。四人家族と悪魔とを繋ぐ巨大な装置を作りたかった。それを終わらせなければ姉弟はあっという間に悪魔に魂を蝕まれ、二度と目覚めなくなるだろうと、父親は焦っていたのである。父親は姉弟を悪魔そのものにしてしまいたがった。

 やがてそれは完成した。病棟の全体を使って大きな五芒星を築きあげた彼は真ん中の202号室に四人家族の写真を置いた。彼だけ塗り潰した笑顔の写真であった。さて、五芒星があって収まらなくなった病棟を去ると、父親は外来フロアを儀式の場とした。病棟の五芒星は悪魔への信仰の印に過ぎず、本命はこちらにあった。霊安室にて姉弟を寝かせた彼は手術室に魔法陣を描き、遂に悪魔はその下に現れた!

 悪魔は最後の願いを聞いてくれ、三姉弟を悪魔として迎え入れたのである!

 めでたしめでたし——


 ✙


 ——否、違う。そんなものではない。これは客観的視点に過ぎず、本質ではない。彼は姉弟の為に狂ったのか?姉弟を救う為に自ら崩壊の道を歩んだのか?そんな訳はないのだ。それはあまりに単純明快で、一人の人間が闇に落ちるまでの陳腐な物語でしかない。ただの犯罪心理学に悪魔という神話を無理矢理飾り付けただけである。彼の美学はそんなものであってはならない。もっと美しい。院長は唯の犯罪に留まらない、フィクションより強烈な悪を生み出したはず。何故ならば、あなたは綺麗好きなのだから。そうでしょう——?

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