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202 わたしのお姉ちゃん

取り乱してしまったが、院長室に嬉々として入り、落胆した時と相違ないとすれば、これも大した恥ではない。悪魔もみっともない姿をさらした私を運良く見ていなく、ならば悪魔に心配させてしまう醜態も、見せる必要はないという事で解決したのであった。

 さて。私が考察した事で、シーツのよれから過去という時間を誘き出すのに成功し、その後三人の子供がここで息絶える一部始終を描かせた。だが、ベッドの上に幾らかの幻を置いたところで、今となっては蝉の抜け殻と同様、土に還るだけの役目のない残骸に過ぎない。ここも忘れられた時間に沿って潰れていくのを待つだけである。しかし、時偶私のような好奇心を抱えた物好きが記憶探しの一貫で、作品とやらを収集していく様は、これまた抜け殻と似ていて、我ながら上質な比喩だと自賛していた。尚、共感は要らない。

 特に言うこともないだろう。私がさよならと告げても、シーツのしわは陶器であるかのようだった。誰がどうポルターガイストじみた現象を期待しようと、廃病院は毅然として廃病院であることを維持する気でいる。ここは幽霊すら彷徨わない二人きりの世界なのだ。と、私はうっかり、以前人影を見た事実を忘れてしまった。迂闊な私に対する叱責か、真後ろを向いた刹那、人影は現れた。但し今度は影でなく、私の向いた正面に、顔の造形まで明瞭と存在していた。シーツが焼き物に見えるように、彼女も又そこらの置物と変わらず、私と悪魔は反射的に半歩後ろへ下がったが、少女は呼吸するときの肩の動き、腹の動きも感じさせないほど、時間の停止した廃病院に紛れているかのようだった。懐中電灯が彼女を照らそうとも、黒い目は拒絶するほど虚ろで、冷え冷えした視線が私を呆然と観察しているようだった。物音出さずに瞬間的な登場を果たした彼女を、私は一瞬幻覚か幽霊かと思ったが、私がもし統合失調症の患者だったなら、それすら試す術はないだろうと、一旦状況を受け入れることにしたのだ。

「この子はニイ。わたしのお姉ちゃん」

 ニイというその子は、写真と同じく白い髪に黒い瞳であったが、口元は涙袋の下あたりまで差し掛かる包帯に隠され、全体の顔立ちまでは分からない。写真ではあれほど笑っていたというのに、面影もないではないか。

「かわいそうに。口を縫われて喋れないの」

 幅の大きな包帯は頬の辺りで丁寧なリボン結びをされており、結び目は指先で容易に解けるのだった。しかし、少女が抵抗を示す様子はない。「でもね、もう痛くないよ」

 肌を覆った包帯は、劣化した絵の具が絵画から崩れていくのと同じように、下方から解けるのに従い、長いこと少女の輪郭に執着して少女そのものとしていた柔らかな布は、名残惜し気味に剥がれ落ちた。直前まで少女の顔であった白い布は、少女の首元で草臥れ、みすぼらしく項垂れるのだった。反対に露わになった彼女の口は縫われていた形跡など微塵もなく、あるのは非現実的に蜜の如く溶けた白い唇と、まばらに覗く黒い隙間から、無数の目が不規則に泳ぐのみ。

「この子の口は悪魔が貰ったんだ」

 指先が頬に触れ、溶けた粘液は親指が退かす度、冷たく柔らかに口元の黒い隙間を広げた。その蜜の様な有様のせいで私の脳内は、口だけでなく、頬まで溶けた液体にして、やがては指先の触れるところを変形させてしまうかもと思い込む。けれど私は黒い隙間を凝視した。見やすくなった口腔はやはり小さな目のみが蠢き、中の隙間を埋めているのだった。しかし時折、小さな触手のようなものが内部で波打って生きた先端を外へ押し出すのだが、今まで気づかなかったのは、触手もまた口腔と同じ黒色をしていたからである。

「私の右目もだよ。見てみる?」

 髪色と同じ白色の包帯はリボン結びとは違うが、軽く結ばれている為に、指先で引けば力要らずで解けてしまいそうだった。少女の口元にあった指先は、呑気な調子でその結び目に到達し、ニオという特徴を作っていた布も林檎の皮がむかれるのと同じ、今剥がされようとしていた。

 尚、私は林檎が剥けた後の心の下がりようを知っている。宝石の如く赤く、たわわに熟した表面の、艶やかなところを雫が官能的に伝うのを果実が魅せる自然の名画にも思えるところだが、さあ美しい林檎の中身はどれほど輝きを放つのかと傷つけたところで、そこにあるのは所詮食べ物である。落胆ではない。黄色くみずみずしい中身もまた、私は魅力的だと思うが、秘密を暴いてしまった後の退屈さは先刻で躍っていれば躍っているだけ大きい。そこに残るのはどこまでも虚無なのだから。ということで私はこの時既に、話題を変えようと適当な言葉を探していたのだが、最中に少女は初めて動きという動きをした。突然のことでやや驚いたが、彼女は外れた包帯もそのままに、力なく腕をぶら下げ、みるみる遠ざかっていく背中の足音はとても小さく、なるほど、周囲の音に注意が向いていない間、これでは近付いてこられても気づかなかっただろうと納得した。しかし何のために私へ会いに来たのやら。何かを訴えていたとしても、私では分からず仕舞いであった。が、私はここでひとつ重大な真実を導き出した。診察室で見かけた人影。私がこの廃病院で予想だにしなかった事象であり記憶にも新しかったため、あの少女と人影とは同一人物とばかり解釈していたが、それでは腑に落ちないのである。初め見た人影の足音は、院内全体に響き渡っていた上に確実に走っていた。私がとらえた人影も、正に走っていく瞬間であったのだから確定だ。彼女はどうだろう。瞳はおろか全身くまなく生気を失い、表情さえも写真の面影がない少女に、はて、どうやって走る姿を当てはめよう。つまりは、私があの時見た人影と少女は別人であるということ。

「残念。ニイはさっきの子じゃないみたい」

 続いては写真を思い出す。診察室の人影がニイではないなら、残る可能性はニニにならないか。ニイは実在し、実物の存在として私の目に焼き付けてくれたのだから、ニニに望みをかけるのも考え方としては妥当だろう。写真ではニニも随分無邪気な子であった。

「今度はニニを探してみない?」

 人探しだ。しかし先程を想起すればわかる通り、診察室の人影がニニであったなら、ニニは私たちを避けていることになる。隠れながら様子を窺っているとは思われるが、逃げてしまっては仕方がない。病棟の作品集であれば私がそこへ出向くだけで済んだものを、すばしっこい子供を探すのは迷子犬を見つけるのと同等、心が折れそうなものである。けれど私はニニ探しをしよう。少なくとも、人影は私たちの様子を気にしてはいる。ならば寧ろ、完全に拒絶されているよりかは遥かに都合が良い。もしかしたら向こうから顔を出してくれるかもしれない。しかしその為には絶対怖がらせてはならない。私は慎重に彼の興味関心を惹く必要があった。それはそれでスリルがあるものだ。私はルールを大袈裟に誇張して縛りとやらを与えてみた。子供は気まぐれである。追いかけるのに必死で彼を楽しませることが出来なかったのなら、彼は私たちに飽いてすっかり身を隠してしまうだろう。そうなれば記憶探しは永久的に不可能となり、私は重篤患者として悪魔の脳をかち割ってしまう。加えてタイムリミットは一時間である。もし一時間以内に彼を見つけられなかったら、夜が明けて、朝を嫌う悪魔はとても耐えられず消滅してしまうのだ。そしてやはり私は記憶探しが続行できなくなる。嗚呼、どちらも避けなくては、私たちの運命は閉ざされてしまうのだ。途端に一瞬見ただけの人影を、私は恐ろしいデスゲームの主催者のように思う。その調子。その調子。迫る緊迫感が、私の心を急かしてくれることを望む。

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