105 開けてみよう?
開けた広間には真っ二つに割れた長机や座面の極端に傾いたパイプ椅子、それらが隅に追いやられ積み重なっている。多人数でも軽いゲームであれば満足に遊べそうな空間なのに、たったあれだけの円のためにはけてしまうとは。まるで中央に集められた目的以外は塵とでも決めつけられたあり具合であった。人一人入れる分だけの小さな輪には細工された松葉杖が幾つか積み重なっている。従来の輸血パック、蝋燭というものは収集してその場に捨て置けば完成する代物であったが、この松葉杖ときたら一々二つの杖をクロスさせ包帯で固く結び固定するという、もう一段手間のかかる過程を踏んでいる。つまり、これの製作者は病院にあるもので簡易的な十字架を作成した。そこらで売っているロザリオではならなかったのだろうか。もしくは己で汗水垂らして仕上げたものこそ最も価値があると見なしたのだろうか。けれど、そうして展示された作品はあまり芸術的とは言い難い。量のせい?それならば天井に到達するほど高く山になっていればこれは芸術作品になっただろうか。大きさがあるものは人々に驚かれるものだが、歓声に留まるだけと考えれば、やはり、302号室ほどの衝撃はない。私がそう思うのは、これが大衆向けの作品ではないからだ。それならば、作者はなぜこんなものを作ったのだろう。私は推察した。これは誰か一人のために捧げる供物なのではないか。喜ばせるため、笑顔を見るため、気持ちを明示するため。最高級の品より心のこもった紙切れの方が尊いとされるように、こちらも誰かに向けた気持ちの現れではないか。そうなると、これはかなり感動的な美学なのかもしれない。302号室の光景を目にした時に私があれほど感激したのは、人の最高の愛情表現とやらを無意識下で直面したからだ。少し離れたところで松葉杖を観察して、その視界は奥で揺れるものを捕らえた。外で生い茂った雑草は掃き出し窓にぴったり張り付いて、興味津々の様子で松葉杖を眺めている。訂正しよう。実をいうと先程まで、なびく雑草は私を見ているものだと錯覚していた。五つの先端を完成させようとする私を完成間近になって見届けに来た悪魔が、あらゆる角度から監視しているものだと錯覚していた。芸術は私が気づく前から芸術で、第三者の主観的な視点では測れないものだったのである。
踵を返し背にある松葉杖のことを想いながら、私は遂に最後の先端へと向かう。両開きの重い戸を開けば微風にも満たない妙に生ぬるい風が頬を撫でた。悪魔を触れる手に意識が向くと、悪魔は存在感のある確かな重みを与え返してくれた。夜はまだ深く廊下の闇が明ける気配はない。一階の一本道は長く、光が奥に届くのがやっとで、薄明かりが脱衣所横の扉をぼんやり映していた。脱衣所は丁度死角である。手を握り直し、私たちは廊下を進む。奥は私たちが近づくほど鮮明に明るくなり、角を曲がれば一切見えなかった脱衣所の入口も現れた。扉はなく、代わりに色違いの暖簾が間を隔てていたのだろうが、今はもう両方床に落ちて斜めに傾いている。私は懐中電灯を一旦悪魔に預け、真っ先に青の暖簾が垂れ下がった竿を持ち上げた。その際、壁にはまった棒の先が抵抗し、壁紙がやや削れる感覚が伝わってきた。しかし、軽く力を加えてやれば竿は簡単に引き剥がせる。それを丁寧に隅へ置いて、再び悪魔と進むのだった。脱衣所に広さはなく、初めから必要最低限しか置かれていなかったのか物が散乱していることもない。壁紙がすっかり剥がれ、壁紙のものであろう白い粉が付近に点々と散らばっているくらいだ。棚に空いた枠の数箇所に、誰かの忘れ物らしき小物が寂しく転がっているのが見えたが、どうでもよく、脱衣所奥の戸を引いた。中は元からの湿気によって他より状態が酷く、足元は乾いた泥で茶色くなり、何処からかやって来た落ち葉が一枚泥の色と同化している。壁一面は黒い染みに侵食され、配管などから腐食した金属の冷たい臭いが立ち込めている。浴槽のお湯は完全に抜かれて乾いているが、底の方には何匹もの種類雑多な獣骨が寝転がっており、かつてその子らが流したのであろう黒い血が底の色を染めていた。かなり時間が経って白骨化したのだろう。何故こんなところにあるのかという理由については、浴槽横の輪の中に同じ鉄の臭いを持ったメスの群れが、小さな山になって主張していた。一匹一匹新しいメスに持ち替えて殺したのだろう。あたかも一度使えば二度目は錆びて使えなくなる脆い凶器のように、見た目も変わらないメスをわざわざ別々に使っていく様は、流れ作業を想像させる。例の松葉杖と同じ、ここのメスも血がつくことで完成する品だったのだろうか。松葉杖は十字架を。それならば、ここのメスは短剣だろうか。その連想に至ったのは、五芒星が印す場所に別々の意味ありげな山を積み重ねる様子が何かの儀式を思わせたからである。……それにしても、随分惨いことをする。205号室にあった烏の羽根は幾つかの獣骨からむしり取ったものだろうか。中々まともな精神状態でできることではない。けれど人というものはそういう狂気性に強く目を惹かれるものである。可愛い犬猫のニュースより、大々的な猟奇殺人の方が人々の海馬を呪うように。つまるところ、この狂気をやり遂げた者こそ真の歴史になれるのである。歴史とは感情論だ。良い意味だろうが悪い意味だろうが、それを凄いと思う者がいなければ歴史には残らない。私は私という歴史に五芒星の光景を遺そう。
「真ん中も見てみない?」
「202号室のこと。丁度五芒星の真ん中になる筈だよ」
今まで真ん中という発想など微塵も持たなかったが、私は儀式という考察を通じて納得した。円の中に何時も何かを重ねているように、中心地とは何時も特別な意味合いがあって、つまり儀式における真ん中とは周囲の芸術作品より最も重要な神座なのだ。これだけ大掛かりな五芒星を作っておきながら、その中心に何の跡もないなど半端なことはないだろう。一体どんな恐ろしいものが待ち受けるのだろうと私は期待し、移動した。
見向きもしなかった202号室の前で、私がときめく事になるなど誰が予想できただろう。そんなことを言ってしまえば、記憶探しの旅すら、ここまで壮大になるなんて予見出来やしなかったのだけれど。私は何処とも変わらない扉を王城の門のように感慨深く思い、中身を私なりの想像力で圧倒的なスケールの円を描いた。円は幾重に書かれ、各隙間をそれぞれ記号が並び、中央には巨大な五芒星が浮かんでいるのだった。それらはいくら時が経とうと、未だに黒い業火が燃え盛り、昼間のように明るい病室の中、悪魔が遺した呪いが天井一面の液体となって広がっているのだった。風は轟々と吹き荒れ、私がここを開ければ直ぐ身体ごと吹き飛ばされてしまうだろう。尚、私が本当に絶大な光景を妄想しているのではない。耳を澄ませば、風も焔も聞こえてこないことなど私は理解している。あくまで私の期待値を言語化したまでだ。
「ねえ。開けてみよう?」
音立てて開けることすら恐れ多い。私は慎重に王城の門を開放したのだった。直後にして、その様な儀式的な行為は正解であったと知る。もし戸に勢いがつけば、風が起こって中央にある紙が飛ばされてしまうところだったから。私は何となく一枚に近づき、しゃがんで覗き込む。辺りはベッドも蛍光灯もカーテンすら排除され、円すらないのに、白い床下に写真のみがあった。拾い上げて、院長室にあった家族写真と同じものを見る。大人の人影は相変わらず黒いマーカーペンで塗り潰され、姿は見られない。けれど今回に限っては、無邪気な三人姉弟の顔だけ真新しく写っている。白髪をした幼い子らの頭上には、それぞれ名前らしき文字が赤いインクで書かれ、端の子の名前は黒いマーカーペンの上を上書きされている。
なんという事だろう。私は202号室の光景に興奮はしなくとも、感動くらいするだろうと自信満々でいた。その感動とは胸がいっぱいになるような、美しいものを鑑賞し息を呑む時と同じ感覚を考えていたのだが、まさか、この様なベクトルの感動を受けることになるとは。私は左端から、呟くように名前を呼んだ。
「ニイ、ニニ、——ニオ。」




