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104 おまたせ

前より落ち着いた調子で302号室にやって来た私だが、それでいて新しい気持ちでアレに立ち会える愉悦が私の胸を未だ膨らませている。302号室を開けば、赤黒い山は初見と変わらない出で立ちで私を出迎えた。先程私は壊れることもまた美しいと言ったが、勿体ないという気持ちも半分はある。時にはもう半分の気持ちも尊重して良いだろうと、私は輸血パックの周りをぐるりと半周し裏側に回った。ここであれば正面から見た美しさは保っていてくれるだろうと、懐中電灯の持ち手を逆さにし、床にこびり付いた夥しい赤を削った。血は腐ってしまったのか、近づくと分かる通り鉄の臭いは強烈に私の鼻をつく。かなり硬い血溜まりを力一杯削っているので、その下にあるであろう記号も円も一緒に剥がれてしまうのではないかと心配はあった。それでも削らなければ私の欲求は収まらない。剥がれた血液は砂のように点々と舞って、しばしば私の両手にも当たる感触があった。その手応えは腕の疲れを忘れさせ、無我夢中の作業が延々と続いた。それからどのくらい時間が経ったか分からないが、いつの間にか私は二つの病室でも見た円の片鱗を見つけていた。記号まで探るほどの体力はなかった、確認できたほんの一部分も血塊を削った影響かやや擦り切れた箇所があった。それでも私の理論を裏付ける重大な証拠を見つけられた事実が偉大なる成果ではないだろうか。私はやり遂げた、という優越感を胸に扉の方へ回った。部屋を出る間際、再び芸術に振り返ると、それは打って変わってハリボテに見えた。君が私を壊したのだという無言の怨恨が私を責めてくる様は、罪悪感という信頼面での崩壊がこれまた美を思わせた。加虐性が芽生えたという話ではない。美の有様は必ずしも目に見えるものだけではないという証明である。この世で最も美しいものは人の感情にあると、そんな言葉を聞いた試しはないだろうか。私は一理あると思う。芸術を作るものが人の心であるなら、キャンパスを彩る絵の具が何色も美しいのは必然なのである。

 廊下に出た時、何となく確認した懐中電灯の底は赤黒い色が滲んでいた。この懐中電灯で私は最も美しい山を殺した。その爪痕だった。

「何か思い出せそう?」

 やる事は一区切り着いたので、私は再び例の案内図があった踊り場へ戻ることとした。戻る途中、私の心情に興奮や感動という昂りはなく、代わりにあらゆる煩悩を胃の中から残らず吐ききったような謎の爽快感があった。その心地を私は特に味わおうともしなかったが、嫌という訳でもない。ただこの摩訶不思議な感覚は私を軽い放心に近い状態にさせ、何も考えないまま踊り場まで到着していた。どんな顔をしていたかは知っている筈もないが、悪魔はそんな私の表情を心配しただろうか。もしそうならば、ちょっと嬉しい。案内図をあの時と同じように持ち上げて五芒星をなぞると、丁度足元に差し掛かる位置は一階の食堂と脱衣所であった。次の目的地が定まると案内図を置いて私は悪魔と手を取った。いつの間にか、ずっと昔からそうであったように、それは廃病院の中で習慣化していた。


 二つの場所へ向かう前に、私は洗面所へ立ち寄っていた。まず食堂へ向かおうと横を通り過ぎた時、丁度私の手が汚れていることに気が付いた。目覚めてからというもの、院内に落ちていたものといい、壁や扉を頻繁にぺたぺたと触れた挙句、先程は赤黒い血を懸命に削っていたのなら当然である。指の腹、拳の側面と、私の手は煤が被ったみたいに黒ずんでいるのがわかった。こんな状態で悪魔に触れていては、悪魔にまで汚れが移って、終いには私の内面の醜いところまで侵食し出し、悪魔の身体はみるみるグロテスクになっていくかもしれない。折角可愛くめかした姿も台無しになるだなんて、許されてはならない。洗面所の前で悪魔と手を離すと、私は一人中へ入っていった。狭く窓もない閉鎖空間はより埃が酷く、壁一面が黒い綿埃に支配されていた。洗面所の奥では何年前のものかも不明な濁った汚水が床の網目から漏れ出ており、病棟が生きていた頃の利用者のものであろう細長い毛が絡まって濡れていた。そこから異臭を発しているためか、天井近くの動かなくなった換気扇から時折ハエが数匹行き来しているのが窺えた。早速手を洗おうとすると、洗面所の大きな鏡は砕けて地面に散らかっていた。それでもかろうじて枠内に残った鏡には何かを描いたようなインクが遺されていたので、私はもしやあの円ではないかと、地面で割れた破片を拾い集めてはパズルのように必死にはめた。しかし完成したそれは円などではなく、案内図にあった五芒星だった。けれど今にして思えば、円である必要はないのだ。何故ならここでいう円は病棟全体を五芒星で例えた際の各先端を示した印なのだから。その推理に至ったのはもう少し前のことだが、断定するには残りの証拠も揃わなければならなかった。が、こうして五芒星に何らかの拘りを持っているところを見るに、五芒星の先端が重なっている箇所に必ず意味深長なものがあることは偶然でないと思う。つまり、真に重要なのは五芒星で、私は五芒星通りの道順を踏むために円を見つけるのである。つまり、私の道標の象徴になるものが書かれた個室とは本来もっと探索するべき場所なのだが、悪魔と接触するところを清めに来た私にとって、ここを見て回るか手を洗うかは天秤をかける行為であった。ここは諦めて手を洗おう。そのせいで何かを見逃そうと、五芒星の道順がその何かも補完してくれるだろうから。私は冷えた蛇口を捻って水を出そうとした。が、いくら捻っても一滴すら現れない。覗こうとした矢先、ようやく洗面器に滴った水は茶色く濁って、泥が溜まったような洗面器に新しい汚れを一本引いていくだけだった。よく考えれば、こんな廃墟らしい廃墟で水が出る方が不自然なのだ。もしそれでも出るならば、私は一々血を削るなどせず、バケツの代わりになる器に汲んで手っ取り早く溶かしていただろう。それなら円が剥がれるリスクだって軽減し、もっと綺麗に残せたのかもしれないのだから。

 手の汚れも諦めるしか仕方のない私は、この手の黒ずみの一切を汚れと捉えないことにした。これは私が今の今まで廃病院を練り歩いてきた痕跡なのであって、落としてしまえば過去そのものも流されてしまう繊細な跡だ。廃病院は所謂スタンプラリーになっていて、私が何かを発見する毎にこの跡はみるみる形を成してゆき、やがて両手をひとつの勲章が彩る。悪魔も同様で、私が悪魔に触れる度、悪魔は私と同じものを背負うことになる。その度に私と悪魔との繋がりは色濃くなり、完成する暁には私と悪魔がようやく一体となるのだ。この解釈であれば汚れは汚れではなく、歴戦の戦士が傷跡を誇る様に愛おしくなるのだった。蝋燭も飛び散った血痕も触れたものは共通して美だったのだから、私の手にあるものは美の片鱗なのではないか。

 洗面所を後にして、待ちくたびれていたであろう悪魔を見下ろした。あれほど都合よく解釈したのに、いざ悪魔を目にするとやはり申し訳ないし、勿体なく感じた。この可愛らしい姿に黒ずみが増えてしまうのは私としても忍びない。ほんの僅かでも蓄積を遅らせられないかと、せめてもの気持ちで両手を服に擦り付けたのだった。先の私よ、これならば勲章は残り続けるだろう。

「——おまたせ」

 私は鏡にあったものを共有しようとは思わない。せずとも、悪魔は何処に何があるかなんて知っているのだろう。答えを聞きたいとも考えない。悪魔が私のために遺してくれた宝を、私自ら探す事こそ意味があるのだから。洗面所の性別を示すピクトグラムは粉々に砕け、唯一壁にある幾らかも黒くなって赤か青か分からない。区別の必要性も手放した廃病院は永久に眠る道を選んだそうで、廃墟という空間だけ世界の終末であるかのようだった。

 私は悪魔と共に食堂を目指す。

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