103 きっとそこにあるよ
私は階段を降りる途中、落ちて壁にもたれた案内図を発見した。先程は興奮のあまり気付かなかったのであろう。悪魔とほんの少しばかり手を離し、埃で黒っぽくなった案内図を持ち上げると、細かい砂のような手触りがあって、指先の擦れたところから平滑なプラスチック板が灰色の反射光を覗かせた。そこで、腕で大きく磨けば案内図はより鮮明に間取り図が現れるようになって、それが大変奇妙な案内図であったことを今しがた知る。プラスチック板の上にやけに丁寧な五芒星が引かれていたのであった。引かれた線のそれぞれ端っこには必ず何かの部屋があって、頭頂部には302号室が丁度重なっていた。このマーカーペンは優秀にも、他が劣化しきった廃病院の中でもインクが落ちることなく真新しく残されている。院長室のフォトフレームを落書きしていたマーカーペンもそうであったように、これとあれは同一のものだと思った。そして、同時に私は302号室を想う。私の美学を大いに刺激させてくれたあの宮殿が五芒星のてっぺんにあることを、私は単なる偶然だと思えない。この五芒星は迷える私の為に最も価値ある場所へ導く道標だと信じた。悪魔がこっそりくれたものだろうか。悪魔の方を振り向いた。相変わらず胸の内は読み取れなくとも、私は悪魔が微笑みかける柔らかな笑顔を見た。それだけでいい。
今一度マーカーペンを目でなぞる。私が今度行くべき場所は西の端と東の端に重なった210号室と205号室であろう。私はプラスチック板に感謝を込めるように、その板が割れぬ様に、音立てず置くと、悪魔と手が離れないよう再び歩いて向かった。
案内図から見て西側。そこは210号室である。私の心情はつい先程の一件のせいで大した昂りもないように思っていたが、いざ案内図に導かれて来てみると微妙な高揚感が心をくすぐっているのが分かった。302号室ほどの感動が得られることはないと分かっていながらも302号室と同じように指し示されていたこの場所ならば、と、僅かながらに期待していたのかもしれない。病室を開こうと取っ手を横に引くと、戸は僅かな隙間を開けて引っかかる。もう一度引こうとしても重たい音を立てるばかりで、何かが詰まったようにして動かない。それならばと上下に揺さぶってみたり一度閉めるなどを繰り返したりして、戸の隙間に手をねじ込むと無理やりこじ開けた。ようやく全開になった足元を見ると、なるほど、病室の床に付着した白い塊がレールの付近で硬くなって、レールの下に潜り込んだ塊が悪さをしていたようだ。試しに白い塊をかかとで軽く叩くと、薄く伸びた塊は水溜まりに張った氷の膜の様に簡単に崩れた。今しがた崩れた白い塊の見た目は粉のようになって、無意識に片手が触れていた壁には同じ塊が天井から伝ってくる途中で止まっていた。私は病室の周辺を見渡し、正体を探ろうとした。302号室で見た液体は赤かったが、ここは乳白色の液体であった。室内の端に退かされた液体は壁を這い上がるように盛り上がり、雪国の山脈を思わせる。中央には乳白色の蝋燭が散らかっており、302号室の時のように積み上がっていた。時折それらの特徴が山脈の中で保たれているのが、中央こそ液体の正体であると物語る。私は真ん中に近づき、ひとつの蝋燭を手に取った。いつまで経とうと真新しく、滑らかな蝋燭であった。私の足元には「今、火を点けろ」と言わんばかりのライターがひとつ捨てられていて、応えようと細いライターを取った。ライターなど使った試しはないけれど、私の記憶はそれが手に渡った瞬間、誰かが使っていたであろうライターを思い出させてくれた。そこからは見様見真似である。親指の腹でトントンと叩き、違うならば今度は強く押した。場所を間違えているのかとライターの底、側面に目を凝らして、奮闘すること数分。やっと点火した。懐中電灯より圧倒的に弱い光を放ち、縦に細かく揺れ動く火を蝋燭の先端に当てた。細く煙がのぼった後、小さな火が滑らかな蝋燭に移ったのを確認した私は、ライターの火も懐中電灯の光も邪魔だと感じて、決して蝋燭に渡った火が大きくなった訳でもないのに、それ以外の全ての光を一旦殺してしまった。山脈は見えなくなり積み上がった蝋燭は黒いシルエットに変わったのに、暗闇の中で赤く煌めく炎は確かな存在をもって、それでいて静寂に、ただ私の前で揺られている。その幻想的な光に私は燃え盛る焔を見た。記憶にいる朝日である。悪魔は自らその朝日に触れ、炎をその身で感じたのだった。
私はただひたすらに羨ましかった。私も、その光の中に共に飛び込めたのなら——。そういう「たのなら」を妄想していては、火はあっという間に消えてしまった。湿気っていたせいだろうか。それとも風のせいだろうか。兎に角我に返った私は、懐中電灯を点け、悪魔を連れて部屋を後にすることにした。欲望に負けてまた一本、また一本と炎に見惚れてしまっては、時間があまりに勿体ないだろうから。
部屋を出、懐中電灯を向けた先の目的地は遠くで薄ら照らされて見えた。錆びた手すりは奥に行くにつれ、闇に吸い込まれ小さくなって終電間際で途切れている。それに沿って歩けば、砂利道を踏む様な足音は私の耳元で留まり、響くことはなかった。風もなく物陰もない廊下は、初めこれらを悪魔の歓迎だと捉えて喜んでいた私の気持ちと矛盾するように思うだろうが、こうも考えられないだろうか。悪魔は歓待を終え、私を監視する段階へ移ったと。何故なら目の前にいる悪魔は私を見限ってなどいないだろう。そんな事を考えれば、初めとは違う不思議な緊張感が、私を昂らせてくれるではないか。目印代わりの手すりを辿って行けば、210号室と見た目は何ら変わりない白の引き戸が私を待っていた。立て付けが悪かったのはあそこだけのようで、滑るように開いていく扉の心地良さを取っ手握る片手が実感した。
中央を照らす懐中電灯のお陰、黒い空間は初めて色を持ったというのに、真ん中に積まれた烏の羽根だけは未だに闇の色を持っており、光さえ吸い込むブラックホールを体現していると言わんばかりに佇んでいた。けれども、輸血パックや蝋燭に比べれば烏の羽根とはシンプルなもので、院長室のフォトフレームよりは上回るが、他の喜ばしい発見には遠く及ばない、といったところだ。院長室より上回るというのは、物は違えど何かが積まれているという共通点に、私の中で五芒星がはっきり意味を成したからである。そしてもうひとつ、この病室には他と一風変わった特徴があった。それは地面に書かれた円である。302号室と210号室はひとつのテーマで統一されているように見え、それ以外の特徴は比較的排除されていたというのに、ここは羽根の他に奇妙な円が山の下敷きになって描かれているのだ。通常、芸術とはひとつ目を引く味があれば視線を散らせないように特徴を抑えるであろうところ、ここだけは統一性を捨てるという尖った美学を貫いていると私は考えた。私の考えに異論を持つ者がいるのはごもっともだろう。芸術とは似つかない別々の価値観によって花開くものだ。そうでなければ、302号室の芸術は陳腐極まりない日常風景になってしまう。
さて、私は羽根に近づいて円を覗いてみた。私はこの直前まで円を羽根の周りを囲う通常のマルに思っていたが、いざよく観察してみると、円の中にどこの国の文字とも読めない変な記号が浮かび上がっているのが目についた。羽根をやや退かしてみると、記号は円の真ん中にでかでかと、たったひとつだけ書かれていた。これが何を意味しているのか私の頭では理解しにくかったが、羽根を元の位置に戻す際、両手でまとめて一回で終えてしまう、羽根の量の少なさを感じた。多さが問題なのではない。もしも烏の羽根が少なかったお陰で私が円を発見できたのだとすれば——。私は鳥肌がたつ心地を覚えた。即ち、私が見てきた号室にも同じような模様があったかもしれない。シンプルとしか評せなかった205号室でまさかこんな興奮を取り戻せるとは。驚きつつ、私は居ても立ってもいられず病室を飛び出した。一直線に続く廊下はみるみる私と210号室との距離を縮め、律儀に閉めた扉をもう一度強く開けようとした。しかし、扉が音高く引っかかったところで私はこの病室の立て付けの悪さを思い出す。記憶に新しい210号室の開け方を以前通りに動かしてやれば、扉は開き蝋燭と再会を果たした。私はこの作品を壊すことに何ら抵抗はなく、寧ろ壊れることも花が散るような儚さを生んで、何とも例え難い絶妙な美しさを表現してくれるのではないか。私は蝋燭の山を真ん中から崩し、雪崩が起きるのも厭わず両手で大きく掻き乱した。静かな病室は蝋燭の次々落ちる音が埋め尽くし、やがて私の求める新たな芸術が現実化された。死に絶えた蝋燭の山から現れたのは先程とは違った記号が書かれた、それでいて関連性があると分かる円であった。しかしこの時の私は立て付け悪い引き戸が理性と衝動を分ける壁役になってくれたお陰で、一時的に冷静さを取り戻していた。それによって、私はこの円の意味を最もらしい理論で述べることができた。今の私は円を単なる美術作品とは思わない。但し美術作品であることは変わりないが、まだ確信めいたことは言えない。けれど、302号室にも記号が残されていることは私の中でほぼ確実であった。
「君の見たいものは、きっとそこにあるよ」




