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102 意味を当ててみて

私は回廊の入り口から一歩入ったところで悩んでいる。案内図によれば、この先に私の求める目的地があるというのだけれど、そこへ行くための回廊は、おおよそ腰まである水溜まりに深々と沈没していた。

 目的地というのは外来フロアのことで、白いライトを照らせば、待合室にて不規則に斜めったソファが、半ば闇に呑まれながらもぼんやりと確認できた。ここへ来るまでに苦労という苦労は無かったが、目的地がすぐそこまで見えているのに足止めを食らってしまっては、もどかしいという気持ちにもなる。しかし、照らして確認するなり、この水溜まりというのは蛍光色の空色で、木の枝や泥塗れのビニール袋が浮かぶ汚水に絵の具を垂らして混ぜた風の、異様な色合いを持っていた。これ以上近づけば、ばい菌の温床から蒸発した気体が悪事を働いて、元々虚弱な私の肺が更に何かしらの病気に侵されてしまいそうだ。それに、いつまでもこんな所にいては悪魔も汚染されて腐ってしまう。そんなのはお互い避けたい。多少遠回りになっても別の道を探しに行く方が良さそうだ。

「入ってみる?」

「なんてね。冗談」


 回廊へ続くあの場所から引き返したところで、私の無意識は不意に奥の階段を意識させるのだった。その最上階にあるのは3のつく号室が並ぶフロア、つまり三階である。そこへ行きたい理由は単なる怖いもの見たさなどではなく、第六感なんてロマンティックなものでもない。胸底にあるもっと現実的な、懐古というもの。私は階段の先を見て、直接その感情に触れてみたいと思ったのだ。

「行こうか。同じ気持ちなんでしょ?」

 悪魔は私に共感してくれるのだ。証拠に、悪魔は今でも私の手の中に居てくれているのだから。私は手を離さぬようしっかり掴んで階段をのぼった。慎重に。慎重に。軋む階段をそうしてのぼっていった先に、私の求めていた景色はあった。

 三階の間取りは北側左端から順に301、302、303と号室が続き、東西南北の壁を一周するように部屋が並べられている。真正面に見えるのは北側。そこの真ん中に差し掛かる302号室。私はその病室に極めて静的な高揚感を覚え、私の中で美しく満ちた。302号室……私は取手を握る手に期待を込めた。ほとばしる、という表現では少し感情的すぎるだろうか。けれど私の感情はその表現に最も近しい感動があった。私は躊躇いなく扉を開くのだった——。

 花の香りが漂ったと喩えれば、もれなく私の体内にある血潮までそういう香りということになってしまう。しかしここに充満する臭いこそ悪魔が求めるものだとするならば、私は迷わず花の香りと喩えよう。花……いいではないか。私を病弱にした憎たらしい血潮が花ならば、悪魔はもっと私に目を向けてくれるのだから。それなら、私の血液も愛おしいものではないのか。

 そう思いながら、私の目線は次々に部屋の中央へ寄っていく。ここも私が目覚めた灰色の暗い部屋と同じ間取りで間違いはないが、ベッドの数は圧倒的に少なく、それらも端に寄せられ、縦に立ち上がっていたり逆さまになったり、乱雑に捨てられてある。そうする理由は中央の異常のためだと私はすぐさま理解した。あれの為に広々した閑静な空間を作りたがったのだ。

 ——輸血パックだった。無数の輸血パックが山を作り、破けた袋から所々黒くなった血が流れ、それが濃い花の香りを醸し出している。

「ねえ。これはなんだと思う?」

 私は先程異常と言ったが、貶したのではない。例えば部屋の一番奥にある、あの宙吊りのベッドを大した芸術センスだと感動できないだろうか。一見ただ糸に持ち上げられただけのベッドだけれど、美術というのはこういった唯一無二の発想力からなるものだ。

 つまりここでいう異常は、宙吊りベッドのように、評価に値されるべき異常であることは理解して貰いたい。これは美なのだから。

「考えてみて。この血溜まりの意味を当ててみて」

 私は黒ずんだ血溜まりを、沈黙する空間に来るべくして現れた穴だと考えた。そこは地獄に繋がる底なし沼で、いずれ気泡が泡ぶくぶくと音立てて、中から無数の手が伸びてくるのを浮かばせた。しかし決して恐ろしいものではなく、全ては罪深き者たちの懺悔の表れなのである。何故なら、輸血パックとは救済なのだから。

 遺された輸血パックは、この病棟が素晴らしい偉業を成し遂げた痕跡なのだろうと、その甚だ献身的な行いに喜びつつ部屋を後にするのだった。

 私は病棟を称えた。病室の冷えた扉を閉じた後も、この余韻は胸中から溢れ出、生暖かい感情が全身に浸るようだった。悪魔との運命的な出会いによって始まった一連の記憶探しは、今のところ望外な結果にある。私の期待は今既に更なる裏切りを求めて、導かれるように病棟の案内図を再確認した。黄土色に変色したプラスチックの板が懐中電灯に照らされ、表面を侵食する茶色い斑点も確認できた。劣化し擦り切れた文字から院長室という文字を探し、カビ臭さが伝わるまで近づいてからようやく、それらしきものを見つけた。私の欲求に応えてくれる一物は、きっとこの部屋だろう。私がそう感じるのは、素晴らしい病棟の総括者がかつて居た場所だから、というだけではない。院長室の真隣は666号室だったのだ——。

 ひとつ想起して貰いたいのは、私が以前に666号室は誰かが出入りしていたのではないか、と考察した推論である。私はあの隠し部屋を隠し部屋たらしめた創設者と、噂になった人物が同一人物であると関連付けた。創設者が末代の院長であるならば、人目を忍ぶ行き来を想定された部屋を居室の真隣に置いたのも辻褄が合う。つまり、噂の「誰か」は院長だった。

 と、するなら、院長室こそ病棟の全てが集結した図書館。もしくは宇宙と呼べるかもしれない。そこに私の忘れていたものさえ同じように埋もれているのなら——。嗚呼、それほど魅力的なものはない。私の懐中電灯は逸る気持ちに沿って階段の下を指した。ここを降りて別棟へ続く階段をのぼった先が院長室のある三階である。5のつく号室が並び、そこには最初私が目覚めた501号室も存在する。当時懐中電灯さえ手元にあれば初めに訪れていたであろう院長室に、あろうことか気が付きもしなかった自分が愚かに思えるが、けれど愚かなお陰で、私は初めに輸血パックを見つけるという儀式的な順序を樹立できたのだ。愚かさとは必ずしも呪うべき恥ではないのではないか。

「行こうか、院長室に」

 あれほど慎重な昇り降りを徹底した階段すらも、早く動け早く動けと急かす気持ちの高鳴りに、一段飛ばしで駆ける。幼い頃の私なら病弱による贔屓も相まって危ないからと手を引かれそうなものを。私は先程よりずっと早く別棟の三階へ辿り着いたのだった。

 とうに錆びれてしまったが、階段の入口には頑丈な鉄格子がそびえ、それが二重にもなって中にいた者達の出入りを制限してある。これは別棟の三階が特別症状の重い患者の隔離施設だったからであって、実は私の目覚めたベッドもまた、拘束器具が取り付けられた特殊な寝具だった上、室内はそのベッドひとつに留められ部屋全体が独房のようでいた。幸い、患者の誰もが消えた今となってはどこも開放的で、階段前の牢すらまともに機能していない。そうでなければナースステーションさえ行けていない訳だが、現在、それでも構わないと思うのは、求める全てはここに充足してあると感じるからだ。院長室は目前にあり、他より一際大きく、また一際浮いた木製の扉が、ひたすら黙って私を待ち伏せている。その扉の前に立つことは、朝日の絶景が広がるのを予期し、蕾が開くように今か今かと瞼を上げようとする一瞬に似た、弾む様な興奮を与えてくれる。緊張が走る片手で取っ手を握り、刹那的に私は燃え盛る朝日を思い出す。戸を引けば、懐中電灯の淡い光が隙間に覗く内側の闇に吸い込まれていく。

『知恵をお貸しくださいラプラス様』!

『知恵をお貸しくださいラプラス様』!

『知恵をお貸しくださいラプラス様』!

 戸が全開になり、懐中電灯の光が奥の長細い机を照らした。正面の壁には偉業を褒めたであろう表彰状が、悲しい事に見向きもされなくなり、色褪せて額縁と共に垂れ下がっている。窓ガラスはやはり砕け、外の黒い葉がいくつか顔を出しては揺れている。床に敷かれたカーペットは元々鮮やかな赤色だったのだろうが、今では雨風に乗ってきた泥に汚されシミになっている。外から木々の葉が擦れる音以外に聞こえるものはなく、かと思えば私が足を踏み入れた途端に木の軋む音が一度鳴るのだった。

「ねえ見て。何かあるよ」

 懐中電灯に照らされた机上で、それは確かに私を呼んでいた。ひとつのフォトフレームが光に細かく反射したのを、「ここにいる」という主張のように思えたのだ。私は手に取って見た。しかし家族写真と捉えられるフォトフレームは、人影をもれなく黒いマーカーペンで塗り潰され、誰の姿すら判別つかなくなっている。それでも推測できるのは、大きい人影がひとつと小さな人影がみっつほど並んでいたらしい、という事くらいで、この家族は四人家族で片親家庭。という少しの役にも立たないものだけだ。……つまらない。私はてっきり、院長の顔を見る事で新たに感動的な発見を得られる事を期待していたのに、まさかここに来て悪い意味で裏切られるとは。残念でならない。

 それでも何か収穫はないかと、他に机上を漁ってみたり立て付けの悪い戸棚を開けてみたりした。尚、結果は散々埃を被り埃臭さにむせただけだった。ここにあったのは腐って読めなくなった書類の多くと、使い道のないどこかの鍵。それすら金庫を開けられる便利なマスターキーではないのだ。

「今回はツイてなかったね」

「次があるよ。行こうか」

 私は諦め、悪魔と共に部屋を後にした。

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