101 わたしはニオ
ここは病院で、私は患者だったはずだ。
はず、というのは、私も実はここにいる理由が定かではなく、所謂記憶喪失なのだ。この記憶喪失について、どうして私が記憶喪失に気づけたのかと疑問に思うものはいるだろう。簡単な話である。目が覚めて一番に、私は割れた窓ガラスから冷気を浴びた。そこを気になるのは自然で、次に腐ったカーテンの裂け目の、黄ばんだ布が風に揺らめいているのを見た。天井に取り付けられていたはずの蛍光灯は板ごと外れて今や私の目線の位置までぶら下がり、剥がれた壁紙からはコンクリートが剥き出しになっている。おまけに私が先程まで眠っていたと思われるベッドは埃まみれカビまみれで最悪な有様だ。
もう一度言うが、私はここの患者だったはずだ。それもつい昨日までそうだったはずなのだ。それがたった一晩でこのような不衛生な環境下に取り残されていたというのは、ちょっと非現実的ではないだろうか。だから私は私に記憶喪失という病名を名付けたのである。——ただ、ここがもし生きている精神病棟であったならこの病名を解決する糸口くらい掴めたかもしれないものを。悲しいことに、ここは森の中に捨てられた精神病棟だ。
なので私は、ここでひとつ遊びを思いついた。666号室のニオという噂はご存知だろうか。かつて入院していた患者がみな知っていたかは不明だが、少なくとも噂好きのナースの間では知れ渡っていただろう。本来病棟に存在しないはずの666号室に、悪魔が出るというものだ。私はその病室を見つけだし、その病室で未だに目覚めない記憶とやらを呼び覚まそうとしている。
次に、ラプラスの悪魔というものはご存知だろうか。元々これはパラドックスの話題によく用いられる単語だが、私は患者なりの異常性に則って、この超越的な知性を持った悪魔を信じてみたいと思ったのだ。
『さあどうか、知恵をお貸しくださいラプラス様』
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長い廊下から吹いてくる冷風が唸り声のように聞こえるのは、恐ろしく思うだろうか。先の暗闇から薄ら見える物陰を時折人影と見間違えるのは、恐ろしく思うだろうか。これから悪魔に会おうとしている身としては、風は悪魔の歓迎に、物陰は道標に感じられるのに。実際私は風の吹く方に従って666号室を見つけるのに至った訳なのだから、私の考えを自意識過剰と評価するのは、ちょっと待ってほしい。
さて、こうして噂の病室前に立ってみると、どうやら存在しないと思われていた原因は、病棟が生きていた頃に扉の前に貼られていた壁紙にあるらしい。誰かが意図的にこの部屋だけ隠したのだろう。きっとその誰かは定期的に部屋を出入りしていた。その際、偶然噂好きの誰かがそれを目撃して、噂好きが連鎖的に広めていったのが都市伝説の発端だ。ここまで推理できた。けれどそうなれば、悪魔がいるというのは都市伝説をらしくするための都合良い脚色になってしまう。それではつまらない。悪魔は存在しなければならないのだ。
けれどラッキーなことに、この噂話はただの欲求晴らしには終わらなかった。わざわざこの部屋を隠した人間が確かにいたのだから。さあ、何のために?まさか何もないのに隠す人間はいないだろう。まさか、医者まで精神病患者だったとは言うまい。きっとここは悪魔に取り憑かれた人間の隔離部屋で、秘密裏にそういう人間の治療を行っていたのだろう。そこにもしラプラスの悪魔に取り憑かれた患者がいたのなら、私の欲望はいよいよ満たされるというのである。
『さあどうか、知恵をお貸しくださいラプラス様』
戸を開けた瞬間、春風を全身いっぱいに浴びるあの心地良さを覚えているだろうか。私は正にこの扉の向こうで、その感覚を味わったのである。それは雨上がりの陽の光。快晴の空に舞う粉雪。そういう清々しさが、仄暗い病室にはあったのだ。尚その清々しさは、単なる心の問題である事を知っておいてもらいたい。私はそこで悪魔に出会った。
「こんにちは。わたしはニオ」
私はその小さな人こそ悪魔だと信じた。そうして私の手は、遂に小さな人に触れたのだ。
「記憶が無いの?一緒に探してあげようか」
只今より私は、優しい人と共に記憶探しの旅に出ようとしている。それを思えば病室に染み付く薬品の臭いも埃臭さも肌寒さすら愛おしいのである。
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ここからは、この優しい人を悪魔と呼ばせて貰いたい。私と悪魔は、まず明かりを探さなくてはならなかった。冬の夜は早く、もたもたしていると非常口のピクトグラムすら灯らない廃墟では、あっという間に視界が漆で塗りたくられたようになってしまう。しかし先程も述べた通り、既に廊下は闇に呑まれつつあった。廊下の手すりは苔が生え、折れて斜めに倒れている。雨風に晒された書類や広告があちらこちらに散乱し、ある所では注射器などの医療器具まで撒かれてある。前が見えず、うっかり転んでしまっては危ない。悪魔は私に防災用の避難グッズがナースステーションのカウンター下にあることを教えてくれた。しかし一階に続く階段もこれまた酷く荒れており、滑り落ちてしまわないよう時間をかけて降りる必要があった。そのためにナースステーションに着く頃には、恐れていた通り視界はほぼ漆塗りされたようになってしまって、防災グッズは手探りで見つけ出さなくてはならなかった。手にカウンターらしきものが当たって、その上を滑らせつつカウンター下までたどり着く。目当ての感触が手に伝わるまで二分ほど両手を泳がせていると、ようやく冷たい箱を右手が捕らえたのだ。それをしゃがんだ膝の近くまで引き寄せて、箱を開けば細長い棒状のものを探し求めた。
「あ。あったよ、懐中電灯」
私は懐中電灯のスイッチを入れて、無事に点くことを確認した。先程まで見えなかった景色の一部分が、白い光に丸く照らされた。と同時に悪魔も隣に居てくれるのを実際目にして、緊張もしていなかったのに僅かな安心感を覚えた。
「懐中電灯はわたしが持ってるね」
明かりが見つかったなら、早速記憶を探そう。どこに行こうか。案内図は階段の付近に書かれてあったはず。なんだか子供が親に内緒で冒険するみたいで胸がどきどき鳴った。幼い頃に経験できなかったことを、私はこの廃病院を通じて存分に味わえるのだ。
「安心して。手は離さないから」




