406 一緒に探してあげようか
ここは病院で、私は患者だったはずだ。
はず、というのは、私も実はここにいる理由が定かではなく、所謂記憶喪失なのだ。けれど私は666号室という病室だけを何故か朧げに覚えていたのである。そして、私の脳内で根を張るラプラスの悪魔という名前も。これに私は又更に何故だか著しい敬意を抱いていて、私はこの謎を確かめたく666号室に出向いたのだった。私の記憶に潜むもの、そこに有ることを信じて扉を開けた。その時私は春の陽気を思い出したのだった。目の前に置かれた「父親」を私は思い出したのだった。叢雲に紛れて朧げだった記憶は風で雲を払うように晴れて、私の目前に鮮明となって現れた。私は喜ぶ。私はあの時死んだはずだったが、悪魔は私に二度生きる機会をくれたのだった。それも、父親と共に生きる権利である。ならば私はこの二度目を、この感動を父親へ分け与え共に共有する二度目にしたい。記憶を取り戻した感動を、父親にも教えてあげたい。死して過去も未来も記憶を保持しなくなった父親のため、私は父親の「記憶を探す」旅を辿りたいと思ったのだ。
「記憶が無いの?一緒に探してあげようか」
私は父親に最もらしい名誉を、称号を与えることにした。神を信じる人が素晴らしい人材を神と評すなら、私はこの素晴らしく勇敢で優しい人を「悪魔」と呼ぼうと思う。私はこれから父親を、新たに悪魔と呼ぶことと決めたのだ。
私は懐古に沿って病棟を悪魔と巡る。302号室の輸血パックを見せた。といっても私も実際目にするのは初めてだったと思う。私が指示したことではあるが、こうして血の匂いを伝えられると、父親が密かに私の血潮を肯定してくれていたと知り、究極の愛、つまり最高の美学へ私は浸れる心地がしたのだ。父親はいつだって献身的だった。
その次に私は院長室へ出向いた。院長室では父親が毎日飽きもせず祈りを捧げていたことを知っていた。なので私は大いに期待し、院長室を開いた。その時私は父親の声を記憶から呼び覚ましたのだった!
『知恵をお貸しくださいラプラス様』!
『知恵をお貸しくださいラプラス様』!
『知恵をお貸しくださいラプラス様』!
けれども残念なことに、父親はあの時祈ってなど居なかったらしい。もしくは、死を決断した前夜にその痕跡すら消してしまったのか。唯一遺された家族写真でさえ、私達三姉弟すら塗り潰されてしまっているのだから、これでは悪魔の記憶は揺らげない。私はただ退屈な気持ちになって、部屋を後にしたのだった。
次は210号室に行った。そこは私が想像していたより夥しい蝋燭の溶けた後が山になって私を歓迎していた。私の懐古は更に色濃くなり、私は蝋燭の一本を点けてみたい衝動に駆られる。私は欲望に負け、今、点けろと言わんばかりにあるライターを使って、その一本を点火した。火は私の前に現れ、案の定静かな興奮に浸った私は懐中電灯を閉ざす。辺りは火の灯りのみとなり、その中で父親が火に触れたあの情景を夢に見た。その時私が思ったのは、私もあの中へ共に飛び込めたのなら。という妄想だった。火は今でも私を励ましてくれるらしい。
今度は205号室を見た。そこには烏の羽根があり、私はこれに見覚えがあった。父親が生前むしり取っていたあの烏ではないかと。けれど見覚えというのは懐古より些かシンプルで、前の二つと比べると、父親が私を愛していたという証拠が何処より希薄に感じたのである。けれども烏の羽根は私に新しい発見をくれた。父親は各先端に目印をつけるため、一々下敷きに円を描いていたのである。私は慌てて他の二つも確認した。すると全ての部屋において、本当に円は存在していた。私はこの心がけこそ、父親が私の第二に続く人生を見越して作った目印に思えた。これは私への道標でありながら、同時に死した自分へ遺した記憶の欠片かもしれない。
私が次に向かうべきは食堂と脱衣所であったが、私はその前に手の汚れが気になり、洗面所へ寄り道したのだった。そこの鏡が割れていることは私もよく知っていたが、けれどもまさか、鏡には生前、五芒星が描かれていたことなんて初めて知れたのである。私はこの驚きに、しばし洗面所の隅々まで探索してみたい欲望が生まれたが、けれど同時に腐った水の臭いとハエが行き来している光景が受け付けられず、諦めることにした。外では待ちくたびれた悪魔が洗面所の横にもたれており、私は洗えなかった手を裾でなんとか拭い、悪魔を握った。
食堂へ来ると父親が生前作っていた例の松葉杖が山になって私の目に映った。私の指示を聞いた父親が夜な夜な作っていた、父親の手作り。そのものである。私が指示を出したのは血、魂、手足、短剣であるが、父親はそれぞれ代替品になるもので対応し、血は輸血パックを魂は蝋燭を、そういう要領で手足は羽根と松葉杖を代わりへ使用したらしい。しかし何故足と頼んだだけの松葉杖を一々ひと手間かけて十字架にしたのか。それを考えて、私は父親からのプレゼントだと思った。悪魔を信じる私の為にわざわざサプライズを用意してくれたのだと。そう。これらは全て悪魔崇拝を象徴する逆さ十字なのである。やはり父親は、この時からも私を一途に見続けてくれたらしい。私はまた嬉々として昂るのだった。
脱衣所には浴槽に溜まった獣の白骨死体と、床に山積みで散らばるメスがあった。私は怨念のこもった短剣を指示したことを覚えていたが、まさかここまで、私の為だけに数多の生物を犠牲にしていたとは、目にしてみると壮絶であった。前にも述べた通り、ここにいる子らは犠牲の上で私の魂を昇格してくれた尊ぶべき生贄達である。こんなこと、私というたった一人の人間のためだけに行えるものだろうか。私はこれを英雄譚それらしい歴史に感じられた。
そしてその時、私は五芒星の先端を全て巡り終わった後に思い出すのであった。私は生前、父親に五芒星の真ん中に最も大切なものを置くよう指示を出していた。私はそれを見なくては、記憶探しの旅が完了したとは言えない。それに私だって、真ん中にある父親の大切なものが何なのか、この目で確かめたことは一度もなかった。私とは関連付かない全く別のものであった場合を恐れていたのだろう。けれども、もう平気だ。私を見てくれていた証明は済んでいるのだから。——そして、その部屋にあったのは家族写真で、私達三人姉弟の姿は綺麗に遺されていた。
その後、私は外来フロアへ行った。父親が生前、明確に祈り続けていた手術室には巨大な魔法陣があり、私の、独創的な祭壇があるだろうという自信のあった予想を遥か上まで越えてくれた。そこには本当に悪魔が召喚されたかのような跡もあり、父親はここで悪魔との対話を本当に成功させたかもしれなかった。その次、私は霊安室へ行ったのだが、ここでは三つのベッドが意味ありげに並べられていた。恐らく、父親は三人をここに寝かせる気でいたのだろう。死んだ三人を、ここで安らかに。その後自分も後を追う算段でいたのだろうが、けれども結局至れなかったのは父親が私を殺す勇気まで持てなかったせいである。私は父親が愛を以て私を殺すのであれば、父親の手に絞められようが一向に構わないのだが、父親は優しいので出来なかったのだろう。結果、霊安室のベッドは並べられるだけに留まったのである。
私の記憶探しの旅は、これにて全て回り尽くしたのであるが、私はこれら全てにおける私の見解を、手を取っている父親には悟られぬよう留意せねばならなかった。というのも、私が父親の遺した形跡を見て感動した、という話はどこを取ろうと、とても感慨深い出来事なのではあるが、父親の記憶探しという名目では邪魔であった。だから私は私の知っている真相をなるべく隠しながら、我慢ならない感情は極力別の言葉へ変換し父親に見せかけるように仕向けていた。私は如何なる時も疑問を投げかけ、五芒星も芸術も何もかも新鮮なもの、知らないものの振りをし、共に考察させようとした。こうすることで私は手にいる父親に「意味を当てて」貰い、彼の眠れる記憶を醒まそうと思考していた。そして私は最後に人形劇の名目で父親に私達の過去を垣間見せ、答え合わせを終えるのだった——。




