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403 知恵をお貸しください

後は繰り返しの毎日だった。朝起きて食べて夜に眠るサイクル。吸っては吐く無意識のループ。それ如く繰り返されているのは私の悲鳴。ナースは見飽きて来なくなり、父親が来るまで随分一人で叫ぶ時間が増えたので、私としては実際に自分が狂ってしまったかのような錯覚に陥った。耳元で聞こえるあらゆる音は私の声に掻き消され、私の声が部屋一杯に埋めるのを、私の心までそういう嘆きに染め上げられていくという、脅威にかかわる危険な心情を担う。それでも父親は病室を訪れれば駆けつけてくれるので、私は落ち着くと共に侵食しつつあった脅威も治癒されるのだった。私は悪魔のお陰で救われていると、私は落ち着きを取り戻せていると、最近では口で言うようになった。最近では父親に私の信仰する悪魔の名を教えた。莫大な知識を持つ悪魔。地位だけで成り立つ魔王なんかより凶悪で博識な、知恵を以て私の悪趣味に付き合ってくれる邪悪。私は名のない悪魔を命名し、父親に呼ばせるに至った。その名こそ、ラプラスの悪魔。神よ神よなどという信仰深さの表れは聞かなくなり、私の教えた呪文こそ父親の声になった。『さあどうか、知恵をお貸しくださいラプラス様』、『さあどうか、知恵をお貸しくださいラプラス様』。私の耳へこれは焼き付く。生涯、父親が私を認めてくれた証明の声として焼き付く。私は喜んだ時、興奮する時、己を励ます時、正にそんな瞬間この一文を思い出すことだろう。何故なら私は悪魔に忠実で悪魔も私に忠実であったから。悪魔は父親が呪文を唱える度に応える。父親は私が治ることを願ったが、私が救われることは即ち私の願いが成就することにあり、父親への応答は私への応答にもなる。肉眼に映らぬ魔の手という力はみるみる膨大と化し、父親を崇拝者とさせるまで洗脳したのだ。だからこの後の出来事は悪魔の指示による事態であり、私の願いが完璧になるまでの過程にある。

 手始めに悪魔は数十人ほど居た患者を丸ごと追い払い、医師も看護師も次々悪魔に食われたのだ。やがて誰の気配も無くなると父親は自らの白衣を捨て、白衣は私達の知らぬところで燃えた。悪魔は告げたらしい。たかが赤の他人ひとりひとりを看取る暇はない。常住坐臥むすめを診ていないと、むすめは忽ち狂って廃人になるぞ。けれど父親の清々した顔つきは脅迫に遭った者の怯えた顔つきではなかった。父親は悪魔から囁かれる如何なる脅迫も従うことによって、私と父親の祈りが実っていくから快いのだろう。父親には脅迫は脅迫として機能せず、助けなのだ。恩恵なのだ。彼は永く所有していた病院を遂に廃墟とさせ、余るほど広々していながらあまりに狭い、灰色の城に変えてしまった。そして父親は本日も隣の部屋で手を合わせ、悪魔のお告げが来るのを待つのだろう。隣の部屋は院長室だった。私はベッドから立ち上がっては、脳内の血液が退ける感じと眩暈を覚えるのだが、転ぼうが一時視界が砂嵐に遮断されようが壁に触れたがった。壁に耳を澄ませれば、父親の祈る声が聞こえるかもしれなかったから。壁は私達をその瞬間永遠に遠ざけながら、反対に確かな存在を、温もりを感じさせ、私を安心させた。思惑通り、父親の声は断続的に私の部屋へ入ってくるではないか。壁に邪魔されて不確実な声になりながら、くぐもった声は水中にたち昇る泡沫の音の様に届くではないか。私は声を明確に聞き取ることは出来なかった。けれど不確実な声は、その不確実さがそうさせて、人間の言語学では到底解読できない不可解な呪文に思えたのだ。父親は悪魔の言葉を習得したに違いなかった。私ですら見聞き出来ない悪魔の言葉を、父親は見聞きしたに違いない。いつまでも明瞭にならない単調な父親の声、そのあぶくの中で私は聞き取った。私の名前であったからだ。私を私として固定するニオという名前があぶくから二文字流れてきたのを、私は聞き逃さなかった。私はあぶくを掴んだ。あぶくは陽光で虹色に煌めき、深海の水圧も酸素の行き届かない身体も全て解き放つ救済を与えた。父親は悪魔を通じ、私との関係が壁にて防がれる時間の合間さえも、私を認識するという意識に繋がれている。

 悪魔は父親に言った!むすめを助けたくば悪魔を崇拝せよ。病棟全体を巨大な五芒星とし、各先端に生贄をおけ。清潔な血潮、燃ゆる魂、手と足、怨念の籠る短剣。真ん中には己の最も尊いものをおけ。従え。従え。むすめは今も破滅に瀕しているぞ。破滅は今か今かと芽吹く時を待って、むすめの体内でお前を監視しているぞ。これはお前がむすめを見捨てる選択を心待ちにしている。目を離した隙に牙を剥く。軽んじていると瞬く間にむすめは破滅の苗床になるぞと。悪魔は毎晩囁き、夢の中にて娘の末路を露わにして脅す。……しかし、これも実態は私のトリックな訳で、父親を洗脳したのも私なのではあるが、しかし又も悪魔は休暇をとって、私が代わってトリックの仕掛け人となると、折角父親が私を見るようになった瞬間も前の真似事に処理されかねないと、私はまた美談で誤魔化してしまった。けれども、実際、父親が私の指示によって恐ろしい行為に出たのは事実である。夜な夜な、父親は生贄の足を準備するため病院中に残された松葉杖を回収し、ひとりでに十字架を作っていたのを知っている。手の代わりに黙々と、仕留めた烏の羽根をむしり取っていたのも知っている。私は病室を抜け出し、父親の異常性極まりない悍ましい行為を何十回だろうと目撃することになったのだ。寧ろ、私の作り上げた美談より美談であるかもしれなかった。父親は私の声を聞いたのだから。私の為に私の望みを聞いているのだから。あれは全て私の提案の延長線にある出来事で、私は最前列にてそれを見物できている。このような現状があってして、無駄に美化された偽物の壮絶が良いと評価する人はいるだろうか。現実の壮絶を上回る偽物が存在するだろうか。しない!

 父親は塵にされた廃墟内の品々から輸血パックを仕入れた。大量のメスを仕入れ、林中を駆け回る野良ばかりを狙ってメスの様々を使い殺した。蝋燭は自らの家から収集し、全ての蝋が溶けるまで火を灯し続けた。雨が雲から地面へ落ちる流れ。稲妻が避雷針に吸収される流れ。そういった流れを父親はやってのけ、結果的に五つの罪が病棟に重ねられることとなる。五芒星であった。全ては生贄であり、私を救うのは生贄という数多の犠牲の上。つまりは私の魂という神が見限った血は悪魔崇拝という一続きにおいて、犠牲者がこぞって昇格させたことになる。結局、罪を悪と決めつけるのはいつだって偽善だった。命の美しさが罪の重さで汚れゆくなら、昔の英雄は英雄ではなかったはず。殺生が罪ならば、天使も人を殺す。美しさとはいつだって、多数の承認と賞賛があってこそ輝き出すものだ。……と、私は生まれて初めて、この日美しさを語ることになる。美術鑑賞など夢のまた夢だった私にとって、初めて観る美であったから。美しいものと言われても頭に浮かぶものは何も無かった私に、初めて衝撃を与えたのが父親がくれた愛の形……五芒星だ。この星形は父親のくれる私への究極の愛。私の忌々しい血を癒そうと罪を背負った、優しい人の痕跡なのだ。

 けれど父親は、この流れを最後に私の元へ訪れなくなった。食事も二人の姉弟と同じ、二回ノックをするだけに留められ、扉越しで調子はどうか聞いてくるのみに変わった。私はわけが分からなかった。何故?父親は私を愛している筈ではなかったか。あの五芒星こそ何よりの証拠ではないか。なのに何故?私の頭は混乱し、果てに隣の病室の扉が開く音の理由に醜悪な嫌悪を見出した。私のところに来るのは辞めておいて、姉と弟のところには常時通っているらしかった。私にはそれが憎く、憎く、憎く……彼らに翼があるならばそれを折り曲げ、もぎ取ってしまいたくなる様な、そんな殺意に見舞われた。この時の私は、悪魔のお陰で父親から愛されるに至ったと妄言を吐いた自分すら惨めに思えていた。

 私にとって姉弟とは……姉弟とは何だっただろうか。血の繋がりがあるように見えて、彼らとなどなんの血の繋がりなどなかった。私は病弱で、悪魔崇拝。彼らと別の世界で暮らす私など、初めから彼らと同じ血の繋がりなんかなかった。それがどうして、仲が良かったという過去が実在しているのだろうか。それとも、まやかしだったのか。今やただ、私は二人を消してしまいたい。それだけだった。


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 【氏名】茂田仁緒

 幻覚症状あり。

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