401 Look at me
食卓の夢が映った。私の視点らしく、自在に頭を動かすことはできたが、妙に機械的なため微細な動きはならない。海を向く双眼鏡を覗いているに近かった。胴体はいうことをきかないでいる。手元はナイフとフォークが握られ、どちらも先端を上向きに立てられていた。傍には姉、弟がいて、向かいには父親がフォークで刺したプチトマトを口に運んでいる最中であった。それはいつも通りの風景でありながら、この夢はもう一人の来客をさも当然のように迎え入れ、家族の中へ自然と混じっていた。それは黒煙のようで、長いとも細いとも言い切れない微妙な形を持って、本来無いはずの椅子に座っている。その大きさは人ほどだったが、私はその形を内心面白おかしく、ひじきみたいだと揶揄ったように思う。先端が針みたいに細く、中央部だけやんわり膨らむ様がそのように見えたのだ。けれど、次の瞬間には右目の亀裂を思い出していた。どちらかといえば、亀裂の方が似ていたのである。目玉もひび割れた感じもなかったが、それは亀裂だったのである。この様な気づきを得る以前、ひじきを連想してしまった私の頭をどうか叱咤して欲しい。父親の横で居座るあれは悪魔に違いなかった。悪魔が私の夢にあのような姿で現れたとして違いなかった。そして、私の気づきは合図だった。黒煙は毅然としてあの形のまま、父親の横から滑るように移動する。まるで目の中の残像が色濃く残ってしまったみたいに、私が追う目の通りに滑らかだった。しかし、私の視野は後ろの方まで向けず、横を向けば姉の咀嚼する顔に遮られ、悪魔はとうとう見えなくなってしまう。私はもう悪魔が何をする気かも観察を許されず、想像の域だけに留まることとなってしまった。——が、悪魔が私の視界から外れて程なく、両わきから空間を斬撃する悲鳴がつんざいた。二人の悲鳴は暫く私の両耳を一色化させ、カトラリーがぶつかり合うだけの静かな空気から一変、耳の穴を通る空気は鋭く振動した。姉が反射的に落としたカトラリーが机に落ち、皿を叩きつける音も鮮明に聞こえ、かと思えば姉は両耳を塞いだまま部屋へ帰ってしまう。一方、弟は目の前の食器を全てなぎ払い、一通り暴れたかと思うと椅子の後ろに隠れ、私の視界からも身を消してしまった。弟の荒い息遣いが聞こえたが、震える声はもう叫ぶことはしないらしい。しかし、父親が驚いて話しかけると、思い出して再び発狂する。
悪魔が何かしたらしかった。というか、そうでなければ説明つかなかった。後ろにいる間、悪魔は何か恐ろしい呪文を囁いたに違いない。ほんの刹那にあれほど人を震撼させる呪文とは一体どんなものだろう。悪魔は私にこれを見せたくて夢に出たらしい。自分の実力がどれほど侮れないかを、私の目に焼き付けたかったのか。ならばそうする理由。私としては、私の願いを受け入れた悪魔が、これから起こる行為の予兆を宣告したのだと推測する。つまり最終確認の段階。私がこれを受け入れれば、悪魔は即座に行動へ移すに違いない。私は頭を上下に動かすことこそ出来なかったが、思った言葉は承諾であった。
数時間後。私は起きて食卓に向かった。ベッドでの食事ではないことに父親は心配したが、体調より優先すべきなのは昨晩の夢を再現することにあり、私は嘘をついた。しかし、この日父親が口にしたのはローストハムであった。
二日目。この日は私の体調が優れず、食事は部屋になった。この頃になると中までわざわざ訪れに来ていた姉弟も、部屋の前に盆を置き、二回ノックするだけに留まった。父親がいない日の当番はいつも二人だ。
三日目。この日は父親がいた。食卓にはナイフとフォーク、丸いプレートには肉厚のおかずが湯気を立て、端にはレタスとプチトマトがあった。私は期待した。どんな食材が使われていたかまでは覚えていなかったけれど、唯一覚えている父親のプチトマトを食べる映像を待って、悟られないよう凝視する。父親がプチトマトを口に運んだ。しかし、いつまで経とうと横に悪魔の影はない。両端に姉弟がいるのも気まずいので、私は具合が急変した振りして自室へ戻ろうかとも考えた。その声が喉元まで出かかった。それをひと息のところで遮ったのは姉の声である。
「今、なにか言った?」
誰もが姉の方を向いたが、誰もの無表情に隠された気持ちはなく、純粋に目を丸くするだけの顔が浮かぶ。「知らない。喋ってない」と弟が受け答える。
「絶対言った!ねえお父さん?」
父親は笑顔で空耳を疑うばかりで、姉の主張を肯定したりしなかった。姉は納得できぬ様子でおかずの刺さったフォークを咥えるが、結局発狂するに至らず。けれど私の勘は殆ど確信に近く、悪魔の仕業であると結論づけた。夢は宣告であり、予知ではない。けれど予知に近くなくては、先刻の報せは私から思い出されないので、わざわざ普遍的な要素を組み合わせ、現実で再演してくれたのだ。寧ろこれからまざまざ悪魔の所業が私の目に侵食してくると思うと、ほんの些細な一歩さえ大満足した。
私は私の勘が当たるのを願った。その数日間、願いを悪魔に訊かれるまでもなく、物事は良い方向へ彩りつつあった。持続的な姉の問い質しは日増しに豊富となり、話し声に留まらず触れたか其処に居たかまで様々になった。そしてそういう姉の異変は弟にも伝播し、一緒になって疑心暗鬼に駆られる始末。末期にはあれが見えた!これが見えた!と大声で騒ぎ立てるようになった。父親はそんな二人を心配する。……さて、そんな心配性な父親であるから、私が火傷を負った直後の状態を姉弟に向けてしまうことを、私は何故前もって辿り着けなかったのだろう。父親が私の部屋へ来る日が減ったのではない。ただ、私の部屋へ来るのと姉弟の面倒を見る時間を比例すれば、差は目に明らかであった。苛立った。けれど、私が承諾した出来事なのであれば術無し。悪魔は願いを叶えてくれないのだろうか。悪魔はただ暇つぶしに詐欺を働いて、うそぶく通りに目の前を破壊することが目的だったのだろうか。そうではないと信じたい。けれど私は不安にあった。不安はみるみる膨れ上がり、内蔵の中に潜む鬱憤は外側へ漏れ出、これらは毒になった。私は全身毒に侵された。毒は痒みを伴い、身体は痒みを排除しようと暴走を試みる。その先は意識下にありながら殆ど衝動的で、狂った両手は潰れたクレヨンを手に握らせ、壁を叩く。黒く外側のまだらな線は私の顔より巨大なエルを描き、クレヨンは執拗な調子で私の拳に操られた。最早、私の手すらも誰が主導権を持っているか分からない有様だった。視界一杯の壁面。何度かクレヨンの残滓が顔に降りかかろうと、気にせず文字は書き殴られる。時間も、空間も、そこには忘れ去られただけ。
『Look at me!! Look at me!! Look at me!! Look at me!! Look at me!! Look at me!! Look at me!! Look at me!! Look at me!! Look at me!! Look at me!! Look at me!! Look at me!! Look at me!!…………』
私の落書きは父親に発見されず終いで終わった。叫び声によく似た落書きは床から天井に届くまでの壁一面に達し、避けてどこを向こうと執念を見せる仕掛けになった。けれど、肝心の人は部屋すら訪れない。私は限界を感じ、悪魔に復讐すると決めたのだ。本当なら包帯を巻いたまま、悪魔が気付かぬうちに右側を突き刺すだけで成りそうなところ、私は悪魔を怒らせようとした。すっかり魔の手に怯えた姉と弟へ、私は悪戯した。姉の部屋に鼠を放り、弟の包まる布団をつつき、それらはわざと本人の目へばれるように行った。思惑通り姉は私に掴みかかる。「やっぱり、あんたのせい」!
無論、しらばっくれる。そしてこの日以降から事ある毎に何かを訴えては私の名を叫ぶようになった。弟も姉の告げ口があったのだろう。同じように名を呼んだ。けれども私の寝たきりが最近続いていたのも相まって、父親は二人の発言を遂に信じなかった。この日より、悪魔の仕業は私の仕業へ置きかわったのだった。
数日後。父親の口から三人の入院が知らされた。




