306 お父さんといたい
傷というもの、特に火傷は身体の組織を元の状態から滅茶苦茶にだって出来るらしい。この破壊は人によって心までも破壊するそうで、心を破壊されたのは父親の方であった。父親はあれ以来、家にいることが増えた。家にいるだけでなく、私を介抱しようと頻繁に顔を見せてくれるのだった。あれから私の火傷は痛まなくなり、だけどもひどい痕が残った為、思わず鏡を見て悲しまないようにと、父親が右目を包帯で隠してくれた。包帯はいわば父親からの愛情であり、そこだけ暖かく感じるのは抱擁に似る。私は溶けたようになった皮膚が何故痛まないか考えた末、肌を延々と抱く温もりが魔法をかけているものだと信じる。私の顔面右側は赤茶色に変色し凸凹になっているので、痛まないはずがない。包帯がなければ忽ち私の顔は痛み、また悶えているはずである。しかしその不思議は思えど父親に感知されてはならなかった。もし痛くないと父親に気づかれてしまえば、未だ神を信じ続ける父親はこの魔法を神様由来だと誤解しかねない為、私は傷が開いた振りをして「痛い」「痛い」と泣き叫ぶのだった。その度、父親は駆けつけてくれる。魔法は父親由来なのだ。
けれど、本当に痛まない。医者から治るにはもっとかかると言われていたところ、傷は痕だけ残して完治した。あの火傷から右目だけ失明してしまったものの、私は残った左目で訳を確認しようとした。父親のいない間にドレッサー前へ立った私は、顔の下辺りで垂れ下がる包帯の結び目を摘み、引く。包帯は下から解けるのに従って取れ、温もりで覆われていた肌は外へ露出していく。そこに火傷のあとは……なかった。
爛れた赤茶色も、溶けた皮膚の凹凸もそこになく、肌は左半分と同じ不健康な白をしており、年相応の未熟な表面であった。しかし、目は見当たらなかった。何処にもない、というより、上書きされているに近かった。それは私と姉弟との間に出来た溝ほど深く、縦に横断する黒い亀裂。何かに斬られた傷でもなく、非人間的な陶器の割れ目をよく模した、頬までかかる亀裂だった。痛みはない。ただ、その奥からは私のものではない無数の目玉が蠢き、どれも同じ動きはしないで忙しなく彼方此方を見ている。幻覚とは違うのかと手を触れてみると、亀裂は見た目よりよっぽど柔らかく、指先は容易く奥へ進む。状況が読めず、私の指は刹那的に元の位置へ戻り、左目はドレッサーに映る自分を凝視し続ける。が、蠢く目玉がどれも私と合うことはなく。けれど私は思った。これは遂に悪魔だと。
そこから私の気持ちは昂った。悪魔はとうとう私に逢いに来てくれた。私の召喚に応えて自ら姿を現してくれたのだと。私は無言ながら、無表情ながら喜んだ。顔に現れなかったのは、あまりの喜びに思いがけず、感情から表現へ送る信号が間に合わなかったからであろう。しかし、粟立ちは下から膨れ上がる風船になって私を覆った。しばし見つめ亀裂の淵を愛おしげになぞれば、父親に見られるのを恐れ、包帯を戻した。
父親の心の方を破壊したと思ったのは、実際に父親が庭先で姉弟二人とはしゃぐのを放棄し、私の介抱に専念したからである。常に仕事の早い父親は私の為、更に早々終わらせ、もう終わったからと私を見舞いに来た。しかしそうではない。父親はきっと責任に責め立てられ、それに促されて業務すら放棄してしまったのだろう。私が痛みに訴える声を上げれば、父親は一目散に来た。その時父親が持ってくるのは常に薬であったが、塗り薬では困るのでその度手を振り払うことにし、痛み止めの錠剤を貰う。飲水を飲めば平静を取り戻した風を装う。悶える間も私は変わらず平静であるから。
小さな城の権力者を掌握した心地。独裁への革命よりは健全なある種の心地だった。この時優先されたのは私であった。父親の中心に居たのは姉弟でも神でもなく、悪魔を信じる哀れな私であった。それすらも悪魔祓いに奮闘する神父はなく、最も穏やかな手。私の演技すら疑わないのだから、父親は私という内面を認めてくれたらしい。悪魔は私の真意を訊いたらしい。私は私が悪魔崇拝する事に関して、偽りなく肯定されたように見えた。
相反に姉弟は私へ不機嫌であった。父親をひく演技など見破っているぞ。という意思表示だろうが、近づけば姉は捨て台詞を置いて去り、弟はまず近付かれぬよう物理的にも距離を離すようになった。どちらも一貫して「来ないで」の意である。父親からの関心に相応する対価は姉弟との関係であったらしい。天秤にかけられた二つのうち片方、横との繋がりは傾き落ちた。元々私達は同じ部屋の頃、並んで互いの好みの絵本を広げる仲であったため、双方恨みを抱く仲でもないことは理解して貰いたい。けれども繋がりを維持させる糸が散り散りに切れた今、私の感情は半ば諦めの境地になって感心を失せた。そうなると私の未練に復旧という文字はなく、新たに生まれるのは邪魔だとか、煩いだとか、そんな耳障りになりうる心ばかりになった。私が望むのは、いつの間にやら父親のみになった。否、悪魔を信じ続けていた私は元からそういう運命にあって、今までの全ては兆しに過ぎず、代償はないのかもしれない。かくあり、姉弟を嫌いになった。
しかし、悪魔はやはり私の真意を聞いておくべきだったのかもしれない。否、もしかすると、悪魔は私がこの時を迎える瞬間とやらを待ち伏せるため、私の右目、早めに姿を現したのかもしれない。けれど恨む気はない。悪魔にどこまで悪気があったとて、傍観するだけして期待させるだけ期待させる余裕があるならば、私のような未熟者なんかよりもっと欲深い亡者に取り憑く方が理にかなっている。悪魔の傍観は私の願いを聞き入れる為の傍観にあった。
父親は一ヶ月経てばまた私から離れていく。姉弟の告げ口ではないことが明白でありながら、同時に姉弟は恨んだ。庭先でまた三人はしゃぐ姿が目障りに、父親が仕事へ行く扉の音が耳障りに、私は元に戻って布団へ潜る毎日を送らねばならなくなった。父親の心変わりは早く、もう私を認めなくなったらしい。私がどんなに父親を求めようと、神を信じる父親では声が届くに遠く及ばず。私はあの期間父親に依存したらしかった。私が父親を愛しい人と思った理由が私の中で明確に塗られたらしかった。父親に対し、認めて貰いたい。見て欲しいといった欲求が反動して、ずんぐり重たくなっていくのを感じた。欲求は内部の臓物を圧迫していき、遂には肺にまで到達し苦しくなる過程を辿った。我慢ならず包帯を解くとその仕草に恐れが一切含まれないことを実感した。私はつい最近、間違えて包帯の内を父親の前に晒けてしまったのだが、父親は恐怖より同情の笑みを現したのだから。否、別の意味合いだったかもしれないけれど。しかし感じるに、包帯の内は私以外に現れず、私が必要とし誰にも悟られない合間だけ存在を許すらしい。それ以外は姿を隠してしまうのだ。それなら、火傷の痕は門。悪魔の出入口に機能を成しているのでは。そうして記憶の痕が扉に置き換わった。これから私の右目は扉になった。片方の失明は犠牲でなく、転生であった。
扉を解放したなら悪魔は居た。同じ亀裂を持って逢いに来た。瞼のない目玉がわらわら動くだけであったが、目玉は上から来る電気の明かりに暗く反射し溝の中で喜ばしく歓待している。あの動き、その動きは落ち着かない感情の昂りか。けれど私はその気持ちになかった。悪魔が歓迎してくれる今に便乗して、今こそ悪魔に聞き入れてもらうのが私の目論見だった。この悪魔なら私を受け入れてくれるはずだから。悪魔はこの時を待っていたはずだから。
「お父さんといたい」
独りごちた言葉は口の中で消え、傍から見れば本当に独りごちたようでいた。姉弟は私を監視しているか知れないが、監視元が鳥でいようが草木でいようが、誰も悪魔と喋っていたなど、思わないであろう。私の言葉は悪魔へだった。




