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304 カブトムシ

目とはなんだろうか。舌とはなんだろうか。又心臓とは。何故悪魔に捧げるものは何処かの部位である必要があるのか。人間の体躯の一部に過ぎないいち箇所を与えたところで、壊れたそれに同じほどの価値は見い出せるのか。私は考え、ようやく思いついた。それ自体に意味があるのではなく、奪うことに意味があるのだろう。意味を持って存在する形を壊してでも崇拝する度胸。第三者の自由を剥奪してでも仕える精神。即ち忠誠。盗む事は罪である。取り返しがつかないならもっと罪である。それ程の大罪を背負える程の勇気が無いものが果たして忠誠を誓えるか。つまり生贄とは吟味である。私は髪を欲した。壊れていても良しならば、既に死んだ細胞も元は組織であるから。私は髪を切ろうとした。けれど止めた。罪が重いのはどちらだろうか。どちらが勇気いるだろうか。自分の髪を切ることは自己犠牲であった。人の本質は自分に甘い事とはしれた話、自分の身を傷つけるのは結構な勇気だ。けれど自己犠牲は自己都合でありながら、美談であった。美丈夫な男がヒロインを助ける為に怪我を負えば男が賞賛されるように、自己犠牲は美談だ。果たしてそれは罪だろうか。私は悪魔に好いて貰わねば。なら神に最も嫌われる手立てを選ばねば。私の鋏はややあって、私より髪の長い姉に向いた。

 姉は布団を畳んで、畳んだ布団を足置きにし、仰向けで眠っていた。お洒落な姉は色白な肌を徹底しており、しかし私より健康的な肌色と年相応の肉を帯びていた。姉の身体を支えるシーツは彼女に向かって矢印を引くようによれ、姉はその形に留まる如く微動だにせず、陶器のようであったが、窓からの月明かりで薄暗く反射する顔面は、時折睫毛の辺りを虫が止まったように一から二度痙攣させる。私は左右対称に流れる横髪の片方を手に乗せ、せせらぎが手元を流れるように軽く落ちゆくのを拳で防ぎ、白く柔らかなひと束を切り落とす。無慈悲な金属に細い一本一本は絶たれ、そこから私の手にある川のなだらかさは纏めた藁の断面図になり、小さな音の連鎖が数秒続いた後、白い髪が落ちていく様は命尽きるものの儚い落下に似ていた。髪が布団に戻った音は哀愁があった。けれど同時に告げ口であったのだろう。安らかな夢を終えた姉は瞼の動きを朝顔が咲く瞬間に真似、薄開きの睫毛から黒い瞳が覗かれた。瞳には初め月明かりが反射していたが、ぼんやり私の気配に気づくと目を大きく見開いた。彼女は飛び上がり、ベッドの上にて切れた横髪の断面に触れる。

「何してるの?気持ち悪い!」

 すっかり覚醒した少女は寝起きの事実も忘れ、深夜だろうと構わず私を罵った。けれどこの日の鉛は幾らか軽かったので、私は騒ぎを聞きつけた家族に見られぬよう部屋を後にできた。姉が私の腕を掴む気配はまるでなく、代わりに視線が私を追いかけてくる気配だけがあった。

 私は姉の髪を盗む前、もうひとつ部屋から盗み出したものがあった。前々から院長である父親の仕事内容を聞くのが楽しみとしていた姉は、父親の跡を継いで院長になることを夢見ており、物心ついた頃の誕生日プレゼントは『なりきりお医者さんごっこ』という商品名のままごとセットを頼んでいた。白と赤の愛くるしいプラスチック製の箱は底面のタイヤを転がせば救急車になり、水玉模様のリボンを象った取っ手を持てば救急箱として機能できた。彼女は誕生日の当日から部屋中のぬいぐるみをかき集め、一匹二匹と箱に乗せてから上手く抑え、聞き覚えがあるサイレンを真似て床を駆け回るのだった。ややあって予め病院と設定された小さなドールハウスに、サイズの見合わぬぬいぐるみを勢い任せで突っ込んだ姉は、救急箱を開くと中から問診票を取り出して、テレビか父親の話を聞いて得た情報を頼りに「どうされましたか」「どこが痛みますか」と作った口調で喋り、役割も知らない聴診器を見様見真似で扱う。その時よく姉が使っていたのが注射器であった。注射器は幼い姉の右手に丁度合うサイズ感で、針の部分の太った見た目はボールペンのようであった。しかも姉は幼児がペンを持つ時と同じ持ち方をするので、余計にボールペンにみえた。姉が注射器を最も好きとする理由は先入観にある。三姉弟は実際の注射がとても嫌いで、予防接種の時は三人揃って行かなくても良くなる理由を考えていたものだ。しかも幼少期の妙にずる賢いこと。発熱さえすれば注射が出来ない朗報を仕入れた私たちは、何とか熱のなり方を模索した。それほど嫌いであった姉のことだから、病院といえば注射であるという印象は強くこびり付いていたことだろう。私が数ヶ月の入院生活を送ったあと、「何回注射打たれたの?」と聞かれるのは恒例であった。

 十歳になるとままごとセットは忘れられた。けれど私は在処を知っていた。部屋の引越し只中で、掘り出したままごとセットを「懐かしい」と抱え、新しい部屋の戸棚に仕舞うところを偶然目撃していた。今日確認すると、同じところにままごとセットは置かれて、随分大事に整頓されてたように思う。私はその中の注射器を盗んだ。


 半透明の檻に監禁されていながら私達へ懐くカブトムシ。私も神の信仰を嫌がりつつ神を信じる父親を好きでいるのだから、私と虫は互いに共感し合っている。しかしカブトムシは自由を知らないから、私達という鉛に抑えられようとも意に介さない。唯一分かり合えないのは、私は鉛のない身体を夢見から通じて妄想できてしまうところだ。監禁されていながら人間と違うのは、決して苦痛を知らないこと。晴れて私達から解放されようと、虫は喜びも泣きもしない。ただ私達の手元から離れ大空に飛び立った果てに、私達の視界から見えなくなるだけ。少し前まで手元にあった愛着に静かな喪失感を受けるのは我々人間だけである。それが分かっていながら人間は虫に愛着を持つ。それが監禁という束縛にしても、人は自らのエゴイズムで互いには運命などという繋がりがあると思い込む。そしてようやく、虫と人間は家族になるのだ。

 私はカブトムシの監禁されているケースを持ち、空気の循環する網目がついた緑の蓋を取り外した。中のカブトムシは飛び立つことを知らず、底面に敷かれた分厚い土の上にて休んでいる。カブトムシの角の先には小さな切り株が置かれ、まだ手をつけていない昆虫ゼリーが土も被っていない綺麗な状態で、切り株の側面、少し削られたところに設置されていた。飼い主の弟が取り替えたばかりなのだろう。そちらに目星をつけ、私は注射器の液体を流し入れた。玄関口の戸棚に仕舞われた、害虫駆除用の殺虫剤である。直ぐに死なれては私の儀式の準備の合間、害虫が更に増えるか弟の手で土に還されるかしてしまう予感がしたので、私は混入という形をとってカブトムシを殺そうとした。実態も知らぬ悪魔に捧げる死体が人である必要はない。体躯の一部を差し出す為に血を流す必要はない。それは早計で、寧ろ浅はかな信仰者に思われかねない。誰かの大切な命であればいい。奪うのはどれも罪なのだから。

 無色透明の液体はゼリーに紛れ、確かな殺意を持って身を隠す。カブトムシは目前に暗殺者が現れても知れず、暗殺者はゼリーの表面に浮かぶ光沢を更に光沢させて、カブトムシの命を蝕む瞬間を待ち伏せている。艶はあたかも誘惑に映ったが、肝心の弟は先程の姉と同様、無垢な寝息を立てて休んでいる。但し布団は床に投げ出され、筋肉の未熟な腹がめくれたパジャマの隙間から覗いている。彼は異変に気づくこと無さそうだったので、私は足音も忍ばせず部屋を去った。毒の塗られた注射器はダイニングのゴミ箱に捨てておいた。


 それから程なくして、カブトムシは私の部屋へ失踪した。命の尽きた髪とカブトムシは隣同士、手書きの逆さ十字に整列され、あとはこれごと燃やすだけである。悪魔は私に応える筈である。弟のカブトムシが逃げたと騒ぐ声が直前まで聞こえていたが——構わず火を点けた。

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