第9話「おっさんの背中」
昨夜の配信から、十五時間が経っていた。
核体の活性化閾値到達まで、残り約五十七時間。
午前十時。桐谷と宗方を繋いだ三者オンライン通話。
桐谷が口を開いた。
「昨夜の鑑定データを分析しました」
声が硬い。いつもの早口ではなく、一語一語を選んでいる。
「核体の活性化は、新たな階層の生成を意味する──これは昨夜の鑑定結果の通りです。ただ、階層が生成される過程で、既存の構造に負荷がかかる。最悪の場合──超深層の第1階から第4階が、構造崩壊を起こします」
崩壊。
「地上への影響は」
「ダンジョンの構造はダンジョン内部に閉じています。地上に直接崩壊が波及する可能性は低い。ただし、鳩山第七坑の洞窟入口付近で地盤の揺れが発生する可能性はゼロではありません。周辺住民への注意喚起は……必要かもしれません」
宗方が割り込んだ。
「管理局に報告は済んでいます。だが局内の意思決定は遅い。公式発表まで時間がかかります」
「入口付近に管理局の職員が駐留していると聞いたが」
「はい。監視のために二名。僕から退避の連絡は入れられます」
桐谷が画面越しに俺を見た。
「真壁さん、どうしますか」
どうするか。
選択肢は二つだ。
管理局の公式対応を待つ。それが安全で、手続き上は正しい。
だが、待っている間に時間が過ぎたら。
もう一つは──
「配信で伝える」
俺は言った。
「分かっていることだけを、正確に言う」
桐谷が言い淀んだ。
「それは……あたしたちの学術的な推測を含むことになります。間違っていたら、パニックを煽ったことになる」
「間違っていたら俺が責任を取る」
言い切った。
「だが黙っていて誰かが怪我をしたら、それは取り返しがつかない」
沈黙が落ちた。
桐谷がゆっくり頷いた。宗方も無言で頷いた。
* * *
午後二時。自宅のデスク。
配信を開始した。
今回はダンジョンの中ではない。自宅からの顔出し配信だ。
カメラに映る俺は、普段の作業着ではなくTシャツ姿。背景には段ボール箱と缶ビールの空き缶がちらっと見える。
生活感丸出しだが、取り繕う暇はない。
視聴者数。告知なしで、三十万人が集まっている。
「おっさん42です。今日は大事な話がある」
チャット欄が緊張の色に変わった。
「昨夜の配信で、超深層の最深部にダンジョン核──原初核体を発見した。それに俺が触れたことで、活性化プロセスが始まった。七十二時間以内に閾値に到達する」
データを画面に映す。鑑定結果のスクリーンショット。桐谷と整理した分析レポートの要約。
「活性化が何を意味するかは、まだ完全には分かっていない。だが、専門家の分析では、超深層内部の構造崩壊が起きる可能性がある。地上への直接的な影響は限定的だと考えられているが、鳩山第七坑の周辺にお住まいの方は、念のため自治体の情報に注意してほしい」
淡々と言った。
パニックを煽る言い方はしない。
事実だけを述べる。推測は推測と明言する。
「以上が現時点で分かっていることだ。俺にできるのは鑑定することだけだ。だから今から、もう一度超深層に潜る。核体を再鑑定して、活性化の正確な影響を確かめてくる」
配信を切らずに立ち上がった。
カメラはスマホホルダーに固定されたまま。
作業着に着替え、装備を背負い、車に乗る。
移動中も配信は続いている。車載カメラの映像と、チャット欄だけが画面に映っている。
チャットは静かだった。
冗談も茶化しもない。
三十万人が、黙って見ている。
* * *
鳩山第七坑。
洞窟の入口。
中継器のバッテリーを確認。第1階から第4階までの中継器は前回の探索時に配置済みだ。
超深層に入る。
一人だ。
今日は桐谷がチャットでナビゲーション。宗方が管理局のモニタリング回線も並行して監視している。
第1階。第2階。第3階。第4階。
マッピング済みのルートを進む。
だが、空気が違う。
壁面の発光苔が、前回より明るくなっている。脈動している。核体の活性化の影響が、上層にまで波及し始めているのか。
第5階。
巨大空洞。
核体が、見えた。
脈動が速い。昨夜の倍近い速度で、光が表面を走っている。
空洞全体が、かすかに振動していた。
【鑑定】を発動する。
『核体状態:活性化進行中
活性化閾値まで残り6%
活性化モード予測:空間拡張(新階層生成)
副次的影響:拡張過程で既存構造に不安定化が発生
超深層・第1階〜第4階に構造崩壊のリスクあり
崩壊予測範囲:超深層内部のみ
地上への直接的影響:限定的』
読み上げた。
全て、桐谷の分析通りだった。
崩壊は超深層の内部で起きる。地上への被害は限定的。
だが俺は今、その超深層の真っ只中にいる。
「超深層内の崩壊が予測される。地上への影響は限定的だが──」
言いかけた瞬間。
揺れた。
足元が、大きく揺れた。
天井の結晶体がいくつか落下し、地面に砕け散る。
破片が飛ぶ。ヘッドライトの光の中で、欠片がきらきら舞った。
予測より早い。
崩壊が、始まっている。
「超深層内の構造が崩壊を始めた。地上への影響は限定的だが、ダンジョン内にいる者は即時退避を」
配信のマイクに向かって言った。
宗方がチャットに打つ。
「ゼロ:入口付近の管理局職員に退避指示済み。外部は安全。真壁さん、帰還を」
「帰還する」
振り返り、走り始めた。
第5階から第4階への階段を駆け上がる。
第4階の通路が──歪んでいた。
壁面が波打つように変形している。天井から石が落ちてくる。
立ち止まって、【鑑定】。
「この通路の構造維持:残り約三分。左壁面に亀裂進行中。右側通路は構造的に健全」
右へ走る。
鑑定を連続で発動しながら、安全なルートを割り出す。
「この壁は三十秒後に崩落する」
「左の通路はまだ構造が保っている」
「天井の結晶体、落下まで十秒」
一歩ごとに、鑑定。一歩ごとに、判断。
息が上がる。
足が縺れる。
四十二歳の体に、全力疾走は堪える。
第3階。通路が半分崩れている。瓦礫を跨いで進む。
第2階。重力異常域が暴れている。床が傾き、壁が軋む。
鑑定。鑑定。鑑定。
情報だけが、俺を生かしている。
第1階。階段が見えた。
駆け上がる。
足が攣りそうだ。肺が燃えている。
通常階層に飛び出した。
第3層。第2層。第1層。
走って、走って、走った。
洞窟の入口から外に出た瞬間、膝から崩れた。
地面に倒れ込む。
夜空が見えた。
星が出ている。
息が荒い。全身が汗まみれだ。
生きている。
配信画面のカウンターが視界の隅に映っている。
百二十八万人。
百二十八万人が、今のこの瞬間を見ていた。
チャット欄が流れている。
速すぎて読めない。
だがその中に──一つ、短いコメントがあった。
俺は気づかなかった。
画面が小さくて、文字が多すぎて、見えなかった。
でも後からアーカイブを見返した人たちは、それに気づいた。
『お父さん、逃げて』
匿名のアカウント。アイコンなし。
たった一言。
俺はそれを知らないまま、夜空を見上げて、息を整えていた。
スマホに宗方からのDM。
「ゼロ:生還を確認。管理局職員も退避済み。被害報告なし。──よくやった」
俺は返信する気力もなく、地面に仰向けのまま目を閉じた。
核体の活性化は、まだ続いている。
超深層は崩壊したが、核体は止まっていない。
残り時間のカウントダウンは進んでいる。
だが今は──今だけは、息を吸わせてくれ。
夜風が、汗で冷えた体に沁みた。




