第3話「おっさん、世界初の超深層に潜る」
前回の配信から、三日が経った。
この三日間でやったことは、二つ。
一つは、装備の調達。
貯金を切り崩して、高耐久の探索用ブーツを買った。靴底の厚さが通常品の二倍ある。あとは予備バッテリー二本、圧縮携帯食料、水のパック五つ、救急キット、そして追加の簡易中継器を二台。
全部で十二万円。
三ヶ月分の生活費から、一ヶ月分が消えた。
もう一つは、配信の収益確認。
DunGo Liveの収益レポートを開いたら、投げ銭──いわゆるスパチャの総額が一万八千円になっていた。
正直、驚いた。
あの配信で、見知らぬ人間が金を投げてくれたのだ。
画面の向こうに、人がいる。
そのことが、妙に背中を押した。
誰かに見ていてもらえることが、これほど自分を動かすとは思わなかった。──ずいぶん長い間、そういうものがなかった気がする。
* * *
四月の夜。午後八時。
鳩山第七坑の洞窟入口に立っている。
今回は事前に配信の予定を告知していた。DunGo Liveの「予定配信」機能を、桐谷あかりという視聴者がチャットで教えてくれたのだ。
配信を開始する。
「おっさん42です。鳩山第七坑、三回目の配信。今夜は超深層に入ります」
視聴者数カウンター。
開始時点で、一万二千人。
チャット欄がすでに賑わっている。
「来たー!」
「おっさん待ってた」
「超深層ガチで潜るのか」
「装備大丈夫?」
見たところ、応援の声が多い。
ありがたいが、返している余裕はない。黙って洞窟に入った。
通常階層を抜け、第3層の行き止まりへ。
隔壁は前回開けたまま残っていた。下り階段の入口から、青緑色の光がぼんやりと漏れている。
壁面に手を触れて、【鑑定】。
表示は変わらない。「超深層隔壁・開放済み」。
一歩、踏み出す。
階段を降りる。
超深層・第1階。
前回は入口に立っただけだった。今日は、奥に進む。
空気が冷たい。
壁面を覆う発光苔が、通路全体を薄い青緑に染めている。ヘッドライトを消しても歩けそうなほど明るいが、消さない。視界の確保は安全の基本だ。
通路の幅が、通常階層とは段違いに広い。
両手を広げても壁に届かない。天井は高く、ライトの光が上端まで届いていない。
D級ダンジョンの窮屈な通路とは、まるで別の場所だ。
足音が反響する。自分の呼吸が聞こえる。
五十メートルほど進んだところで──止まった。
通路の先。
壁の影から、何かが見えた。
甲殻だ。
暗い茶色の、硬そうな殻。それが、ゆっくり動いている。
体長は二メートル近い。
カニとサソリを足して二で割ったような体型。六本の脚と、前方に突き出した二本の鎌状の腕。
D級の鼠型とは、比較にならない。
息を殺して、【鑑定】を発動した。
『深淵甲蟲
危険度:ランク制度適用外
弱点:腹部第三関節の殻が薄い
特性:音波感知型、視覚なし
行動パターン:静止物には反応しない』
ランク制度適用外。
予想はしていたが、実際に目の前にいると胃が縮む。
だが──情報は得た。
音波感知型。視覚なし。静止物には反応しない。
つまり、音を立てなければ気づかれない。
俺は口の中で情報を反芻しながら、チャット欄にちらりと目をやった。
コメントが止まっている。
一万人以上の視聴者が、息を呑んでいるのが分かる。
「……鑑定結果を読み上げる」
小声で言った。
声は出す。ただし可能な限り小さく。中継器を通じた配信音声が鑑定結果を伝える。
「深淵甲蟲、アビサルシェル。危険度はランク制度適用外。音波感知型で、視覚はない。静止物には反応しない」
読み上げた後、壁際にゆっくり体を寄せた。
ザックの中身が音を立てないよう、体を慎重に傾ける。
匍匐前進。
腹を地面につけて、壁に沿って進む。四十二歳の体に、この姿勢はきつい。膝が軋む。肘が痛い。
だが、アビサルシェルは動かない。
俺が音を立てない限り、こちらを認識しない。
壁と甲殻の間は、約一メートル。
一メートルの隙間を、息を止めて通り抜ける。
十秒。二十秒。
通過した。
その瞬間、チャット欄が爆発した。
「すげえ」
「おっさん肝据わりすぎ」
「匍匐で二メートルの化け物の横を抜けるとか正気か」
「鑑定なかったら詰んでたぞこれ」
「戦闘スキルゼロでこれは逆にヤバい」
俺は壁に背をつけて、息を整えた。
心臓がうるさい。手のひらが汗で滑っている。
だが、生きている。情報があれば、生きていける。
* * *
さらに進むと、通路が三つに分かれた。
左。中央。右。
どの道も奥は暗い。
俺は三つの通路の入口に立って、順番に【鑑定】をかけた。
壁面だけではない。空気そのものを対象にする。
【鑑定】は物質に限らず、空気や液体にも発動できる。ただし得られる情報は成分程度のことが多い。
左の通路。
「空気成分:微量の鉱物粉塵を含む。奥に鉱脈が存在する可能性」
中央の通路。
「空気成分:有機物の腐敗ガスを含有。生体群集域の可能性」
右の通路。
「空気成分:分析不能。未知の成分を検出」
三つの結果を、声に出して読み上げた。
チャット欄が議論を始める。
「左は鉱脈か。金になりそう」
「中央はモンスターの巣っぽいな」
「右の『分析不能』ってなんだよ」
「未知の成分ってことは、データベースにない=前例がないってこと」
俺は右を選んだ。
理由は単純だ。
分析不能。データベースにない。
つまり、誰もまだ記録していない場所だ。
二十年、鑑定をやってきた。
俺の仕事は、情報を読み取って記録することだ。
まだ誰も記録していないものがあるなら、そこに行く理由は十分だ。
「桐谷あかり:その判断、研究者として最高です」
チャット欄の端に、見覚えのあるアカウント名が流れた。
俺は少しだけ口の端を上げて、右の通路に足を踏み入れた。
* * *
右の通路は、百メートルほどで突然開けた。
巨大な空洞。
天井が、高い。見上げても上端が見えない。
ヘッドライトの光が届かない高さから、鍾乳石のように垂れ下がる結晶体が無数にぶら下がっている。
結晶体が発光している。
白と青と、わずかに紫。
それが空洞全体を星空のように照らしていた。
地面には、見たことのない植物が自生していた。
茎は半透明で、葉は発光結晶と同じ色をしている。高さは膝丈ほど。群生して、地面を覆い尽くしている。
俺は膝をついて、植物の一株に【鑑定】を発動した。
『名称:未記録
分類:未記録
特性:高濃度魔力を光合成に代替して生育
薬効:未検証だが細胞活性の示唆あり』
未記録。
名前すらない。
分類すらされていない。
こんな鑑定結果は、二十年で初めてだ。
次の株。
「名称:未記録。分類:未記録。特性:──」
次。
「名称:未記録──」
次も。その次も。
全部、未記録だった。
ここにあるもの全てが、人類の記録の外にある。
俺は立ち上がって、空洞を見渡した。
カメラは回っている。配信は続いている。
視界に映る全てが、未知だ。
「……鑑定結果を読み上げる。全部、未記録だ。名前もない。分類もない。既存のダンジョン学のどこにも、ここにあるものは載っていない」
淡々と読み上げた。
声が震えないように気をつけた。
興奮は、ある。二十年分の鑑定経験が、ここにきて初めて「前例のない」という言葉を連発している。
だが、ここで浮き足立ったら終わりだ。
情報を正確に読み取って、正確に伝える。それが俺の仕事だ。
チャット欄にURLが貼られた。
ニュースサイト「ダンジョンウォッチャー」の速報記事だ。
『D級ダンジョンに国内初の超深層確認か──個人探索者がリアルタイム配信中』
チャットが一段と速くなる。
視聴者数カウンター。
「27,000」。
「35,000」。
「47,000」。
四万七千人。
昨日まで誰も見向きもしなかったD級ダンジョンの奥を、四万七千人が見ている。
俺は空洞の中を一時間かけて歩き、目についたものに片端から【鑑定】をかけ続けた。
結晶体、苔、植物、地面の鉱物、空気中の粒子。
全て読み上げて、記録した。
二時間が経過した頃、予備バッテリーの残量が半分を切った。
携帯食料も水も減っている。
「装備の限界だ。今日はここまで」
宣言して、帰路についた。
チャット欄は名残惜しそうだったが、前回の「正しい判断」の空気を覚えている視聴者が多いのか、今回は引き止める声が少なかった。
超深層を抜け、通常階層を戻り、洞窟の外に出た。
夜風を吸い込む。肺が広がる。
全身が汗と土埃にまみれている。足の裏にマメができている気がする。
だが、ザックの中のスマホには、二時間分の鑑定データが残っている。
それだけで十分だ。
車に乗り込んで、エンジンをかけた。
スマホの通知を見る気力は、今はない。
明日確認すればいい。
──翌朝。
スマホを開いて、目を疑った。
DunBoardのトップに、新しいスレッドが立っていた。
『【朗報】帝央マグナス株価、前日比8%下落 超深層配信の影響か』
帝央マグナス。
俺を二十年雇って、退職金の代わりにD級ダンジョンを押し付けた会社。
その株価が、落ちている。
俺は画面を閉じて、コーヒーを淹れた。
湯気を眺めながら、考える。
超深層は本物だ。
そして、あの場所を読み解けるのは、今のところ俺の【鑑定】だけだ。
そのことの意味を、俺はまだ測りかねている。




