第三話 勇者様、魔王城からクレームです
王国歴四二三年。
深夜――魔王城、最上階。
昼間は魔族たちが忙しなく行き交う城内も、今は物音ひとつ聞こえない。
魔王はベッドへ巨体を沈め、ようやく訪れた静寂に息を吐いた。
今日も朝から幹部会議、各地の戦況確認、人間界侵攻に必要な予算の承認。午後には部下が持ち込んだ始末書の山まで待っていた。
世界征服というものは、思っていたより書類が多い。
「そろそろ……寝るか」
明日も朝から会議である。
勇者との決戦に備える以前に、まず睡眠時間を確保しなければならない。最近は魔王軍でも長時間労働に対する目が厳しく、魔王自ら規則を破るわけにもいかなかった。
布団を肩まで引き上げ、瞼を閉じる。
今夜こそは必ず八時間寝るのだ。
魔王はそう心に決めた。
ドゴォォォン!!
窓ガラスが震えた。
「…………」
聞かなかったことにした。
大丈夫だ。今のは遠い。ここは魔王城の最上階。多少の爆発音など、気にするほどのものではない。
魔王たる者、細かいことに腹を立ててはいけない。
ドゴォォォン!!
今度は天井から埃が落ちた。
「……二回目だぞ」
まだ耐えた。
布団を頭まで被る。
ドゴォォォン!!
「何なのだぁ、あの勇者はぁぁぁ!!」
布団が宙を舞った。
ベッドから跳ね起きた魔王は、窓辺まで大股で進むと、遠く離れた王都を睨みつけた。
勇者アキラ。
本来ならば聖剣を携え、仲間を集め、苦難を乗り越え、最終的にこの魔王城へ攻め込んでくるはずの存在である。
ところが、いつまで待っても来ない。
代わりに聞こえてくるのが爆発音だった。
しかも報告によれば、戦闘ではない。
料理である。
「余を倒しに来るなら来い! なぜ自炊で攻撃してくる!」
魔王が窓の向こうへ怒鳴った、そのとき。
寝室の扉が、ほんの少しだけ開いた。
「……パパ?」
魔王の肩が跳ねた。
静かに振り返る。
扉の隙間から顔を覗かせていたのは、パジャマ姿の愛娘だった。片腕にはお気に入りであるドラゴンのぬいぐるみを抱え、眠たそうに目を擦っている。
まずい。
今の怒鳴り声まで聞かれたかもしれない。
「ど、どうしたのだ? こんな時間に」
できる限り優しく声をかけたつもりだった。
「うるさくて……眠れないの」
愛娘が俯く。
その目元に浮かんだものを見つけた瞬間、魔王の中で何かが変わった。
愛娘を泣かせるのであれば話がまったく別である。
何も言わず、その小さく愛らしい頭を撫でた。
魔王には、こういうときのために四人ほど便利な部下がいる。
数分後――玉座の間。
深夜に叩き起こされた四天王が、玉座の前に並んでいた。
寝癖がついている者が一人。鎧の留め具を掛け違えている者が一人。残る二人はいつも通りの姿を保っているものの、眠気までは隠せていない。
「夜分遅くにすまんな」
「いえ! 魔王様の御命令とあらば!」
四人の声が綺麗に揃った。
魔王は満足げに頷く。
「うむ。では早速だが――勇者の件だ」
眠そうだった四人の顔つきが変わった。
「ついに動きましたか」
「我々に討伐の御命令を?」
「いや」
魔王は玉座に深く腰掛け、威厳たっぷりに告げた。
「静かにさせてこい」
「…………」
先ほどまで綺麗に揃っていた四天王が、今度は綺麗に黙った。
「……魔王様」
「なんだ」
「討伐ではなく?」
「うむ」
「勇者を?」
「うむ」
「静かに?」
「そう言っておる」
どうやら聞き間違いではなかったらしい。
四人が互いの顔を見合わせる。その視線だけで、言いたいことは十分伝わってきた。
魔王は腕を組み、先回りして答える。
「余の娘が眠れん」
四天王が黙った。
今度の沈黙は少し長かった。
「……承知いたしました」
やがて一人が頭を下げ、残る三人もそれに続く。
理由を聞いた以上、誰も逆らわなかった。
「では行け。今すぐにだ」
「はっ!」
四天王は揃って踵を返した。
その背中を見送りながら、魔王は一つだけ付け加える。
「ああ、それと――」
四人が振り返る。
魔王の姿を見た瞬間、全員の背筋が凍りついた。
「殺すなよ」
◆
翌朝――王都異世界転移者管理局・労務監査課。
アキラは椅子に座ったまま、机の上に置かれた一枚の紙を睨んでいた。
正確には、紙ではない。
請求書である。
「……高くない?」
「厨房を半壊させておいて、安く済むと思っていたんですか?」
向かいに座るミレイユは、いつも通り眼鏡の位置を直しながら書類へ目を落とす。
昨日の自炊訓練は失敗に終わった。
味噌汁を作る。
ただそれだけだったはずなのに、なぜか厨房が爆発した。
アキラとしても反省はしている。しているのだが、数字として突きつけられると反省とは別の感情が湧いてくる。
「これ、勇者割引とかないんですか?」
「ありません」
「世界救う予定なんですけど」
「その前に厨房を救ってください」
アキラが請求書を前に項垂れた、そのとき。
監査課の扉が三度、重々しく叩かれた。
ミレイユが顔を上げる。
「どうぞ」
扉から入ってきた四人を見て、アキラの表情が一変した。
黒を基調とした鎧。人間とは明らかに異なる気配。そして何より、四人とも隠すつもりすらないほど濃い魔力を纏っている。
アキラの手が反射的に聖剣へ伸びた。
「まさか……四天王!?」
「勇者様、局内で抜剣しないでください」
ミレイユからの指示でアキラは渋々、聖剣から手を離した。
一方の四天王は戦う素振りを見せない。それどころか、アキラとミレイユを前にして何やら居心地が悪そうだった。
やがて一人が前へ出る。
「勇者アキラだな」
「ああ」
アキラが椅子から立ち上がると、四天王も動いた。
四人揃って、一斉に頭を下げる。
「頼む。夜は静かにしてくれ」
「…………は?」
予想していた宣戦布告とは、ずいぶん違った。
「昨夜の爆発音で、魔王様の御息女が眠れなかった」
「魔王の娘?」
「そうだ。おかげで我々が深夜に叩き起こされた」
四天王の声には、戦場では決して出ないであろう疲労が滲んでいた。
アキラは助けを求めるようにミレイユを見る。
ミレイユはすでに新しい書類を一枚、机の上へ置いていた。
「勇者様」
「……はい」
「魔王城からクレームです」
アキラは、請求書の隣に増えた新たな問題を見つめた。
魔王討伐への道は、今日も遠かった。
◆
その夜。
昨日とは打って変わって、魔王城には静かな夜が戻っていた。
爆発音は聞こえない。窓も震えない。天井から埃が落ちてくることもない。
実に素晴らしい。
静寂とは、これほど尊いものだったのか。
魔王は愛娘の寝室をそっと覗き込んだ。
小さな身体を布団に包み、お気に入りのぬいぐるみを抱えた娘は、穏やかな寝息を立てている。
今夜は娘が眠れている。
魔王にとっては、それで十分だった。
「……よし」
満足して扉を閉めようとした、そのとき。
「パパぁ……今日の点数……」
魔王の手が止まる。
「む?」
起こしてしまったかと振り返ったが、娘の目は閉じたままだった。
「今日のパパ……百点……」
魔王は拳を握った。
「よしっ……!」
魔王はその数字を胸の中で噛みしめた。
人間界への侵攻が成功した日も、難攻不落と呼ばれた城を落とした日も、これほどの達成感があっただろうか。
いや、ない。
娘から百点をもらった。
それだけで今日は勝ちである。
自然と拳に力が入った。
「……全部、我々がやったのですが」
「……何もしてないのに」
「……全部、我々がやったのにな」
背後から、実に余計な声がした。
魔王は振り返らない。
「黙れ」
四天王全員がこう思った。
(ずるい……)
今夜くらいは、この勝利に浸らせてもらう。
なにせ明日の朝には、また会議と書類の山が待っている。
世界征服というものは、なかなか楽ではない。
End_is_Zéro_Project




