第9話 サウナを作りたいだけなのに
執務室の窓から差し込む午後の光が、大きな執務机に積まれた書類の束を明るく照らしていた。
「――以上が、バルデス伯爵をはじめとする内通貴族五家から没収した資産の総額です。領地の年間税収の約一年半に相当する莫大な流動資産に加え、宝飾品、美術品、そして隠し倉庫に溜め込まれていた高級食材の数々を国庫として押収しました」
机の斜め前に立つクロエが、淀みのない声で報告を締めくくった。彼女の手元には、複雑な資金の流れと資産の内訳が、一見して急所が掴めるほど完璧に整理されたレポートがまとめられている。
「ご苦労だった、クロエ。昨日の今日で、これだけ完璧に裏付けを取り、実権を掌握するとはな。お前の手腕にはいつも助けられる」
俺が率直な称賛を口にすると、クロエはそっと目を細め、胸元に手を当てて優雅に一礼した。
「勿体なきお言葉です、アルベルト様。私はただ、あなた様の平穏を脅かすノイズを処理し、あるべき場所へ資金を還流させたに過ぎません」
彼女の有能さは、すでに俺の想像を遥かに超えている。前世でこれほど優秀な部下が一人でもいれば、あの炎上プロジェクトもデスマーチになどならなかっただろう。
俺は満足げに頷き、そして、深く息を吐き出しながら首を回した。
ゴキリ、と鈍い音が執務室に響く。
「……素晴らしい成果だが。どうにも、俺の肩と腰が限界に近いな」
ここ数日、領地の負の遺産を清算するために机に向かいっぱなしだった。数字を追うのは苦ではないが、俺の極限まで鍛え上げられた筋肉の鎧は、長時間同じ姿勢でいることには向いていないらしい。背中から腰にかけて、鉛でも埋め込まれたような重い疲労感が張り付いている。
「アルベルト様。すぐにセシリアを呼びましょうか。彼女の治癒魔法であれば、その程度の疲労など一瞬で……」
「いや、いい。彼女の魔法は確かに完璧だが、あれはあくまで対症療法だ」
俺は片手で首筋を揉みほぐしながら、クロエの提案を制した。
「疲労が溜まってから魔法で強制的に回復させる、というサイクルを当たり前にしては駄目なんだ。それは結局、無理な労働を正当化する口実になりかねない。俺が求めているのは、日々の生活の中で自然に心身をリセットし、明日への活力を養うための『持続可能なインフラ』だ」
身体を騙し騙し使い続けた挙げ句に、ぷつりと糸が切れる最悪の結末を、俺は身をもって知っている。健康は、日常のメンテナンスの積み重ねでしか維持できないのだ。
「持続可能なインフラ……ですか」
「ああ。クロエ、今回の没収資産の一部を特別予算として計上してくれ。領都の第四区画と中心街の間に、デカい公衆浴場を作る」
「公衆浴場、でございますか? 確かに、領民の衛生状態を底上げするための施策としては理解できますが……」
クロエが僅かに首を傾げる。この世界にも湯浴みの習慣はあるが、それは貴族が自邸で楽しむか、平民が小さな共同の水場で泥を落とす程度のものだ。大規模な入浴施設という概念自体が一般的ではない。
「ただの風呂じゃない。広大な湯船に加えて、『サウナ』と『水風呂』、そして外の風を浴びて休めるスペースを併設する」
「サウナ……とは、どのようなものでしょうか」
「熱気浴の一種だ。密閉された部屋で石を熱し、そこに水をかけて蒸気を発生させる。室温を高めて一気に汗をかき、その直後に冷たい水風呂に浸かる。これを数回繰り返すんだ」
俺は身を乗り出し、真面目な声でサウナの効能を語り始めた。
「急激な温度変化は、血管の拡張と収縮を促し、血流を劇的に改善する。自律神経が整い、脳の疲労物質が洗い流され、深いリラックス状態――いわゆる『整う』という感覚を得られる。睡眠の質も格段に上がるはずだ。疲労は生産性の最大の敵だ。領民が日常的にこの施設を利用できれば、領地全体の労働効率は飛躍的に上がるだろう」
俺の論理的な説明を聞き終えたクロエは、瞳を大きく見開き、やがてその知的な唇に深い感嘆の笑みを浮かべた。
「……なるほど。表向きは娯楽と衛生の提供。しかしその実、アルベルト様がもたらす『極上の安らぎ』を、領民たちの肉体の深い部分に直接刻み込むのですね」
「ん?」
「労働の疲れを癒やすたびに、彼らはこの恵みを与えてくれたアルベルト様への忠誠を新たにする。いわば、肉体的な快楽を通じた完璧な思想的拠点の構築。さらに、その場にセシリアの医療ネットワークを連携させれば、領民の健康状態を隅々まで管理・掌握することが可能になります……。アルベルト様の、その遥か高みからの国家デザインには、空恐ろしさすら覚えますわ」
「……まあ、みんなが気持ちよく汗を流して健康になれば、それでいい」
俺が肩まで湯に浸かり、サウナで整ってスローライフを満喫したいだけだという本音は、彼女の壮大な解釈の前にそっと飲み込むことにした。
「承知いたしました。ただちに最高の職人を集め、巨大公衆浴場の設計に取り掛からせます」
「頼む。さて、今日の業務はここまでにしよう」
俺は椅子から立ち上がり、ジャケットを羽織った。
「頭を使ったら腹が減った。今日は俺が作る」
★★★★★★★★★★★
厨房は広く、磨き上げられた調理器具が整然と並んでいた。
俺がシャツの袖を捲り上げていると、背後から気配もなくライラが近づいてきた。
「アルベルト様。……ご飯、作ってくれるの?」
感情の読み取れない大きな瞳が、期待に微かに揺れている。暗殺者としての鋭さはどこへやら、すっかりこの館の食事に胃袋を掴まれているようだ。
「ああ。クロエが没収資産の倉庫から、使えそうな食材をこちらに回してくれたからな。いいものが揃っている」
俺は調理台に並べられた食材を確認した。
「南の太陽国エスパーダ産の鴨の生ハム。それと、半島国イタリカのトスカルナ地方で作られた熟成サラミか。あのバルデスというタヌキ親父、領民から搾り取った金でこんな極上品を溜め込んでいたとはな」
前世でたまに通っていた、気の置けないイタリアンバルのマスターがよく仕入れていたものに似ている。
俺は専用の薄刃包丁を手に取り、まずは鴨の生ハムに刃を入れた。
美しいルビー色の赤身を縁取るように、雪のように白い脂が乗っている。この脂の融点は低く、手の温度でも溶け出してしまうほど繊細だ。俺は極力肉に触れないよう、透けるほどの薄さにスライスし、冷やしておいた大皿に美しく並べていく。
続いて、トスカルナ産のサラミ。こちらは粗挽きの肉々しさと、熟成されたスパイスの香りが特徴だ。生ハムとは対照的に、肉の旨味をしっかり噛み締められるよう、少し厚めに切り分けた。
「次は温サラダだ」
フライパンに、南部の特産である上質なオリーブオイルをたっぷりと注ぐ。包丁の腹で潰したニンニクを入れ、極めて弱い火にかける。フツフツと小さな泡が立ち、厨房の空気にニンニクの甘く香ばしい香りが溶け出していく。
「……素晴らしい香りですわ」
いつの間にか、書類の整理を終えたクロエも厨房の入り口に立ち、興味深そうに俺の手元を見つめていた。
香りが十分にオイルに移ったところで、大きめに切り分けたブロッコリと、根元の筋を丁寧に剥いたアスパラガスを投入する。さらに、手で大きく裂いたマイタケとエリンギ、そしてヘタを取ったミニトマトを加えた。
火力を一気に強め、野菜の表面に鮮やかな焼き色をつける。ジュウッという小気味良い音が響く中、白ワインを回し入れ、すぐに蓋をした。
アルコールが飛び、立ち上る蒸気で野菜の芯までふっくらと火を通す。数十秒後、蓋を開けると、野菜たちの鮮烈な色彩と、立ち昇る大地の香りが弾けた。塩と粗挽き黒胡椒だけでシンプルに味を調え、深皿に盛り付ける。
「最後はパスタだ」
別のフライパンで、細切りにしたパンチェッタをじっくりと炒める。脂が透明になり、カリカリになったところで、ざく切りにした春キャベツを投入。キャベツがパンチェッタの旨味を吸い、しんなりとしたところで、今日一番の隠し味を取り出した。
東方諸国から伝来した、黄金色の混合香辛料――いわゆる、カレーパウダーだ。
それをフライパンに振り入れた瞬間、スパイシーで複雑な香りが爆発的に立ち昇った。
ライラが「んっ」と小さく声を漏らし、鼻をひくひくさせている。クロエも、初めて嗅ぐエキゾチックな香りに目を見張っていた。
隣の鍋でアルデンテに茹で上げたスパゲッティをフライパンへ移し、パスタの茹で汁を少量加えてフライパンを大きく煽る。オイルと水分が乳化し、とろりとしたスパイシーなソースが麺の一本一本に完璧に絡みついた。
「よし、完成だ。ダイニングに運んでくれ」
★★★★★★★★★★★
磨き上げられたダイニングテーブルに、三つの席を用意させた。
主の食事に部下を同席させるのは貴族の作法に反するが、ここは俺の領地であり、俺がルールだ。それに、一人で黙々と食べるよりも、美味いものを共有できる相手がいる方が、食事の時間は遥かに有意義なものになる。
「俺のプライベートな時間だ。堅苦しい作法は抜きにして、冷めないうちに食べてくれ」
俺がそう促すと、二人は少し戸惑いながらも席に着いた。
俺は、鴨の生ハムに合わせて開栓しておいたエスパーダ産の赤ワインをグラスに注ぐ。タンニンがしっかりとした、フルボディの重厚なワインだ。
「まずは、生ハムとサラミからだ」
クロエが優雅な手つきで鴨の生ハムを口に運ぶ。
その瞬間、彼女の知的な瞳が大きく見開かれた。
「……これは。舌の上に乗せただけで、上質な脂が溶け出していきます。鴨の野性味のある赤身の旨味を、脂の甘みが完璧に包み込んで……そこにこの赤ワインを合わせると、果実味が弾けて、全く別の料理に化けますわ」
クロエの的確すぎる食レポに、俺は苦笑した。
「バルデスのコレクションも、こういう使い方をされれば本望だろう」
一方、ライラはカレー風味のスパゲッティをフォークに巻きつけ、大きな一口で頬張っていた。
「……!」
普段はどこか遠くを見ているようなその瞳に、バチッと明確な光が灯る。スパイシーな香りが食欲を刺激し、キャベツの甘みとベーコンの塩気が絶妙なバランスで口の中に広がる。ライラは無言のまま、ものすごい速度でパスタを胃袋へと収めていく。
「ゆっくり食え、おかわりはまだある」
俺はライラのグラスに水を注ぎながら、自分も温サラダに手を伸ばした。
蒸し焼きにされたアスパラガスはシャキッとした歯ごたえを残し、噛むほどに甘い水分が溢れ出す。マイタケとエリンギはオリーブオイルとニンニクの旨味をたっぷりと吸い込み、ミニトマトの酸味が全体を見事に引き締めていた。
美味い。仕事の後に食べる、自分の思い通りに作った料理の味は格別だ。
三人の間に、言葉は多くはなかった。しかし、確かな満足感と安らぎが、ダイニングの空気を温かく満たしていた。
★★★★★★★★★★★
食後。
俺は自ら豆を挽き、丁寧にドリップしたコーヒーを三つのカップに注いだ。
深い苦味と芳醇な香りが、スパイスや肉の余韻をすっきりと洗い流してくれる。
カップを傾けながら、俺は窓の外の夜空を見上げた。
「さて、明日は公衆浴場の建設用地の選定と、セシリアへの衛生管理の相談だな」
「ええ。アルベルト様の構想される『領民掌握の拠点』の完成に向けて、私が完璧にプロジェクトを進行させてみせますわ」
クロエが、コーヒーの香りに目を細めながら、揺るぎない忠誠を声に乗せる。
「……私も、手伝う。アルベルト様がサウナでゆっくり寝られるように、邪魔な虫は全部掃除しておくから」
ライラも、空になったパスタ皿を前に、静かな決意を口にした。
二人の解釈は相変わらずどこか物騒な方向に振り切れているが、その有能さと、俺の平穏を守ろうとしてくれる真摯な思いは確かだ。
俺は苦笑を漏らしながら、温かいコーヒーを飲み干した。
「ああ、頼りにしているよ」
凝り固まった肩が、温かい食事とコーヒー、そして彼女たちとの時間のおかげで、少しだけ軽くなった気がした。巨大なサウナが完成する日が、今から待ち遠しい。
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