第8話 メイド長の社内清掃
執務室の窓から差し込む朝日が、分厚い絨毯の幾何学模様を鮮やかに浮かび上がらせていた。
昨日、西の国境に迫った三百の傭兵部隊を、クロエが単独で、しかも「定時内」に消し炭にした余韻は、領主の館には微塵も残っていない。俺はいつも通り十分な睡眠を取り、淹れたてのコーヒーの香りを楽しみながら、デスクに広げられた報告書に目を通していた。
「……なるほど。隣国のオズワルドが直接兵を動かしたわけではなく、あくまで『盗賊団』を偽装した傭兵くずれか」
俺が呟くと、デスクの斜め前に立つクロエが静かに頷いた。
「はい。捕縛した数名――正確には、灰にならずに済んだ幸運な者たちから引き出した情報によれば、オズワルドの貴族から多額の資金援助を受けていたとのことです」
「そして、その手引きをしたのが、我が領内にいる一部の貴族たちというわけだな」
俺は報告書の末尾に記載された、いくつかの名前に視線を落とした。
バルデス伯爵をはじめとする、旧体制で甘い汁を吸っていた連中だ。俺が税率を適正化し、労働環境の監査を厳しくしたことで、彼らの懐に入るはずだった「裏金」のルートは次々と断たれている。不満を抱くのは理解できるが、外患を招き入れるなど組織の末期症状だ。
「彼らの私兵とオズワルドの傭兵を合流させ、第四区画の居住区で暴動を偽装する。その混乱に乗じて、アルベルト様の治世を失墜させる算段だったようです」
クロエは淡々と事実を述べるが、そのダークトーンの肌を滑るように流れる魔力は、微かに怒りの熱を帯びていた。自分の主の平穏を、あろうことか内側から脅かそうとする者たちへの静かな殺意だ。
俺はカップを置き、小さく息を吐いた。
「どうにも、組織の風通しが悪い。一部の腐った果実が、全体に影響を及ぼし始めている。領内の環境を、もう少しクリーンにしないとな」
独り言のように漏らしたその言葉に、部屋の隅で静かに控えていたライラが、微かに肩を揺らした。
彼女は気怠げな足取りで俺のデスクに近づき、空になったコーヒーカップを銀のトレイに載せる。ぽってりとした唇は何も語らず、虚ろな大きな瞳が俺をじっと見つめてきた。
「どうした、ライラ」
「……ううん。カップ、下げておくね」
「ああ、頼む」
彼女が音もなく執務室を出て行くのを見送り、俺は再びクロエに向き直った。
「さて、裏切り者の処分については、後で文官たちに命じて彼らの資産状況を洗い出させるとして……クロエ」
「はい」
「昨日の働きは本当に見事だった。だが、緊急事態とはいえ、お前に一人で負担をかけすぎたな。今日は午後から、少し付き合え」
クロエの瞳が、僅かに見開かれた。
「付き合う、とは……?」
「街に出る。市場の物価や、第四区画の現状をこの目で見ておきたい。お前にはその案内を頼みたいんだが、構わないか?」
「……っ」
クロエは一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから、長いまつ毛を伏せて深く一礼した。
「喜んで、お供いたします」
その声がいつもより少しだけ上ずっていたことにも、俺は気に留めず、午前の残りの決裁処理に取り掛かった。
★★★★★★★★★★★
午後。
ルクセンブルク領都のメインストリートは、活気に満ちていた。
以前のような、重税に苦しむ領民たちの澱んだ空気はない。荷馬車が行き交い、露店からは焼きたてのパンや香辛料の匂いが漂っている。セシリアが主導する医療体制の改善もあってか、すれ違う人々の顔色は劇的に良くなっていた。
「税率の引き下げからまだ日が浅いというのに、市場の回復速度は想定以上だな」
俺は周囲の様子を眺めながら、隣を歩くクロエに声をかけた。
「はい。アルベルト様が余剰予算を惜しみなくインフラ整備に投資された結果、物流の速度が格段に向上しております。商人の数も、先月に比べて三割増しですわ」
クロエは、俺の半歩後ろを完璧な所作でついてきている。
彼女は今日、いつものかっちりとした秘書風の装いではなく、少し柔らかな素材のダークレッドのドレスを身に纏っていた。エキゾチックな顔立ちと相まって、すれ違う者が思わず振り返るほどの鮮烈な色気を放っている。
俺自身も、窮屈な貴族服ではなく、動きやすい黒のシャツの胸元を開け、革のコートを羽織っただけのラフな格好だ。
ただ、一つだけ問題があった。
俺たちが立ち止まったり、露店に目を向けたりするたびに、周囲の人間が弾かれたように道を空け、青ざめた顔で震え上がるのだ。
「ひっ……! 領主様だ……!」
「となりの女の人、とんでもない魔力を隠し持ってるぞ……。裏社会の幹部か何かか……?」
どうやら、俺の生まれつきの極悪な人相と、クロエの放つ強者のオーラが組み合わさった結果、街を散策しているだけなのに『マフィアのボスと、その愛人による恐怖の視察』にしか見えないらしい。
「……どうにも、まだ領民には怖がられているようだな」
俺が苦笑すると、クロエは冷ややかな視線で周囲の群衆を睨みつけた。
「愚かな民です。アルベルト様がどれほど彼らの生活を案じ、心血を注いでおられるか理解しようともしない。私が少し、彼らの目を覚まさせて差し上げましょうか」
「よせ。恐怖で縛り付けても、明日の活力には繋がらない」
俺は彼女の肩を軽く叩いて制した。
その瞬間、クロエの肩がビクッと跳ね、ダークトーンの頬に僅かに朱が差すのが見えた。
「クロエ。お前が俺の右腕として、現場を完璧に回してくれているからこそ、俺はこうして安心して街を見ることができる。感謝しているよ」
俺は本心からそう言った。
どれだけ立派な計画を立てようと、現場で形にしてくれる右腕がいなければ絵に描いた餅だ。知性と度胸、そしていざという時の圧倒的な腕力。クロエという存在の頼もしさを、俺は改めて噛み締めていた。
クロエは足を止め、俺を真っ直ぐに見上げた。
その瞳の奥には、かつて彼女を縛っていた人間への憎悪はなく、ただ純粋な、狂おしいほどの忠誠と熱が宿っていた。
「……勿体なきお言葉です。私はただ、アルベルト様が私に見出してくださった価値を、証明したいだけ。あなた様が望む『平穏』を阻むものは、私が全て、この手で排除してみせます」
「頼もしい限りだ。だが、無理はするな。倒れるまで根を詰めるのは禁止だ」
「ふふっ……承知しておりますわ」
俺たちは並んで歩き出し、少し離れた広場にある屋台で、串焼きの肉と果実水を買った。
店主は震えながら代金を受け取ろうとしなかったが、俺がきっちりと相場通りの銀貨を握らせると、信じられないものを見るような顔をしていた。
屋台の横のベンチに腰掛け、串焼きを口に運ぶ。
肉汁が溢れ、スパイスの香りが鼻を抜ける。
「美味いな。お前も冷めないうちに食え」
「……はい」
クロエは小さく口を開き、上品に肉を咀嚼した。
その横顔は、厄災の魔王として世界を滅ぼす運命にあった化け物には到底見えない。ただの、仕事の合間の休息を楽しむ、一人の美しい大人の女性だった。
俺は果実水で喉を潤しながら、空を見上げた。
この平和な時間が、一日でも長く続くように。そのためには、内部の膿は早急に出し切らなければならない。バルデス伯爵たちの資産凍結と捕縛の段取りを、帰ったらすぐに進めよう。
そう考えていた時だった。
★★★★★★★★★★★
時を同じくして。
領都の高級住宅街に位置する、バルデス伯爵の広大な館。
その厳重に警備された敷地内の廊下を、一人のメイドが音もなく歩いていた。
ライラだった。
彼女の足取りは、いつものように気怠げで、床を擦るようなアンニュイなものだ。しかし、彼女が通り過ぎた後には、完全武装した伯爵の私兵たちが、声一つ上げることもなく次々と床に崩れ落ちていく。
首筋に穿たれた、針のような極小の傷跡。それが彼らの命を奪った唯一の痕跡だった。
「……警備、多すぎ」
ライラはぽつりと呟き、メイド服の裾をわずかに持ち上げた。
そこに仕込まれた無数の暗器が、金属音を立てることなく彼女の指先に吸い込まれていく。
虚ろな瞳のまま、ライラは伯爵の執務室の重厚な扉の前に立った。
鍵穴に髪留めに偽装した細い針を差し込み、数秒で解錠する。
音もなく扉を開ける。
中では、豪奢な絹の部屋着から脂ぎった太い首を覗かせ、いくつもの宝石指輪で飾られた丸い手を激しく震わせながら、バルデス伯爵が書類を焼却炉に放り込んでいるところだった。丸々と肥え太ったその顔には、かつての傲慢さは微塵もなく、ただ凄惨な恐怖だけが張り付いている。
「急げ! オズワルドとの裏取引の証拠は全て燃やせ! あの悪魔のような領主の耳に入れば、我々は終わりだ!」
「は、はいっ!」
焦燥に駆られた男たちの背中を見つめながら、ライラは部屋の中へと足を踏み入れた。
「……もう、遅いよ」
掠れた、感情の乗らない声。
伯爵たちが弾かれたように振り返る。そこに立っていたのは、返り血一つ浴びていない、小柄なメイド服の少女だった。
「な、なんだ貴様は! どこから入った!」
側近の一人が剣を抜き、ライラに向かって斬りかかる。
だが、ライラは避けることすらしない。ただ、気怠げに右手を軽く振っただけだった。
銀の閃光が空気を切り裂く。
側近の男は、自分が何をされたのか理解する間もなく、喉から血飛沫を上げて崩れ落ちた。
「ひぃっ……!?」
「ば、化け物……!」
腰を抜かして這いずり逃げようとする伯爵を見下ろし、ライラはゆっくりと歩を進めた。
「アルベルト様が、風通しを良くしろって言ってた」
手の中で黒銀の短剣を弄びながら、彼女は退廃的な色気を帯びた瞳を細める。
「だから、窓も開けておくね」
彼女が指先を鳴らすと、執務室の巨大なガラス窓が、仕掛けられていた極小の魔力爆弾によって音を立てて粉砕された。
吹き込んでくる冷たい風が、燃えかけの書類を部屋中に撒き散らす。
「ま、待て! 金ならある! いくらでも払うから、助け――」
懇願する伯爵の額に、手裏剣のように放たれた短剣が深々と突き立てられた。
重い体を床に投げ出す伯爵を一瞥し、ライラは小さく息を吐いた。
「……これで、五件目。今日の清掃は、おしまい」
彼女は散らばった書類の中から、まだ燃えていない重要な証拠――オズワルドからの裏金に関する署名が入った契約書だけを的確に拾い上げ、メイド服のポケットにねじ込んだ。
血の匂いが充満する部屋を後にしながら、ライラは今日の夕食のメニューを考えていた。
「帰ったら、アルベルト様のために、温かいスープを作ろう」
彼女の足取りは、館に入った時よりも少しだけ、軽やかだった。
★★★★★★★★★★★
夕暮れ時。
領都の視察を終え、館に戻った俺を待っていたのは、信じられない報告だった。
「……バルデス伯爵をはじめとする、オズワルドと内通していた五つの貴族家が、全て壊滅しただと?」
執務室のデスクで、俺は眉間を深く揉みほぐした。
俺の目の前には、届いたばかりの急報を恐ろしい速度で読み解き、情報を構造化しているクロエが立っている。
「はい。文官たちの報告を総合すると、何者かが白昼堂々、厳重な警備を突破して各館に侵入し、当主と主要な側近のみを的確に暗殺した模様です。金品は一切奪われておらず、代わりに彼らの悪行を裏付ける物証だけが、机の上に綺麗に並べられていたと……」
クロエの言葉に、俺は天井を仰いだ。
内通者を法的に処罰し、資産を没収しようと考えていた矢先の、物理的な排除。
手際が良すぎる。それに、証拠だけを残していくという意図的な行動。
その時、音もなく執務室の扉が開き、ライラが入ってきた。
彼女は気怠げな足取りで俺のデスクに近づくと、メイド服のポケットから数枚の羊皮紙を取り出し、コトリと机の上に置いた。
それは、バルデス伯爵の署名が入った裏取引の契約書と、隠し口座の目録だった。
(……なるほどな)
今朝の俺の「クリーンにしたい」という言葉。あれを、彼女は比喩ではなく、文字通りの『清掃任務』として受け取ったのだ。
「ライラ」
俺が名前を呼ぶと、彼女は音もなく俺のデスクの前に進み出た。
「はい、アルベルト様」
「……少し、掃除の規模がデカかったんじゃないか?」
俺が苦笑交じりに問うと、ライラは虚ろな瞳を僅かに瞬かせた。
「ダメ、だった……?」
不安げに揺れるその声に、暗殺者としての冷酷さは微塵もない。ただ、主人の役に立ちたかったという不器用な忠誠心が透けて見えた。
俺は椅子から立ち上がり、彼女の頭にポンと手を置いた。
「いや、助かったよ。これだけの証拠が揃っていれば、彼らの領地と財産を全て国庫に組み込み、インフラ予算に回す正当な理由になる。完璧な清掃だった」
ライラは、撫でられた頭の感触を確かめるように、小さく目を細めた。
そして、ぽってりとした唇に、珍しく柔らかな微笑みを浮かべた。
「うん。……アルベルト様、お腹すいた? 今日は、温かいスープを作ったよ」
「ああ、頼む」
ライラがポケットから差し出してきた羊皮紙――伯爵の隠し口座の目録を改めて眺め、俺は苦笑した。
当主を失った派閥の解体と資産の差し押さえは、クロエと文官たちに任せればすぐに終わるだろう。
「……まあいい。これで明日の面倒な仕事が一つ減ったな」
俺はペンを置き、有能すぎるメイド長が作ってくれた温かいスープの湯気に、静かに目を細めた。
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