第7話 初めての領地防衛戦
執務室の大きな窓から差し込む西日が、重厚なマホガニーのデスクを黄金色に染め始めている。
デスクの上には、セシリアから提出された『領内衛生管理規定』の修正案が開かれていた。数日前の夜、彼女が引き起こした『強制帰宅事件』の事後処理と、今後の医療体制のガイドラインをまとめたものだ。
「……夜間労働の原則禁止と、例外規定の厳格化。それに伴う人員配置のローテーション案か。なるほど、理にかなっている」
俺は分厚い書類の束に目を通しながら、低く呟いた。
彼女の医療に対する熱意と才能は疑いようがない。だが、その熱意が暴走すればシステム全体が停止する。いかに優秀な人材であっても、独断専行による影響が予測不可能な状態は、組織として極めて不健全だ。だからこそ、権限の範囲と実行プロセスを明確に定義し、俺の決裁を必ず挟むフローを構築させたのだ。提出された企画書には、彼女の過激な思想がしっかりと実務的な運用レベルにまで落とし込まれていた。
「セシリアの奴、こちらの意図を正確に汲み取ったようだな。見事な修正案だ」
羽ペンを手に取り、決裁欄に滑らかなサインを書き込む。
これで本日の急ぎのタスクは全て完了だ。領内の腐敗を一掃し、適正な労働環境を構築するための基盤作りは、優秀な部下たちのおかげで想定以上にスムーズに進んでいる。俺は小さく息を吐き出し、ペンを置いた。
時計の針を確認する。時刻は十六時十五分。
「クロエ、今日の業務はここまでにするぞ。残りの書類は明日に回せ」
デスクの斜め前、定位置に控えていたクロエに声をかける。彼女はダークトーンの肌を西日に照らされながら、美しい手つきで資料を整理していた。
「承知いたしました、アルベルト様。本日の決裁書類は全て処理済みです。……明日のスケジュールも、比較的余裕がございます。ゆっくりとお休みくださいませ」
クロエが優雅に一礼する。
前世の記憶に刻まれた、終わりの見えないデスマーチ。それに比べれば、今の状況は奇跡のように正常だった。定時である十七時を迎える前に、机の上が綺麗に片付いている。誰もが本来あるべき「休息」に向かって準備を進められる状態。これこそが、俺が望んでいた平穏な日々の第一歩だ。
「ああ。お前も今日は定時で上がって、自分の時間を――」
俺がそう言いかけた、まさにその時だった。
バンッ! と、執務室の重厚な扉が乱暴に開かれた。
「閣下! 緊急事態であります!」
飛び込んできたのは、国境警備隊の若い伝令だった。埃と汗にまみれた革の胸当てを身につけ、肩を激しく上下させている。青ざめた顔で直立不動の姿勢をとりながらも、その目には明らかな焦燥が浮かんでいた。
俺は羽ペンを置き、椅子の背もたれからゆっくりと身を起こした。不機嫌な顔を作るつもりはなかったが、俺の生まれつきの極悪な顔立ちと、静かな怒りを孕んだ重低音の響きが、伝令の男をその場で竦み上がらせた。
「……報告しろ。簡潔にな」
「は、はい! 西の国境付近にて、大規模な武装集団の侵犯を確認! 警備隊の第一防衛線を突破し、現在、第四区画の居住区方面へ向けて進行中です!」
俺は小さく眉をひそめ、壁に掛けられた領地の地図に視線をやった。
「規模と進行速度は?」
「およそ三百! 全員が馬に乗っており、統制の取れた動きをしています。単なる盗賊ではなく、隣国オズワルドの息がかかった傭兵部隊かと……! このままの速度であれば、二時間後には第四区画に到達します!」
(三百の騎馬隊。二時間後か)
俺は瞬時に頭の中でリソースの計算を始めた。
最近のルクセンブルク領は、税率の適正化とインフラ整備により、急速に豊かになりつつある。その噂を聞きつけた隣国の貴族どもが、旨い汁を吸おうと野盗に偽装した部隊を差し向けてきたのだろう。よくある手口だ。
だが、問題はそこではない。
現在、西の国境付近で即応できる守備隊は五十程度。残りの部隊を領都から派遣し、陣形を整えて迎撃するには、どう足掻いても二時間以上かかる。
そうなれば、戦闘は確実に夜間にまでもつれ込む。
夜間戦闘は最悪だ。視界が制限されることで指揮系統が乱れ、同士討ちのリスクが高まる。照明用の魔石を大量に消費するコストの問題もあるが、何より、兵の身体的・精神的疲労が昼間の戦闘の比ではない。負傷者が増えれば、セシリアたちの医療チームにも徹夜の対応を強いることになる。
これから動員をかければ、確実に兵士や使用人全員に深夜までの残業を強いることになる。一度例外を許せば、なし崩しに残業が常態化してしまう。それだけは絶対に避けなければならない。
「……厄介だな。夜間の緊急動員は、人的リソースの損耗が激しすぎる。極力避けたいが」
俺が地図を睨みながら低く呟いた言葉に、クロエが静かに反応した。
「アルベルト様」
クロエが一歩、俺のデスクへと近づく。
彼女の深く知的な瞳には、冷ややかな、しかし確かな怒りの火が灯っていた。
「我が領の境界を侵すなど、愚か極まりない。ですが何より許し難いのは、アルベルト様が心血を注いで定めた完璧な『終業時刻』を、あの程度の羽虫の群れが乱そうとしている事実です」
クロエの声は静かだったが、その背後で大気が微かに震えるのを感じた。彼女の中に眠る、本来なら世界を滅ぼすほどの膨大な魔力が、主の平穏を脅かす存在に対する明確な殺意となって漏れ出しているのだ。
「クロエ。迎撃の算段は立つか」
俺は彼女の言葉を遮らず、真っ直ぐに問うた。
「正規の部隊を動かせば、後処理も含めて日付が変わるでしょう。……ですが」
クロエは、どこか恐ろしいほどに美しく妖艶な笑みを浮かべた。
「私が単独で出向くのであれば、話は別です」
「単独で、三百の騎馬隊を相手にするというのか」
「はい。アルベルト様の貴重なお時間を、一秒たりとも無駄に消費させるわけにはいきません。……現在、十六時二十分。定時の十七時までに、全て片付けてみせますわ」
彼女の言葉には、一片の迷いもなかった。
それは狂信者の妄言ではなく、己の処理能力と魔力量を完全に把握したプロフェッショナルとしての「タイムスケジュール」の提示だった。
俺は数秒だけ思考し、決断を下した。
「……わかった。許可する。この件は全てお前に一任しよう」
俺は彼女の目をしっかりと見据え、言葉に重みを持たせて告げた。
「だが、無茶はするなよ。敵の殲滅よりも、お前が無傷で戻ってくることの方が、この領地にとってはるかに重要だ。危険と判断したら、すぐに撤退しろ」
どんなに優秀な人材でも、使い潰してしまえば意味がない。俺にとって彼女は、すでに替えの効かない最高の右腕なのだから。
クロエの瞳が僅かに見開かれ、そして、蕩けるような熱を帯びて細められた。
「勿体なきお言葉。……必ずや、十七時前に戻ってまいります」
クロエが深く一礼した直後、彼女の足元に漆黒の転移魔法陣が展開し、その姿は執務室から影のように掻き消えた。
★★★★★★★★★★★
西の荒野。
乾燥した風が吹き抜け、枯れ草がカラカラと音を立てて転がっていく。
その荒野の真ん中に、たった一人、漆黒のドレスを纏った女が立っていた。
こんな場所にはひどく場違いなほど洗練された、妖艶な大人の女。
クロエの視線の先、地平線の彼方から、土煙がもうもうと立ち上り近づいてくるのが見えた。地響きを立てて迫り来る三百の騎馬隊だ。だが、彼女は微動だにせず、自身の左手首に巻かれた魔導時計に目を落とした。
「十六時四十分。……到着まで五分。想定より遅いですね」
クロエは心底退屈そうに、小さくため息をついた。
やがて、土煙の先に凶悪な集団の姿がはっきりと見え始めた。
先頭を疾走するのは、粗悪な鉄の胸当てを身につけ、血に汚れた大剣を高々と掲げた頭目の男だった。黒々と茂った不潔な髭の奥で、ギラついた目が下品な欲望に光っている。その背後には、野卑な怒号を上げながら荒々しく馬を駆る三百のならず者どもが、凶悪な津波となって押し寄せていた。
「ひゃはは! 聞いた通りだぜ、警備がザルじゃねえか!」
先頭を走る頭目の男が、下品な笑い声を上げる。
「ここ最近、あの悪徳領主が血迷って領民を甘やかしてるらしいからな! 警備隊も腑抜けになってやがる! このまま居住区に突っ込んで、金も女も根こそぎいただこうぜ!」
「オズワルドの旦那衆からの報酬も弾むだろうしな! 笑いが止まらねえ!」
欲に目が眩んだ男たちの怒号が響く。彼らは自分たちが圧倒的優位にあると信じて疑っていなかった。
しかし、前方の進路上にぽつんと立つ女の存在に気づくと、頭目は面白半分に馬をクロエの方へ向け、蹴散らそうとさらに加速した。
「おい、あぶねえぞ! 轢き殺されたいのか、女!」
頭目が叫ぶが、スピードを緩める気配はない。
クロエがゆっくりと顔を上げた。
「アルベルト様が、私の帰還をお待ちです。後処理と帰りの転移の時間を考えれば、ここでお前たちに割ける時間は、あと五分といったところですね」
その瞬間、頭目は本能的な恐怖に全身の毛を逆立てた。
女の瞳の奥底に広がる、圧倒的な「死」の深淵。それは人間が立ち向かえる類のものではなかった。
「な、なんだお前……!?」
「止まれ、などとは言いません」
クロエが右手を軽く持ち上げる。
それと同時に、彼女の背後の上空に、巨大な漆黒の魔法陣が幾重にも重なって展開し始めた。空間そのものが軋みを上げ、大気が悲鳴を上げるような轟音が荒野を揺るがす。
「魔法陣……!? ば、馬鹿な、無詠唱でこの規模を……!」
「退け! 退けえっ!!」
ようやく事態の異常性に気づいた盗賊たちが慌てて手綱を引くが、疾走する三百の騎馬が急に止まれるはずもない。大混乱に陥り、馬同士が衝突して落馬する者が続出する。
「焦熱の雨」
クロエが指先を、冷酷に振り下ろした。
上空に展開した魔法陣から、漆黒の炎を纏った無数の隕石が、文字通り雨のように降り注いだ。
それは、ただの広範囲殲滅魔法ではなかった。
クロエの魔法は、盗賊団の進行ルート、速度、そして密度を完璧に計算し尽くし、一切の無駄がないように制御された精密爆撃だった。
悲鳴を上げる間もなく、先頭から次々と業火に呑み込まれていく。周囲の地形や街道を必要以上に破壊しないよう、効果範囲は敵の陣形にのみ極限まで絞り込まれている。それは戦術というよりも、極めて冷徹な「業務処理」だった。
圧倒的な轟音と閃光。
そして、全てを焼き尽くす熱波が通り過ぎた後。
西の荒野には、焦げた土の匂いと、静寂だけが残った。
三百の盗賊団は、武器も、馬の骨すらも残さず、完全に灰塵と化していた。
クロエはドレスの裾に僅かについた土埃を軽く払い、再び手首の時計に目を落とす。
「十六時五十五分。……少し火力が強すぎたでしょうか。まあ、定時には十分に間に合いましたね」
彼女は満足そうに微笑むと、再び足元に転移魔法陣を展開し、その場から姿を消した。
★★★★★★★★★★★
十七時ちょうど。
執務室の窓辺に立っていた俺は、遠く西の空で閃いた黒い光の余韻を感じながら、事態の収束を悟っていた。
音もなく扉が開き、クロエが入ってくる。
その足取りは普段通り優雅で、呼吸一つ乱れていない。ドレスに汚れ一つなく、まるで隣の部屋へ書類を取りに行っていたかのような涼しい顔だ。
「アルベルト様、ご報告いたします。西の国境を侵犯した武装集団およそ三百、全て排除完了いたしました。領地および領民への被害はゼロ。街道の損傷も最小限に抑えております」
「……見事だ」
俺は心からの称賛を口にした。
「あれだけの規模の敵を、地形の被害を抑えつつ、指定された時間内に単独で処理する。魔法の威力もさることながら、お前のそのタイムマネジメントとタスク遂行能力には舌を巻くよ。俺の目に狂いはなかった」
武力だけなら、ただの暴力だ。だが、彼女は明確に「コストと時間」を計算し、最高のパフォーマンスで結果を出した。有能な右腕として、これほど頼もしい存在はない。
俺の言葉に、クロエは深く一礼した。
顔は伏せられていたが、その肩が微かに、歓喜に震えているのがわかった。
「身に余るお言葉です。全ては、アルベルト様が私に価値を見出し、この力を正しく振るう機会を与えてくださったからです。……あなた様の平穏を脅かすノイズは、今後も私が全て、定時内に排除してみせますわ」
「頼りにしてるよ。だが、無理だけはしないようにな」
俺がそう言ってデスクの上の書類を完全に片付け終えた時、領都に十七時を告げる鐘の音が響き渡った。
「よし、上がろう。今日の夕食は何だったか」
俺は椅子から立ち上がり、ジャケットを羽織りながら尋ねた。
「本日はライラ殿が腕を振るったオムライスと伺っておりますわ」
クロエが、完璧な秘書の顔で微笑んで答える。
「ほう、それは楽しみだな。お前も早く帰って、ゆっくり休め。これ以上の仕事は禁止だ」
「……はい、アルベルト様」
俺は、忠誠と熱を帯びた瞳で見送る彼女に背を向け、定時の鐘の音を背に、平穏な夕食へと足を進めた。
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