第10話 不死の泉の完成
領都の郊外へと向かう馬車の中には、心地よい沈黙が落ちていた。
サスペンションの効いた特注の馬車は、石畳の凹凸をほとんど拾わない。インフラ整備の予算が正しく現場に落ちるようになった結果、主要道路の舗装はこの数週間で見違えるほどに改善されていた。
「休日の視察に付き合わせてすまないな、セシリア。だが、医療と衛生の統括であるお前の最終確認を、稼働前にどうしても済ませておきたかった」
向かいの席に座る彼女に向けて、俺は静かに声をかけた。
今日のセシリアは、普段の純白の白衣姿ではない。美しい鎖骨と長い首筋を惜しげもなく晒す、淡いブルーのサマードレスを纏っていた。ボディラインにしなやかに沿う上質なシルクが、彼女のトップモデルのような長身とグラマラスなプロポーションを見事に引き立てている。ふんわりと巻かれたゴージャスなブロンドからは、いつもより少し甘い、花の香水が漂っていた。
「とんでもございませんわ、アルベルト様。休日であろうと、あなた様と行動を共にし、そのお身体の安全を確認することこそが私の最優先業務ですもの」
セシリアは透き通るようなブルーの瞳を細め、蕩けるような微笑みを浮かべた。
言葉は生真面目な産業医のそれだが、組まれた長い脚をわずかに組み替え、俺の視線を意識するようなその仕草には、隠しきれない大人の女の色気と熱が滲んでいる。
「香水を変えたか? よく似合っている。涼しげで、今日の晴天に合う香りだ」
「……っ」
俺が率直に告げると、セシリアの白い頬にパッと朱が差した。
「あ、ありがとうございます……。その、アルベルト様の隣を歩くのに、相応しい装いをと思いまして……」
「完璧だ。エスコートのし甲斐がある」
俺は短く応え、窓の外へ視線を移した。
プロジェクトの成功には、メンバーのモチベーション管理が不可欠だ。ましてや彼女は、自らの休日を潰して俺の思いつきに付き合ってくれている。その労力と気遣いに対する敬意は、言葉にして正しく伝えるべきだ。
やがて、馬車は広大な敷地の前に停車した。
「到着しましたわ、アルベルト様」
馬車を降りた俺たちの目の前にそびえ立っていたのは、第四区画と中心街の境界に建設された、巨大な公衆浴場だった。
クロエに予算と設計を丸投げして数週間。完成したそれは、俺が想像していた「スーパー銭湯」の枠を遥かに超えていた。白亜の石材を基調とし、周囲の景観と見事に調和した洗練されたデザイン。過剰な装飾を排し、機能美と清潔感を極限まで高めたその外観は、まるで古代の神殿のようだ。
「見事なものだ。動線設計も素晴らしい。エントランスから更衣室、浴場への流れが、客同士が交差しないように計算されている。清掃の効率も良さそうだ」
俺が入り口の構造を見極めて評価すると、セシリアは誇らしげに頷いた。
「はい。クロエ殿の指揮のもと、衛生面には一切の妥協を許さずに建設されました。ですが、この施設の真髄はそこではありませんわ。こちらへ」
貸切状態となっている施設内を、セシリアの案内で進む。
広大な大浴場には、温度の違う複数の湯船が配置されていた。高い天井からは陽光が差し込み、湯気に乱反射して幻想的な空間を作り出している。
「アルベルト様から『領民が日常的に心身をリセットできるインフラ』という構想を伺った後、私は地下の源泉汲み上げポンプに、特殊な魔導具を設置いたしました」
セシリアが浴槽の縁に手を触れると、透明な湯の中に微かな青い光の粒子が舞った。
「私の治癒魔法を極限まで薄め、常時展開させる術式です。この湯に十分間ほど浸かるだけで、細胞が活性化し、日々の労働による筋疲労や関節痛、そして軽度の切り傷などは自動的に修復されます」
俺は少し驚いてセシリアを見た。
「常時展開だと? お前の魔力リソースを圧迫しないのか」
「ご心配には及びませんわ。魔石を動力源とする自動循環システムを構築しましたので、私自身の負担はゼロです。むしろ、日々の些細な怪我や病気の初期症状をこの施設で潰せるため、病院側の負担は劇的に減ります」
「……なるほど。予防医療の自動化か。素晴らしい」
俺は心からの称賛を口にした。
個別の治療ではなく、環境そのものに治癒を組み込む。これなら、彼女が夜な夜な巨大な注射器を持って歓楽街を徘徊し、領民を強制睡眠させるような暴走も起きない。全体の健康レベルを底上げし、医療リソースを本当に必要な重症患者に集中できる理想的なシステムだ。
「これでお前の業務負担も減り、ゆっくり休む時間が増えるな」
俺の言葉に、セシリアのブルーの瞳が大きく揺らいだ。彼女は胸元で両手を組み、祈るように俺を見つめる。
「アルベルト様……。あなた様はいつも、はるか高みから私の健康まで見守ってくださるのですね。このシステムは、あなた様の深い慈悲があってこそ完成したものです」
「俺はただ、俺がゆっくり風呂に入りたかっただけだ。……さあ、講釈はこれくらいにして、実際に試してみよう。VIPルームの準備はできているな?」
「はい。こちらへ」
★★★★★★★★★★★
最上階に設けられたVIP専用の浴室は、さらに洗練された空間だった。
俺たちは専用の薄手の湯着に着替え、目当ての場所――『サウナ室』へと足を踏み入れた。
重厚な木の扉を開けると、乾燥した熱気が全身を包み込む。中央には焼け焦げたような熱を持つサウナストーンが積まれ、仄暗い室内には白樺の香りが漂っていた。
「これが……熱気浴、ですか」
セシリアが隣の木製ベンチに腰掛けながら、少し息を弾ませた。湯着の上からでもわかる彼女の豊かな胸元が、熱気にあてられて小さく上下している。白い肌には早くも薄っすらと汗が滲み、色気を増していた。
俺はサウナストーンの前に立ち、桶に用意されていたアロマ水を柄杓ですくい上げた。
「ロウリュウという。急激に蒸気を発生させ、体感温度を上げるんだ」
ジュウゥゥゥッ! という心地よい悲鳴のような音と共に、純白の蒸気が一気に立ち上り、白樺の香りを乗せた熱風が室内に充満していく。
俺はベンチに深く腰掛け、目を閉じた。
過労で倒れた前世の教訓から徹底的に鍛え直したこの肉体に、容赦ない熱が染み込んでいく。
「ふぅ……」
重低音の吐息が漏れる。脳内のノイズが熱によって焼き切られ、思考が極限までクリアになっていく感覚。これだ。この容赦のない熱こそが、仕事のプレッシャーを物理的に洗い流してくれる。
「アルベルト様……っ」
隣から聞こえた艶っぽい声に視線を向ける。
セシリアは熱さに耐えるように目を閉じ、自身の両腕を抱きしめていた。汗で肌に張り付いた湯着が、彼女の息を呑むようなボディラインをいやらしく浮き彫りにしている。
「無理はするな。息苦しくなったらすぐに出ろ」
「いいえ……大丈夫、です。不思議ですね。こんなにも過酷な熱さなのに……身体の内側から、淀んだものが全て汗と一緒に流れ出ていくようです。それに……」
セシリアは潤んだ瞳を開き、俺の汗に濡れた身体を真っ直ぐに見つめた。
「アルベルト様の細胞が、歓喜の声を上げているのがわかります。極度の緊張状態から解放され、本来の力強いバイオリズムを取り戻していく……素晴らしい、本当に素晴らしい医療器具ですわ」
十分間ほど蒸された後、俺たちはサウナ室を出て、隣接する水風呂に肩まで浸かった。
熱された肉体が、冷たい水によって一気に引き締められる。血管が収縮し、心臓が力強い鼓動を刻む。
そして最後は、夜風が吹き抜ける外気浴スペースのベンチへ。
俺はベンチに深く身を預け、目を閉じた。
血液が全身を駆け巡り、脳に心地よい痺れが広がる。重力から解放されたような浮遊感。至高の『整い』だった。
横のベンチでは、セシリアもまた、恍惚とした表情で夜空を見上げていた。
「見事だ。俺が思い描いていた通りの施設になった。……セシリア、お前の術式も申し分なく機能している。肩の鉛が取れたようだ」
俺が静かに言うと、セシリアはベンチから身を起こし、俺の隣へと移動してきた。
「……筋肉の強張りが、嘘のように消えています。アルベルト様を苛んでいた疲労が、完全に消毒されましたわ」
彼女の冷たい指先の感触と、吐息が届くほどの距離の近さ。
「お前のおかげだ、セシリア」
俺は彼女から目を逸らさず、その言葉の重みを真っ直ぐに伝えた。
「お前が俺の理念を理解し、この領地の医療を根底から支えてくれているからこそ、俺はこうして安らかな時間を得ることができた。お前という有能な存在がいなければ、俺の平穏は成り立たない。心から感謝しているよ」
セシリアの息が、ピタリと止まった。
普段は狂気的なまでの愛情を隠さない彼女だが、自らがもたらした『実績』と『存在』そのものを、これほど真っ直ぐに全肯定されるとは思っていなかったのだろう。その美しいブルーの瞳に、陶酔しきった熱い光がみるみると満ちていく。
セシリアは俺の首元に触れていた両手をゆっくりと滑らせ、俺の大きな手を、熱を帯びた自身の両手で大切に包み込んだ。
「……ああ、アルベルト様。私のすべては、この命も、私の持つ魔法のすべては……ただ、あなた様の安らかなる眠りと、平穏な日々のために。これからも、お傍でお守りし続けますわ」
彼女の瞳から、一筋の美しい涙がこぼれ落ちる。
それは悲しみではなく、至上の主への甘やかな狂熱と、深い愛に濡れた、純粋な滴だった。
「これからは、お前自身もしっかりここで疲れを癒やすんだぞ。無理は禁物だ」
「はい……はい、アルベルト様」
熱を帯びたブルーの瞳を潤ませながら、セシリアはいつまでも、俺の手をその両手で包み込んでいた。
★★★★★★★★★★★
その巨大公衆浴場――領民たちの間でいつしか『不死の泉』と呼ばれるようになった施設が一般開放されてから、数週間後。
ルクセンブルク領内の労働生産性は、過去類を見ない数値を叩き出していた。
長年の重労働で腰や膝を壊していた労働者たちは、湯に浸かるだけで全盛期の肉体を取り戻し、流行病の兆候は一晩で消え去る。心身ともに極限まで健康になった領民たちは、ルクセンブルクの領主への感謝を原動力に、恐ろしいほどの効率で各産業を回し始めた。
だが、その平和な内政の成果は、国境を越えた他国には全く別の形で伝わっていた。
隣国・オズワルドの王城。
薄暗く、冷たい石造りの謁見の間。床に膝を突き、額をこすりつけるようにして、黒装束に身を包んだ神経質そうな細身の男――諜報部隊の長が、震える声で報告を行っていた。
「ほ、報告いたします! ルクセンブルク領にて、未知の魔導施設が稼働を開始しました! 民草の間では『不死の泉』と呼ばれており……なんと、どんな負傷や病を負っても、あの湯に浸かれば一瞬にして全快するとのことです!」
「なんだと……!?」
豪華な毛皮のついた重厚な王衣をまとい、白髪混じりの髭を蓄えたオズワルド国王が、その豊かな体躯を震わせ、顔面を蒼白にして立ち上がった。その震える手からは、彼らの拠り所であるはずの黄金の王笏が、今にも滑り落ちそうになっていた。
「つまり、ルクセンブルクの兵士たちは、事実上の『不死身』になったということか!? 一度死地に赴いても、あの泉に戻れば再び無傷で戦線に復帰する……そんな馬鹿なことがあってたまるか!」
「間違いありません! すでに領内の労働者たちの動きが、人間の限界を超えています! あの悪魔のような領主は、完全無欠の『不死の軍団』を創り上げたのです! このままでは、我が国など数日で地図から消し飛びます!」
謁見の間は、絶望的な沈黙に包まれた。
「……国境の警備を三倍に増やせ。そして、ルクセンブルクへの一切の干渉を禁ずる。あの男の機嫌を損ねれば、我々に明日はないぞ……!」
★★★★★★★★★★★
「――というわけで、隣国オズワルドをはじめとする周辺諸国が、国境を完全に封鎖し、我が領への不可侵を決定したようです。……彼らもようやく、アルベルト様の神算鬼謀、その圧倒的な軍事的優位性に気づき、恐怖に震え上がったのでしょう」
執務室のデスク。
クロエが上がってきたばかりの外交レポートを読み上げ、美しく妖艶な笑みを深めた。
「……ただの銭湯なんだがな」
俺は淹れたてのコーヒーを啜りながら、呆れ半分に呟いた。
肩こりを治し、領民の健康を維持するための福利厚生施設が、どういうわけか「無限再生する不死の軍団の拠点」として他国を震え上がらせているらしい。
まあ、結果として外敵からのちょっかいが減り、俺の仕事(残業)が減るなら、彼らがどう勘違いしようと知ったことではない。
「セシリア殿の魔法をインフラに組み込むという、アルベルト様の常識を破壊する発想。これで我が領の地盤は盤石なものとなりました。……さあ、次はどのような一手を打たれますか、我が王?」
クロエが、期待に満ちた熱い眼差しを向けてくる。
「次の一手か……」
俺は窓の外、活気に満ちた領都を見下ろした。
借金や負の遺産は粗方片付いた。優秀な秘書と、狂信的な産業医と、最強の護衛も手に入れた。俺のスローライフの基盤となる、最初期の『起業』のフェーズは終わったのだ。
「予算が余り始めている。税金対策として、次は経済を回すぞ。……まずは、使い切れないほどの予算を緻密に運用できる『財務の専門家』を探すとしよう」
俺が前世の知識を引っ張り出しながらそう告げると、クロエは恭しく一礼した。
極悪領主による、平穏な休息を守るための終わらない改革。
使い切れないほどの余剰予算を抱えた俺たちの前に、新たな『嵐』の予感が静かに近づきつつあった。
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