第11話 予算は全部使い切れ
執務室の分厚い絨毯の上を、金色の毛玉が転がるように走っていく。
「ふむ……少しずつ大きくなってきたな」
俺は手に持っていた革製のボールを軽く放り投げた。
毛玉――ゴールデンレトリバーの子犬によく似た姿をした魔獣の幼体は、短い脚を懸命に動かしてボールに飛びつき、誇らしげに咥えて戻ってくる。ふさふさとした黄金色の毛並みと、垂れた耳、そしてつぶらな瞳。この世界特有の微弱な魔力を帯びている証拠に、尻尾の先が僅かに淡い光を放っていた。
数日前、領内の森で迷子になっていたところを視察中に見つけ、保護したのだ。親の姿はなく、俺の極悪な顔を見ても怯えるどころか足元にじゃれついてきたため、館で引き取ることにした。名前は『ブラン』と名付けた。
ブランがボールを俺の膝に押し付けてくる。その頭をゆっくりと撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めて喉を鳴らした。この柔らかな体温と無垢な信頼は、激務だった前世では決して得られなかった類の癒やしだ。
「アルベルト様。おはようございます」
静かなノックと共に、クロエが執務室に入ってきた。
今日の彼女は、深いネイビーブルーのタイトなドレスを身に纏っている。手には、美しく整理された数冊のファイル。彼女が歩み寄るたび、微かに香る高価な香水が執務室の空気を引き締める。
「おはよう、クロエ。ブラン、少し待っていてくれ」
俺が声をかけると、ブランは賢く足元でお座りをした。クロエはそんなブランに優しく微笑みかけ、それから俺のデスクの斜め前へと視線を戻し、真剣な表情に切り替わった。
「月次の財務報告がまとまりました。ご確認をお願いします」
差し出されたファイルを開く。
最初の数ページに目を通しただけで、俺は思わず、読んでいたファイルを机の上にそっと戻し、天井を仰いだ。
「……数字の桁が、一つ間違っていないか?」
「いえ、全て正確な実数です。先日稼働を開始した『不死の泉』ですが、利用者の増加に伴い、周辺の商業施設や宿屋の売上が爆発的に伸びています。さらに、領民の健康状態が劇的に改善されたことで、各産業の生産効率が先月比で百五十パーセントを超えました。結果として、領の税収は想定を遥かに上回るペースで膨れ上がっています」
クロエは淀みない声で、現状の圧倒的な好景気を説明した。
喜ばしいことだ。領地が豊かになれば、それだけ領民の生活は安定し、反乱の火種は遠のく。
だが、経営の観点から見れば、手放しで喜べる状況ではなかった。
「利益が余りすぎているな」
俺は静かに息を吐いた。
「これだけの莫大な余剰資金を国庫に眠らせておくのは、極めて不健全だ。資金の滞留は、必ずどこかで組織の腐敗を招く。それに、これほど不自然に利益を上げていると知られれば、王家や他国の貴族から無用な干渉――例えば、法外な上納金の要求などを受けかねない。俺の平穏な生活を脅かすリスクは、芽のうちに摘んでおく必要がある」
前世でも、期末に予算が余れば、税金対策や次期への投資として計画的に使い切るのが鉄則だった。
「クロエ。この余剰予算、今年度中に全て使い切る方向で計画を立ててくれ」
俺がそう告げると、有能なクロエであっても僅かに目を瞠った。
「全て、ですか? これほどの莫大な資金を、短期間で……。インフラ整備や医療への追加投資を行うにしても、現在の文官たちだけでは、資金の動きを正確に管理しきれず、逆に現場の混乱を招く恐れがあります」
彼女の懸念はもっともだった。クロエ一人に領地の管理から財務のすべてまで負担させるのは、それこそ過労の原因になる。
「だからこそ、新しい人材が必要だ」
俺は椅子から立ち上がり、壁に掛けられた大陸の地図へと視線を向けた。
「実は、先日君が集めてくれた各商会の公式な財務諸表の中に、一つ興味深いものがあった。大陸でも有数の規模を誇る『ガレリア商会』のデータだ」
俺は地図上の、領都から少し離れた商業区を指した。
「放漫経営の噂が絶えないにもかかわらず、この公式報告書の数字は不自然なほど美しく整えられている。裏で凄まじい資金繰りと帳尻合わせを行い、組織をギリギリで支えている優秀な頭脳が隠れているはずだ」
ゲームの記憶が、一人の少女の顔を弾き出していた。中盤の勇者パーティーを資金不足のどん底に叩き落とした、あの強欲な『黄金の魔女』。……だが、俺の記憶が確かなら、この時期の彼女はまだ、無能な実家で泥水を啜らされているはずだ。今なら、極めて安値で買い叩ける。
「ガレリア商会へ、正式に『投資と業務提携の相談』として訪問を申し入れよう。クロエ、同行を頼めるか」
「承知いたしました。ただちに出立の準備と、アポイントメントの手配を」
クロエが深く一礼し、踵を返す。
俺は足元で見上げてくるブランの首筋をもう一度撫でてから、外出用のジャケットを羽織った。
★★★★★★★★★★★
領都の中心部から少し離れた、巨大な倉庫群が立ち並ぶ商業区。
その一角に構えられた『ガレリア商会』の豪奢な本店は、活気に満ちていた。
俺とクロエが正面玄関から堂々と足を踏み入れると、商会の従業員たちは俺の生まれ持った威圧感と、クロエの放つ尋常ではないオーラに圧倒され、青ざめた顔で道を開けた。
すぐに案内の者が飛んできて、俺たちは最上階にある最も豪華な応接室へと通された。
高級な革張りのソファに腰を下ろし、出された茶を一口飲んだところで、重厚な扉が開いた。
「お待たせいたしました、ルクセンブルク領主閣下! 本日は我が商会へ足をお運びいただき、大変光栄に存じます!」
突然、不快な足音を立てて男が現れた。身体に合っていない派手な絹の服からは、贅肉でタプタプとした太い首が覗き、その指先はいくつもの下品に輝く宝石の指輪で飾られている。脂ぎった顔を傲慢に歪め、揉み手をして近づいてきたのは、ガレリア商会の次期会頭と目されている男だった。
「本日は我が商会へのご投資をご検討とのこと。夜には極上の宴席もご用意しておりますゆえ――」
男が的外れな接待の文句を並べ立てる中、俺の視線は、彼の一歩後ろに控えて立っている人物に釘付けになっていた。
艶やかなダークトーンの長い髪。一歩引いて分厚い資料を抱えていても、タイトなパンツスーツの上からではっきりと分かる、しなやかで完璧なプロポーション。特に、スーツのスリットから覗くその脚は、誰もが目を奪われるほどに長く、驚くほど美しいラインを描いていた。
アジアンビューティーと評すべき、涼しげで切れ長な瞳。K-POPアイドルのような華やかさと、挑発的な色気を併せ持つその顔立ちは、この脂ぎった無能な男の背後には全く似つかわしくない。彼女が微かに身じろぎするたび、ふわりと高級な香水の香りが漂う。
彼女――ディアナだ。
「……出迎えに感謝する。だが、宴席の用意は必要ない。本日は実務的な数字の確認と、投資の相談で伺った」
俺は次期会頭の言葉を静かに遮り、書類を抱えたディアナへ真っ直ぐに視線を向けた。
「具体的な資金の流れについて直接話をしたい。……そちらの彼女が、実際の帳簿を管理している責任者かな?」
次期会頭の男が、あからさまに不機嫌な顔をして振り返った。
「あ、ああ、この女は私の腹違いの妹でして。ただの裏方ですので、閣下が直接お話しされるような立場の者では――」
「構わない。数字を作った人間と話すのが一番早い」
俺の静かだが絶対的な響きを持つ声に、男は言葉を飲み込み、忌々しげに舌打ちをして横に退いた。
ディアナが一歩前へ出る。
涼しげな瞳が、警戒と探るような光を帯びて俺を射抜いた。
「ルクセンブルク領主閣下。お初にお目にかかります。ディアナと申します。本日はどのようなご用件でしょうか」
凛とした声だった。見下されることに慣れきった卑屈さはなく、自らの実力への確かな矜持が窺える。
俺はソファに深く寄りかかり、手元に用意しておいたガレリア商会の公式財務諸表をテーブルに置いた。
「ディアナ。君が作成したこの公式データを見せてもらった。見事なものだ」
俺の言葉に、ディアナの眉が僅かに動いた。
「これほど無駄の多い放漫経営の痕跡を、一つの破綻もなく美しい数字にまとめ上げている。複雑に絡み合った資金の流れを完璧に把握し、致命的な赤字をギリギリで黒字に見せかけている。……この美しい公式データの裏で、君がどれほど凄まじい資金繰りの穴埋めをしているか、私にはすべて見えているよ」
静寂が応接室に落ちた。
次期会頭の男が「なっ……」と顔を青ざめさせる横で、ディアナの瞳に、明確な驚愕の色が走った。自分の密かな努力と正確な実務能力、そして実家が抱える本当の危機を、初対面の相手からこれほど明確に見透かされたのは初めてなのだろう。
だが、驚きは一瞬だった。
すぐに彼女の切れ長な瞳の奥に、計算高い、肉食獣のような野心の火が灯った。
「……ルクセンブルク領主閣下。このような表敬訪問の場で、ずいぶんと面白い冗談を仰るのですね」
ディアナが、艶やかな唇に挑発的な笑みを浮かべて口を開いた。
「我が商会の財務は盤石ですわ。ですが……最近、領都の市場では興味深い噂を耳にします。ルクセンブルク領の新しい公衆浴場が莫大な利益を生み出し、領主様が『余剰予算の使い道』に頭を悩ませている、と」
彼女は完璧な姿勢のまま、一歩だけ俺のテーブルへと近づいた。
その仕草には、これまでの受け身な裏方とは全く違う、攻めの姿勢があった。
「莫大な予算を持て余し、税金対策に困っている。……もしや、その余剰資金をすべて、私に運用させようとお考えで?」
彼女は俺の真意を、俺が語る前にすでに逆算して導き出していた。
ただの被害者ではない。状況の僅かな変化から最大の利益を嗅ぎ取る、本物の策士だ。
「……やはり、君は極上の才を持っているな」
俺は不敵に微笑み、鞄の中からクロエに用意させておいた一枚の羊皮紙――破格の条件を記した『雇用契約書』を取り出し、テーブルの上に滑らせた。
「まずは、君の望む条件から聞こうか。ディアナ」
ディアナの視線が、テーブルの上の契約書に吸い込まれるように固定された。
その涼しげな瞳の奥で、自らの能力を存分に振るえる場所を見つけた歓喜の炎が、静かに、しかし激しく燃え上がろうとしていた。
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