第12話 黄金の魔女の引き抜き
ガレリア商会の最上階、重厚な扉に閉ざされた応接室。
張り詰めた空気が、分厚い絨毯の上に重く沈殿していた。
俺がテーブルの上に滑らせた一枚の羊皮紙――破格の条件を記した雇用契約書に、ディアナの切れ長な瞳が釘付けになっている。
彼女の艶やかなダークトーンの長い髪が、微かな身じろぎに合わせて揺れた。洗練されたタイトなパンツスーツの上からでもはっきりと主張する、しなやかで完成されたプロポーション。彼女が放つのは、ただの美貌ではない。冷徹な数字の海を泳ぎ切り、血肉を削るような交渉事の最前線に立ってきた者だけが持つ、鋭利な知性と野心の匂いだ。
「……お待ちください、ルクセンブルク領主閣下」
静寂を破ったのは、ディアナの前に立ち塞がるように一歩踏み出した、次期会頭の男だった。
脂ぎった太い首に不釣り合いな宝石をじゃらじゃらと鳴らし、男は俺に対して引きつった愛想笑いを浮かべた。
「この女は、我が商会の裏方に過ぎません。数字の辻褄合わせが得意なだけの、ただの小間使いです。閣下が直接引き抜くような価値など――」
「君は、少し黙っていてくれないか」
俺はソファに深く寄りかかったまま、声を荒げることもなく、ただ低く静かに告げた。
怒りを込めたわけではない。ただ純粋に、有意義な商談の場にノイズが混ざることを鬱陶しく感じただけだ。
だが、俺の生まれ持った重低音と、無意識に放たれた捕食者のような眼光は、男の喉の奥から言葉を完全に奪い去るには十分すぎた。
「ひっ……」
男が息を呑んで後ずさる。
さらに、俺の斜め後ろに控えるクロエが、言葉を発することなく、ただ冷ややかな視線を男へと向けた。彼女の深い知性を宿したエキゾチックな顔立ちは、美しさゆえに恐ろしい。その背後に渦巻く圧倒的な魔力の片鱗を感じ取ったのか、次期会頭の男は完全に腰を抜かし、壁際まで退いて震え始めた。
物理的な障害が排除されたのを確認し、俺は再びディアナへと視線を戻した。
「失礼した。話の続きをしよう。契約書の条件に目を通してほしい」
ディアナは、無様な姿を晒す兄を一瞥すらせず、すらりとした長い指でテーブルの上の羊皮紙を手に取った。
涼しげな瞳が文字を追い、数秒後、その完璧なバランスの唇が微かに開かれた。
「……基本給は現在の十倍。それに加えて、私の判断で運用した資金の利益に対する、青天井のインセンティブ……」
彼女の声が、信じられないものを見るように微かに震えていた。
「さらに、予算の決済権限は一定額まで私に一任。事前の稟議は不要。……そして、週に二日の完全休養の義務化。休暇中の業務連絡は一切禁ずる、ですか」
「そうだ」
俺は頷き、手元にあった冷めた茶に口をつけた。
「君がこの商会でどれほど優秀な成績を収めても、最終的な手柄はそこの彼に奪われ、君には責任と尻拭いのタスクだけが押し付けられているのだろう? 組織の構造を見れば一目瞭然だ。無能なトップが君の実務能力に依存しきっている」
前世で、何度も見てきた光景だ。
優秀な人間ほど、都合のいい歯車としてすり潰される。正当な評価も報酬も与えられず、「家族だから」「組織のためだから」という呪いのような言葉で縛り付けられる。
「そんな環境で君の才能を浪費するのは、経済的損失でしかない。俺は、君の持つその『数字を支配する力』を正当に評価し、見合うだけの対価を支払う用意がある。もちろん、休息もだ。疲弊した頭脳では、完璧な資金繰りはできないからな」
ディアナは羊皮紙から目を上げ、真っ直ぐに俺を見つめた。
その瞳の奥で、長年抑えつけられていた猛烈な野心が、限界を突破して燃え上がるのが見えた。
「……兄さん」
ディアナは振り返り、壁際で震える次期会頭を冷たく見下ろした。
「私、本日付けでこのガレリア商会を退職いたしますわ」
「な、何を馬鹿なことを……! お前がいなくなったら、誰があの複雑な裏帳簿を――」
「さあ? せいぜい、ご自分の『見事な経営手腕』で乗り切ってみてくださいな。これまで散々、私から手柄を奪ってきたのですから、ご自身でできるのでしょう?」
一片の情も未練もない、完全な切り捨てだった。
ディアナは優雅な仕草で胸元から万年筆を取り出すと、迷うことなく雇用契約書に流麗なサインを書き込んだ。
「ルクセンブルク領主閣下。いや……プレジデントとお呼びするべきでしょうか」
彼女は契約書をテーブルに置き、挑戦的な、それでいて最高に魅力的な笑みを浮かべた。
「このディアナのすべて、あなた様の利益のために運用させていただきますわ」
「歓迎するよ、ディアナ。財務局長としての君の手腕に期待している」
俺は立ち上がり、差し出された彼女の白い手を取った。
冷たく、しなやかで、しかし確かな力強さを持つ手だった。これでまた一つ、俺の平穏なスローライフを支える強固な柱が手に入った。
★★★★★★★★★★★
ガレリア商会を後にし、俺たちは特注の馬車で領都の館へと帰還した。
夕刻が近づき、館の中はどこか落ち着いた空気に包まれている。俺はディアナを伴って、執務室へ向かう前に一階のダイニングへと足を向けた。
「まずは、少し腹ごしらえをしよう。本格的な引継ぎはその後だ」
ダイニングの奥にある広い厨房では、専属メイドのライラが夕食の仕込みを始めていた。俺が声をかけると、彼女は手元の作業を止め、気怠げな瞳を向けて小さく頷いた。
「ちょうどいいところに来たね。……今日、質のいい鹿肉が手に入ったの。少し、味見してみる?」
俺が調理台の上に置かれた、鮮やかな赤身の鹿肉のブロックに目を向けた時だった。
「くぅ〜ん」
足元から、甘えるような高い鳴き声が聞こえた。
視線を下げると、金色の毛玉――ブランが、短い尻尾をちぎれんばかりに振りながら、俺の革靴にすり寄っていた。垂れた耳とつぶらな瞳が、愛らしさを全身で主張している。
「……あら、可愛らしい犬ですね。ルクセンブルクの館で、このような愛玩動物を飼われているとは思いませんでした」
ディアナが少し意外そうな顔をして、ブランを見下ろした。
彼女の冷徹なキャリアウーマンとしての顔が、少しだけ緩む。
「先日、森で保護した魔獣の幼体だ。まだ小さいが、なかなか賢くてね」
俺がブランの頭を撫でてやろうと手を伸ばした、その瞬間だった。
調理台の上に置かれた鹿肉から、微かな血の匂いが漂ったのだと思う。
ピクリ、と。
ブランの垂れていた耳が、レーダーのように跳ね上がった。
先ほどまでの愛らしい仕草が嘘のように、全身の黄金の毛が僅かに逆立つ。
「グルルルル……ッ」
喉の奥から響く、地を這うような低い唸り声。つぶらだった瞳は細く収縮し、明確な『捕食者』のそれへと変貌していた。短い脚を踏ん張り、重心を低く落とす。微弱だったはずの魔力が、尻尾の先から青白い炎のように溢れ出している。
それは、どんなに小さくとも、彼が過酷な自然界を生き抜く『魔獣』であるという紛れもない証明だった。
本能が、生肉という獲物を前にして完全に爆発している。
「おっと、すまない。腹が減っていたか」
俺は苦笑し、包丁で鹿肉の端を小さく切り取ると、それを放り投げた。
ダンッ! と、絨毯を蹴る鋭い音が響いた。
ブランの小さな体が、信じられない跳躍力で空中に舞い上がる。そして、目にも止まらぬ速さで空中の肉片に食らいつき、強靭な顎で一瞬にして咀嚼し、飲み込んだ。
着地と同時に、青白い魔力の炎がスッと消え去る。
「はっ、はっ、くぅ〜ん!」
何事もなかったかのように嬉しそうな表情で俺を見上げ、お尻ごと激しくフリフリと振り始めた。
あまりの切り替えの早さに、俺は感心してブランの首筋を撫でた。
「よく食べるのは良いことだ。健康な証拠だからな」
ふと横を見ると、ディアナが少しだけ目を細め、興味深そうにブランを見つめていた。
「なるほど。あのように無害で愛らしい姿を取り繕っていても、本質は獰猛な魔獣。狙った獲物は一瞬で喰い殺す、と」
ディアナが、美しい指先で自身のあごに触れながら呟く。
「さすがはルクセンブルク領の番犬ですね。普段は牙を隠し、相手を油断させておいて……ここぞという時に、喉元に食らいつく。アルベルト様の統治のあり方を、この小さな獣すらも体現しているというわけですか」
「ん? いや、ただ食欲に忠実なだけだと思うが……」
「ふふっ。ご謙遜を。私も、この子を見習わなくてはなりませんね。優雅に振る舞いながら、市場の美味しいところは一瞬でかっさらう。……素晴らしいインスピレーションをいただきましたわ」
ディアナは満足げに微笑み、ブランの頭をそっと撫でた。
俺は、彼女が何やら高度な比喩として自己完結しているのを感じたが、やる気を出してくれているなら訂正する必要もないだろうと判断し、そのまま厨房を後にした。
★★★★★★★★★★★
夕食と入浴を終え、夜の帳が下りた執務室。
マホガニーのデスクを挟んで、俺とディアナが向かい合っていた。斜め後ろにはクロエが控え、完璧に整理された分厚いファイルを用意している。
ディアナの服装は、先ほどまでの実務的なパンツスーツから、館で用意された深いスリットの入ったタイトスカートへと変わっていた。お風呂上がりだからか、より艶やかさを増したその美脚が、彼女の知的な色気を一層引き立てていた。
「さて、ディアナ。君には我が領の財務の全権を委ねる。まずは、現在の資産状況を把握してほしい」
クロエが、ファイルをディアナの前に置いた。
ディアナは洗練された所作でファイルを開き、そこに記された数字を追い始めた。
数ページめくったところで、彼女の長いまつ毛に縁取られた瞳が、ピタリと動きを止めた。
「……これは」
ディアナの声が、先ほどの契約書を見た時以上に震えていた。
「『不死の泉』と名付けられた公衆浴場からの、莫大な利用料収益。それに加えて、複数の不正貴族からの没収資産……。流動資産だけで、一国の国家予算すら優に超える額です。これが現在、ただ国庫に積まれている状態だと……?」
「その通りだ。あまりにも利益が出すぎている」
俺は深く息を吐き出した。
「これだけの莫大な資金を滞留させるのは、組織の血液を止めるのと同じだ。いずれ腐敗を招き、不要な争いの火種になる。だから君には、この資金を『生きた金』として運用してほしい」
ディアナはファイルを閉じ、ゆっくりと顔を上げた。
その涼しげな顔立ちには、もはや驚きはなかった。代わりに、莫大な資本を前にした極上の喜悦と、血に飢えた肉食獣のような野心が、はっきりと浮かび上がっていた。
「……今年度中に、この予算をすべて使い切れ、と仰るのですね」
「ああ。インフラ整備でも、新しい産業の立ち上げでも構わない。領地のためになる投資をして、きっちりと使い切ってくれ」
俺の言葉に、ディアナは艶やかな唇を歪めて笑った。
「素晴らしい……。ただ消費するのではなく、『投資』。他国の市場が、我が領の強大な資本力にひれ伏す姿が目に浮かびますわ」
彼女は立ち上がり、執務室の壁に掛けられた大陸の地図へと歩み寄った。
スッと立ち上がったその姿は、一分の無駄もない洗練された流麗なプロポーションをより際立たせていた。
「アルベルト様。近隣諸国は現在、我が国の温泉施設――彼らが『不死の泉』と恐れる施設の噂により、極度の緊張状態にあります。無駄な国境警備に予算を割き、経済は確実に冷え込み始めておりますわ」
彼女は、地図上の隣国オズワルドの国境付近を長い指でなぞった。
「流動資産だけでも、小国の国家予算数年分……。アルベルト様、この莫大な余剰資金を他国の市場へ積極的に投下いたしますわ。武力を使わず、私たちの圧倒的な資本力によって、他国の主要産業を根こそぎ我々の息の根がかかったものへと塗り替えてみせます。一滴の血も流さない、美しき経済侵略の始まりですわ」
俺は、彼女の提案に静かに耳を傾けた。
他国の主要産業を傘下に収める。確かに、手っ取り早く資金を運用し、かつ領地の安全保障を確保するという意味では、極めて理にかなった戦略だ。
「……細かい数字の動きや、買収の選定は君に任せる。必要な決裁書類があれば、俺のところへ持ってきてくれ」
「すべてお任せください、プレジデント。あなた様に、世界最高の利益をお約束いたします」
ディアナは胸元に手を当て、深く、そして優雅に一礼した。
これで、俺の肩に乗っていた厄介な大金の山が綺麗に消え去った。
有能すぎる財務局長が嬉々として立案した『合法的侵略』の行く末を思うと少し胃が痛むが――まあ、それも彼女の稼働時間内での話だ。俺は心地よい静寂に身を委ね、今夜こそ深く穏やかな眠りにつくことにした。




