第13話 プレミアムフライデーの恐怖
執務室の窓から差し込む午後の光が、マホガニーのデスクを穏やかに照らしていた。
金曜日の午後三時。領主の館は、週末を前にした静かな活気に包まれている。
デスクの向かい側に座るディアナは、手元の分厚いファイルを閉じ、長いまつ毛を伏せて優雅に息を吐いた。
「ご指示いただいた余剰資金の運用ですが、第一段階の仕込みが完了いたしましたわ。近隣諸国の主要市場へ、複数のダミー商会を経由して資本を投下しておりますの」
彼女の切れ長な瞳が、自信と微かな熱を帯びてこちらを見つめている。洗練されたパンツスーツの胸元が、彼女の静かな呼吸に合わせてわずかに揺れた。
「素晴らしい手際だ、ディアナ。これだけの規模の資金を、市場に警戒されることなく短期間で分散配置するとは。君の能力には本当に驚かされるよ」
俺は心からの称賛を伝えた。
数字の動きを見れば、彼女がどれほど緻密な計算と交渉を重ねてきたか一目でわかる。これほど優秀な人材が、実家で冷遇されていたなど信じられないことだ。
「勿体なきお言葉ですわ。ですが、これらはすべてあなた様が私に全権を委ね、十分な環境を与えてくださったからですのよ」
ディアナは少し頬を染め、美しい指先で自身の髪を耳にかけた。
「君が優秀だからこそだよ。だが、着任早々、少し根を詰めすぎているのではないかな」
俺はデスクの上の書類を隅へ寄せ、彼女に向き直った。
「今日は金曜日だ。我が領では今後、月末の金曜日は『プレミアムフライデー』と呼ぶことにしようと思う」
「プレミアムフライデー……でございますか?」
「ああ。週末の前に、普段より早く業務を切り上げて、心身をリフレッシュするための時間だ。仕事の質を保つためには、上質な休息と余白が必要だからね。今日はもう、実務は終わりにしよう」
俺の言葉に、ディアナの涼しげな瞳がわずかに見開かれた。
だが、次の瞬間、その瞳の奥に鋭い知性の光が閃いたのを俺は見逃さなかった。
(……なるほど。週末の市場閉場前、最も取引が膠着し、価格が変動しやすい『魔の時間帯』。そこを狙って、一気に隣国のインフラ企業を買い叩けという合図ですのね……!)
彼女の頭の中でどのような高度な経済戦略が組み立てられているのか、俺には知る由もなかった。俺はただ、優秀な部下を早く休ませて、自分も美味しいものを食べて帰りたかっただけなのだから。
「あなた様の深いお考え、確かに受け取りましたわ。ええ、このプレミアムフライデー……最高の形で締めくくってみせますわ」
ディアナが、どこか妖艶で肉食獣のような微笑みを浮かべる。
「それは頼もしい。では、その素晴らしい成果の前祝いとして、食事にでも行かないか。領都にいい店があるんだ」
俺が誘うと、彼女は嬉しそうに、そして誇らしげに頷いた。
★★★★★★★★★★★
夕刻。領都の中心部、最も洗練された大人が集う『アルジェント通り』。
白銀のガス灯が石畳を照らし始める時間帯、俺はディアナをエスコートして、行きつけの高級ステーキ店へと足を踏み入れた。
重厚な扉の向こうは、落ち着いた照明と静かな弦楽器の生演奏が心地よい空間だ。俺たちが奥の個室へ案内されると、ディアナは少し緊張した面持ちで周囲を見渡した。
「このような素晴らしいお店、私のような者がご一緒してよろしかったのでしょうか」
「もちろんだ。君の働きには、これでも足りないくらいだよ」
俺は彼女の椅子を引き、着席を促した。
運ばれてきたのは、年代物の重厚な赤ワインだ。深いルビー色の液体がグラスに注がれると、華やかな果実の香りが個室を満たした。
「君の新たな門出と、これからの活躍に」
グラスを合わせる。ディアナは一口飲むと、その芳醇な味わいにほうっと息を漏らした。
一皿目は、新鮮な魔牛の赤身を使った『牛刺し』だ。
薄く引かれた美しい真紅の肉に、特製の醤油に似たソースと、ピリッとした薬味が添えられている。
「さあ、冷めないうちに……いや、これは冷たい料理だったね。ぜひ食べてみてほしい。ここの牛刺しは絶品なんだ」
ディアナはフォークを手に取り、一口味わった瞬間、目を丸くした。
「……信じられませんわ。この柔らかさは何かしら。噛み締めるたびに、上質な赤身の甘みと極上の旨味が溢れ出して……。これほどの贅沢をプレジデントと共に味わえるなんて、ワインが進んでしまいますわ」
「気に入ってもらえて嬉しいよ。良質なタンパク質は、疲れた頭を癒してくれるからね」
続いて運ばれてきたのは、彩り豊かな温野菜のサラダだ。
シャキシャキとした葉野菜の食感と、グリルされて甘みを増した根菜。そこに酸味の効いた特製のドレッシングが絶妙に絡んでいる。肉料理の前に、胃を優しく整えてくれる一品だ。
そしてメインディッシュ。熱い鉄板に乗せられた、極上の霜降りステーキが音を立てて現れた。
表面は香ばしく焼き上げられ、ナイフを入れると中は美しいロゼ色に輝いている。溢れ出す肉汁が鉄板の上で弾け、食欲を刺激する香りが立ち上った。
「味付けはシンプルに、塩と粗挽きの黒胡椒だけで十分だ。無理にペースを合わせなくていいから、君の好きなように楽しんでほしい」
俺はステーキを口に運び、肉の旨味を噛み締めた。噛むほどに溢れる豊かな味わいが、一週間の疲労を確かに溶かしていく。
ディアナもまた、うっとりとした表情でステーキを味わっていた。
「……私、今まで数字の計算ばかりで、食事の味など気にしたこともありませんでした。ですが、あなた様と共にいただくこのお料理は、私の人生で一番美味しいですわ」
彼女が真っ直ぐにこちらを見つめる。その瞳には、かつて実家で見せていたような冷たさはなく、純粋な喜びと、俺に対する深い信頼が宿っていた。
「君が来てくれて、本当に助かっている。数字を追うだけの仕事ではなく、君自身の人生も豊かにしてほしいんだ。今日は存分に楽しんでくれ」
俺が微笑みかけると、彼女は艶やかな唇をほころばせ、静かに頷いた。
★★★★★★★★★★★
食後。
俺たちはアルジェント通りのさらに奥まった場所にある、会員制のサロンへと場所を移した。
ベルベットの深いソファに身を沈めると、外界の喧騒が嘘のように遠ざかる。薄暗い照明の中、静かなジャズのような音楽が流れていた。
「まずは、シャンパンをいただこうか」
繊細な泡が立ち上るクリスタルグラスを傾ける。冷たく弾ける喉越しが、火照った身体を心地よく冷ましてくれる。
ディアナの隣に座り、俺は彼女のグラスが空かないよう気を配った。
「……プレジデント」
ディアナが、ふと手元の小さな魔導端末に視線を落とし、甘い声で囁いた。
「どうした? 何か急ぎの連絡かな」
「いえ。……ただの、吉報ですわ。先ほど、隣国オズワルドの主要な水道網、および魔力供給網の管理権限を、すべて我がルクセンブルクが取得いたしましたの」
「……ん?」
俺はグラスを置いた。
「プレミアムフライデー。週末の市場が閉まる直前の、最も価格が下落し、彼らが対応に遅れる時間帯。おっしゃった通りの完璧なタイミングで、買い叩かせていただきましたわ。これでオズワルドの経済圏は、完全に私たちの支配下ですのよ」
ディアナは、極上のシャンパンを味わうような優雅さで、とんでもない報告を口にした。
たった数時間で、隣国のインフラを丸ごと飲み込んだというのか。
「……そうか。君の努力の賜物だね。お疲れ様」
俺は内心の驚きを悟られないよう、あくまで穏やかに労いの言葉をかけた。有能すぎる部下の行動力には、時に度肝を抜かれるが、結果として領地の安全がより強固になったのなら喜ぶべきだろう。
「すべては、あなた様の遠大なヴィジョンのおかげですわ。私に、これほど大きな盤面を任せてくださって……本当に、ありがとうございます」
ディアナの瞳が、熱を帯びて潤んでいる。
俺はバーテンダーに合図を送り、芳醇な香りを放つ年代物のブランデーと、ピートの効いた琥珀色のモルトウィスキーを注文した。
「今日はもう、仕事の話は終わりにしよう。君の素晴らしい手腕に、改めて乾杯を」
「はい……」
ブランデーグラスを傾ける俺の横顔を、ディアナはうっとりとした、熱を孕んだ視線で見つめ続けていた。
★★★★★★★★★★★
深夜。
領主の館へ帰還した俺は、自室のソファに深く腰を下ろした。
少しばかり酒が回り、心地よい気怠さが全身を包んでいる。ネクタイを緩め、俺は室内に備え付けられた小型の魔導冷蔵庫を開けた。
中から取り出したのは、深い緑色のガラス瓶に入った『エイト・オー・エイト』――セシリアが俺の健康管理のためにと、泣きながら持たせてきた特製の薬草ドリンクだ。
栓を抜き、一息に飲み干す。
舌を刺すような独特の苦味が広がるが、効果は本物だ。胃の腑からじんわりと温かい熱が広がり、アルコールの気怠さを、上質な睡眠へと誘う心地よい疲労感に変えてくれた。これなら明日、酒の疲れが残ることもないだろう。
「……それにしても、一国を買い上げるとはな」
空になった小瓶を見つめながら、俺は苦笑した。
ディアナの有能さは俺の想像を遥かに超えていた。彼女に全権を委ねた以上、その結果は俺がすべて引き受ける。それがトップの責任というものだ。
それに、これで隣国からの不要な干渉(残業の原因)が完全に断ち切られたのだ。俺の平穏なスローライフにとっては、これ以上ない朗報である。
翌週の月曜日。
隣国オズワルドから、主要インフラを突如握られたことに大パニックに陥った使者が、青ざめた顔で交渉の席を求めてルクセンブルクを訪れることになるのだが――それはまた、週明けの業務時間内に処理すべき仕事である。
今はただ、このプレミアムフライデーがもたらした穏やかな夜を楽しむだけだ。週明け、領主館の門を叩くであろう使者の青ざめた顔を思い浮かべて小さく苦笑し、俺はいつもより少し早く、心地よい眠りの底へと落ちていった。




