第5話 追放された聖女のスカウト
執務室の空調を担う微風の魔導具が、静かに音を立てている。
俺は手元の羊皮紙に記された絶望的な数字の羅列を追いながら、深く息を吐き出した。
「クロエ。今朝上がってきた、第四区画からの緊急レポートだが……ひどい有様だな」
「はい。不衛生な住環境と慢性的な過労が重なり、末端の労働者たちの間で感染症が爆発的に蔓延しています」
デスクの斜め前に控えるクロエが、痛ましい事実を淀みない声で読み上げる。
「本来ならただの風邪で済む症状が、免疫力の低下により致命的な肺炎へと悪化しているケースが後を絶ちません。このままでは労働環境を適正化しても、人的リソースの流出が止まらず、最悪の場合は領地全体の機能が停止します」
俺は眉間を指で揉みほぐした。
どんなに完璧な業務フローを設計しても、それを実行する人間が健康でなければシステムは回らない。前世で、体調不良を訴える現場の声を「気合で治せ」と一蹴した無能な上層部のせいで、プロジェクトメンバーが次々と倒れ、最終的に納期が完全に吹き飛んだ挙げ句、そのすべての尻拭いをさせられた地獄を思い出す。領民がバタバタと倒れれば、そのリカバリーの手間は巡り巡って俺のタスクとなり、俺の睡眠時間を削ることになる。俺が平穏無事に、安らかな日々を送るためには、強固な医療インフラの構築が急務だった。
「現状、領内の医療機能を担っているのは、教会が運営する施療院のみだったな」
「ええ。ですが、彼らは法外な『お布施』を要求するため、貧困層は治療を受けることすらできません。事実上、医療崩壊を起こしています」
「教会の施療院は解体し、領主直轄の病院を新設するしかないな。問題は、そこを任せられるまともな『医者』がいないことだが……」
その時、音もなく執務室の扉が開き、ライラが入ってきた。
彼女の足取りは相変わらず気怠げだが、メイド服の裾から覗く足先の動きには一切の隙がない。
「アルベルト様。館の裏手の森で、女が倒れてる」
「……行き倒れか?」
「うん。泥だらけで、息も絶え絶え。とどめ、刺しておく?」
ライラが無表情のまま、物騒な提案をする。美味しい三食と十分な睡眠を与えているおかげで彼女の忠誠心は非常に高いが、不確定要素をまず排除しようとする暗殺者の思考回路はまだ抜けきっていないらしい。
「馬鹿言え。領地内で死体が出れば、処理と書類仕事が増えるだろうが。案内しろ」
俺は椅子から立ち上がり、ジャケットを羽織った。
★★★★★★★★★★★
雨上がりの森は、冷たく湿った空気が淀んでいた。
案内された場所へ向かうと、濡れた下草の上に、一人の女性が倒れていた。
二十代半ばほどだろうか。泥と血に汚れてなお隠しきれない、息を呑むような絶世の顔立ち。ふっくらとした美しい唇と、泥に塗れたゴージャスなブロンドの髪が、湿った森の暗がりの中で奇怪なほど華やかな存在感を放っていた。まとっていた衣服は無惨に引き裂かれているが、その仕立ては明らかに高位の聖職者のものだ。
「この微弱な魔力の波長……高位の神聖魔法の使い手ですね」
同行したクロエが、女性の首筋に指を当てて目を細めた。
「ですが、魔力回路が強制的に閉じられています。首の後ろに、呪詛の痕。教会の『異端審問』で用いられる、魔力封じの刻印ですわ」
「追放されたか。それも、かなり手酷く」
俺は女性の顔を見た。
ひどく青ざめ、高熱に浮かされている。透き通るような白い肌には無数の擦り傷があり、どれほどの距離を逃げ惑ってきたのかが窺えた。
ふと、俺の脳裏にゲームの知識が蘇る。
陽光のようなゴージャスなブロンド。比類なき治癒魔法の使い手。そして、教会から異端として追放されたという事実。
――セシリア。
本来の歴史であれば、この後、荒野を彷徨っていたところを勇者パーティーに拾われ、慈愛の聖女として彼らのメインヒロインとなるはずのキャラクターだ。
なぜ、勇者と出会う前に俺の領地で行き倒れているのか。理由は定かではないが、医療崩壊の危機に直面している俺の前に転がり込んできたこの極上のリソースを見逃す手はない。
「ライラ、彼女を担いで館へ。一番日当たりの良い客室を使え。それと、クロエ」
「はい」
「その呪詛の刻印、お前の魔力で相殺できるか」
「容易いことですわ。跡形もなく消し飛ばしてみせましょう」
クロエが優雅に微笑む。
俺は小さく頷き、ぐったりとしたセシリアを見下ろした。
これで医療インフラの問題は、劇的に解決へ向かうかもしれない。
★★★★★★★★★★★
数時間後。
清潔なシーツに包まれたベッドの上で、セシリアはゆっくりと目を覚ました。
「……ここは」
乾いた唇から漏れた声は、ひどく掠れていた。
視界が焦点を結ぶと、彼女はベッドの傍らの椅子に座り、書類に目を通している俺の姿に気づいた。
「ひっ……!」
凄まじい恐怖が彼女の顔を歪めた。
無理もない。追放され、死の淵を彷徨った末に目覚めた先で、近隣諸国にまで悪名を轟かせる『ルクセンブルクの極悪領主』が自分を見下ろしているのだ。処刑の前の遊戯だと絶望してもおかしくはない。
「起きたか。無理に動く必要はない。まだ魔力が底をついている状態だ」
俺は手元の書類を閉じ、静かに声をかけた。
彼女の怯えを少しでも解こうと声を抑えたつもりだったが、俺の生まれつきの重低音は、かえって彼女を竦み上がらせてしまったようだ。
「アルベルト・フォン・ルクセンブルク……閣下。なぜ、私がここに」
「俺の庭で行き倒れていたから、拾っただけだ」
俺はテーブルの上に置かれていたグラスに水を注ぎ、彼女の口元へ近づけた。セシリアは躊躇いながらも、喉の渇きに抗えずに少しずつ水を飲み込んだ。
「首の刻印は外しておいた。魔力の循環は数日で正常に戻るだろう」
「刻印を……?」
セシリアは信じられないというように、自分の首元に触れた。
教会が絶対の拘束力を持つとして刻んだ呪詛が、いとも簡単に消え去っている。彼女の透き通るようなブルーの瞳が、戸惑いと警戒を混ぜて俺を射抜いた。
「私を……どうするおつもりですか。慰み者にする気なら、舌を噛みます」
「自意識過剰だな。俺はそんな非生産的なことのために時間と薬代を使ったわけじゃない」
俺は椅子に深く腰掛け、彼女を真っ直ぐに見据えた。
「単刀直入に聞く。なぜ追放された」
セシリアはシーツを強く握りしめ、しばらく沈黙した。
だが、隠し立てしても意味がないと悟ったのか、やがて自嘲するような笑みを浮かべて口を開いた。
「……教会上層部の、横領と不正を告発しようとしました。神の教えを説きながら、彼らは信徒からの寄付を私腹を肥やすために使い、私たち現場の神官には、睡眠すら許さず治癒魔法の行使を強要した」
彼女の言葉には、深い疲労と絶望が滲んでいた。
「私はただ、救いを求める人々に寄り添いたかった。なのに、彼らは私を『教会の秩序を乱す異端の魔女』として断罪し、全てを奪いました。……私は、神に見捨てられたのです」
ぽろりと、彼女の瞳から涙がこぼれ落ちた。
信じていたものに裏切られ、使い捨てられた者の無念。前世で、組織の論理にすり潰されていった同僚たちの姿が重なる。
「くだらんな」
俺が低く吐き捨てると、セシリアはビクッと肩を震わせた。俺が彼女の信仰や行動を嘲笑ったと思ったのだろう。
「教会の連中の頭の出来の話だ」
「え……?」
「労働の正当な対価も払わず、信仰という目に見えない鎖だけで優秀な人材を縛り付けようとする。挙げ句の果てに、己の不正を隠すためにそのリソースを捨てる。組織のトップとして、下の下の愚行だ。呆れて言葉も出ない」
セシリアは目を丸くした。
神聖不可侵であるはずの教会上層部を、ただの「無能な経営者」としてバッサリと切り捨てる俺の言葉に、彼女の常識が揺さぶられているのがわかった。
「神がどう評価しようと関係ない。俺は、お前の治癒の腕と、不正を許さず職務を全うしようとするその『実務への誠実さ』を高く評価する」
俺は立ち上がり、ベッドの傍らに立った。
「俺の領地は今、深刻な医療リソースの不足に陥っている。俺が安らかな睡眠と平穏な生活を送るためには、領民が健康で、滞りなく働いてくれる環境が必要不可欠だ。お前の腕が欲しい」
「……私を、雇うと仰るのですか? この、追放された罪人を」
「罪人かどうかは俺が決める。ルクセンブルク領の医療統括、および新設する直轄病院の院長。それがお前のポストだ」
俺は、彼女に提示する条件を明確に口にした。
「最新の医療設備と薬剤の調達には、惜しみなく予算を回す。成果に対する報酬は青天井だ。そして何より――週に二日は必ず休め。勤務時間外の呼び出しは、領の存亡に関わる事態を除いて一切禁ずる」
「休む……? 私が、ですか? しかし、患者が苦しんでいる時に、私だけが安息を得るなど……」
「勘違いするな」
俺は彼女の言葉を強い語気で遮った。
「医者自身が倒れていては元も子もない。万全な体調を保つことも、医療体制を維持するための必須条件だ。自分の健康を管理できない人間に、他人の命は預けられない」
セシリアは、雷に打たれたように硬直した。
これまで彼女が教え込まれてきた「身を粉にして尽くすことこそが聖女の証」という呪縛。それを、目の前の極悪な風貌の男は、極めて論理的な「マネジメントの視点」から完全に否定し、彼女自身の心身の安寧を肯定したのだ。
「……私の、健康を」
「そうだ。お前が万全の状態でいてくれなければ、俺の平穏が脅かされる。だから、しっかりと飯を食い、十分な睡眠をとれ。生活の保障は全てこちらで持つ。……どうだ、受けるか」
静寂が落ちた。
窓の外で、雨上がりの雲間から差し込んだ光が、セシリアのブロンドの髪を美しく照らし出していた。
彼女の透き通るようなブルーの瞳から、先ほどの絶望の涙とは違う、大粒の雫が止めどなく溢れ出した。
それは、全てを失った彼女の魂が、本当の意味で「救済」された瞬間だった。
「……はい」
セシリアは震える両手でシーツを握りしめ、深く頭を下げた。
「この命、全て……アルベルト様に捧げますわ」
★★★★★★★★★★★
それから数日後。
魔力と体力を完全に取り戻したセシリアは、俺が特別に仕立てさせた機能性を重視した衣服――純白の「白衣」を纏って執務室に現れた。
長身で誰もが目を奪われるグラマラスなプロポーションを、ボディラインの際立つタイトなドレスで包み、その上に純白の白衣を優雅に羽織っている。ふんわりと巻かれたブロンドの髪と、透き通るようなブルーの瞳。歩く姿そのものが芸術品のような華やかさと、知的な女医としての妖艶さを漂わせており、もはや追放された聖女の悲壮感は欠片もなかった。
「アルベルト様。本日から、領地病院の業務に就かせていただきますわ」
セシリアが、慈愛に満ちた、しかしどこか熱を帯びた微笑みを浮かべて一礼した。
「ああ、頼む。まずは第四区画の診療所の整備と、領民の健康診断から手をつけてくれ。設備投資の決裁はすぐに下ろす」
「承知いたしました。アルベルト様のご期待に、完璧に応えてみせますわ」
そう言って踵を返しかけたセシリアが、ふと足を止め、俺の顔をじっと見つめた。
「……アルベルト様。少し、お顔の色が優れないようですが。昨晩の睡眠時間は?」
「ん? ああ、五時間ほどか。少し隣国絡みの書類が溜まっていてな」
俺が何気なく答えた瞬間、セシリアのブルーの瞳から、ふっと光が消えた。
「……五時間。いけませんわ」
彼女の声のトーンが、一段低くなる。
「アルベルト様のような尊いお方に、そのような過重な負担を強いるなど。……アルベルト様のお身体を蝕む疲労は、病原菌と同じ。私が、完璧に『消毒』して差し上げなくては」
「……ん? 今、何か不穏なことを言わなかったか?」
「いいえ? 予防医学の観点から、アルベルト様の安眠を妨げる『原因の根治』を行ってくるだけですわ。ふふっ……」
セシリアは蠱惑的な笑みを残し、執務室を後にした。
その背中から、何やら凄まじいプレッシャーを感じた気がしたが、俺は小さく首を振って手元の書類に視線を戻した。
「まあ、意欲があるのはいいことだ」
これで領民の健康状態が改善されれば、俺の仕事も劇的に減るはずだ。
彼女の言う『原因の根治』が、まさか俺に書類仕事を押し付けてきた隣国の貴族たちに対する物理的かつ致死的な『排除行動』を意味しているとは思いもしないまま、俺はただ自身の平穏な安息を祈り、残りのタスク処理に没頭し始めた。
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