第2話 暗殺者と深夜のオムライス
深夜二時。
静まり返った執務室には、ペン先が羊皮紙を擦る乾いた音と、重厚な柱時計の規則正しい刻み音だけが響いていた。
分厚いマホガニーのデスクの上には、未決裁の書類が雪山のように積まれている。数時間前、俺は「今日の午前中は誰も入れるな」とメイドたちに告げたはずだが、結局のところ、午前中のみならず日付が変わるまでこの椅子から離れることはできなかった。
「……終わらないな、これ」
首の後ろを揉みほぐしながら、俺は深く息を吐き出した。
領地の現状は、想像を絶するほどに腐りきっていた。分厚い帳簿を開けば、数字の辻褄合わせの痕跡ばかりが目に付く。窓の数や家の煙突にまで理不尽な税をかけ、領民の明日の活力まで奪い取り、その血税は一部の悪徳商人と結託した貴族たちの腹に収まっている。農村部では餓死者が出る寸前だというのに、領主の館の倉庫には使いきれないほどの高級ワインが眠っているのだ。この腐敗の連鎖を断ち切らなければ、数年後には領民の怒りが限界を超えて爆発し、俺の首が物理的に飛ぶ事態になるだろう。
前世で経験した炎上プロジェクトの尻拭い。あれのスケールが国レベルになり、さらに失敗すれば自分の命が失われると考えればいい。トップが無能で腐敗していればいるほど、現場の人間が血の涙を流すことになる。俺はそんな地獄を何度も見てきた。
だからこそ、絶対に誰も文句を言わない、そして俺自身が一生遊んで暮らせるだけの強固な基盤──つまり、誰もが十分な休息と正当な対価を得られる環境を作るためだ。今は睡眠時間を削ってでもこの負の遺産を清算し、歯を食いしばって耐えるしかない。
ふと、腹の底から小さく音が鳴った。
昼間、使用人たちに「倒れられると面倒だから休め」と命じてしまったため、今の館には夜食を用意してくれる者すらいない。自業自得とはいえ、この空腹のまま、糖分も足りていない脳で思考を回し続けるのは非効率の極みだ。
俺は椅子から立ち上がり、重厚な扉を開けて薄暗い廊下へと出た。
月明かりだけが頼りの静寂の中、厨房へと向かって歩を進める。床に敷かれた分厚い絨毯が足音を完全に吸い込み、巨大な館はまるで死に絶えたように静まり返っていた。時折、窓ガラスを揺らす夜風の音だけが、ここが現実世界であることを辛うじて教えてくれる。前世の深夜残業明けに独り歩いた、誰もいない無機質なオフィス街を少しだけ思い出した。
異変に気づいたのは、一階へと続く大階段を下りきった直後だった。
気配があったわけではない。音も、空気の揺らぎすらなかった。
だが、前世で数え切れないほどの修羅場を潜り抜け、常に周囲の顔色と不測の事態を警戒し続けてきた直感。そして何より、このアルベルトという肉体に刻み込まれた本能が、背後の「死の気配」を強烈に察知した。
立ち止まる。
「――動かないで」
耳元で、ひどく掠れた、感情の乗らない声が囁いた。
同時に、首筋にひやりとした金属の感触が当てられる。皮膚を一枚だけ撫でるような、極めて繊細で致命的な刃の当て方だ。少しでも俺が声を上げるか、不用意な素振りをみせれば、即座に頸動脈を掻き切られるだろう。
月明かりが、背後に立つ者の影を床に落としていた。
小柄だ。俺の肩にも満たない背丈。そして、そのシルエットは、クラシカルなメイド服のそれだった。
「……こんな時間まで掃除か?」
俺は喉仏を動かさないよう、低く静かな声で問いかけた。
「使用人たちには、夜間の業務は禁じたはずだが」
「掃除じゃない。あなたの命を刈り取りに来たの、アルベルト・フォン・ルクセンブルク」
淡々とした声。
脳内の記憶と目の前の状況が繋がり、一つの答えを導き出す。
ライラだ。
原作ゲームの序盤、圧政に苦しむ反乱軍が送り込んでくる凄腕の暗殺者。館のメイドとして潜入し、悪逆非道な領主を暗殺するはずだったキャラクター。
「そうか。反乱軍の差し金だな」
「ええ。領民の怨み、ここで晴らさせてもらうわ」
ライラの声には迷いがない。だが、俺は首筋に当てられた刃の微かなブレを見逃さなかった。
「……怨みを晴らすのは結構だが。お前、最後にまともな飯を食ったのはいつだ?」
「は?」
張り詰めていた空気が、一瞬だけ間の抜けたものになった。
「腕の筋力が落ちている。息の上がり方もおかしい。それに、刃を押し当てる指先が微かに震えているな。恐怖や緊張からじゃない。慢性的な低血糖と疲労、そして極度の栄養失調のサインだ。まともな睡眠すら取れていないんだろう」
俺は静かに言葉を紡ぐ。前世で、限界を超えて働く者たちに何度も見てきた兆候だ。休息も食事も与えられず、ただ使命感だけで立っている人間の脆さを、俺は嫌というほど知っている。
「……黙って」
「反乱軍の資金繰りは苦しいはずだ。大方、ろくな報酬も与えられず、『大義のため』などという耳障りのいい言葉でこの死地に単身送り込まれたんだろう。失敗すれば切り捨てられ、成功すれば上層部の手柄になる。違うか?」
「あなたに何がわかるの……!」
ライラの声に初めて感情が混じる。図星だ。
「わかるさ。現場にすべてを押し付けて高みの見物を決め込む連中のやり口なんて、どこも同じだ。命を削って他人のために尽くしても、誰も守ってはくれない」
俺は、首筋の刃を無視してゆっくりと振り返った。
刃が薄く皮膚を滑り、一筋の血が流れるが、構わない。
視線の先に佇んでいたのは、窓から差し込む青白い月光に照らされた少女だった。
少し無造作に切りそろえられたボブヘアの隙間から、意思の強い、だがどこか虚ろな大きな瞳が俺を射抜いている。ぽってりとした唇は不満げに結ばれ、整った顔立ちはまるで冷たい磁器の人形を思わせた。大人びた退廃的な色気を漂わせているが、目の下に刻まれた濃いクマと、鎖骨が浮き出るほどに細い首元が、彼女の過酷な日常を物語っている。仕立てのいいクラシカルなメイド服を気怠げに着崩しており、その翻るスカートの裾からは、幾本もの細い暗器の冷たい輝きが覗いていた。
彼女は、俺が刃を無視して向き直ったことに驚愕し、一歩後ずさった。
アルベルトの巨躯と、見下ろすような強烈な眼光。彼女の目には、俺が死を恐れぬ本物の怪物に見えたのかもしれない。
「少し、付き合ってくれ」
「え……?」
「俺も腹が減っているところだ。大義名分だけで腹は膨れないだろう」
唖然として立ち尽くす暗殺者を廊下に残し、俺は再び厨房へと歩き出した。
背後から追ってくる気配はなかったが、数秒後、戸惑いながらも微かな足音がついてくるのが聞こえた。
★★★★★★★★★★★
厨房は広く、ひんやりとしていた。
魔導具で冷やされた大型の保管庫を開け、中身を確認する。新鮮な卵がいくつか、バター、それに昼間に使用人たちが賄いで残したと思われる冷や飯と、端材の鶏肉や野菜があった。
「そこの椅子に座っていてくれ」
作業台の向こう側にあるスツールを顎でしゃくると、ライラは警戒心を解かないまま、しかし吸い寄せられるように大人しく腰掛けた。その手にはまだ、毒の塗られた短剣が握られている。
俺はシャツの袖を捲り上げ、手早く調理を始めた。
前世では、深夜に帰宅した後の無心になれる自炊の時間が、数少ないストレス発散法だった。誰にも邪魔されず、ただ目の前の食材と工程にだけ集中できる尊い時間。
手際よく包丁で鶏肉と玉ねぎなどの野菜を細かく刻み、熱したフライパンにバターを落とす。ジュッという心地よい音と共に、香ばしい匂いが厨房に広がった瞬間、背後で「きゅるり」と、とても暗殺者らしからぬ盛大な音が鳴った。
フライパンから視線を戻すと、ライラは顔を真っ赤にしてうつむいていた。
「……何か言ったら、殺す」
「いや、何も聞いていない」
冷や飯を投入し、塩と胡椒、そして厨房にあった赤い香辛料のペーストで手早く味を調える。米の一粒一粒に旨味がコーティングされていくのを確かめてから皿に盛り付けた。続いてボウルで卵を素早く溶き、別のフライパンで半熟のオムレツを作る。表面はなめらかに、内側はトロトロの半熟状態を保ったままラグビーボール型に成形し、絶妙なタイミングで火から下ろし、チキンライスの上に被せた。
ナイフで卵の中央に切れ目を入れると、トロトロの中身が黄金色の花開くように広がった。立ち上る熱気と芳醇な香りが、深夜の厨房を満たしていく。
「できたぞ。冷めないうちに食べてくれ」
湯気を立てるオムライスとスプーンをライラの前に置く。
彼女は短剣を握る手に力を込めたまま、目の前の黄金色の山と俺を交互に見た。
「……毒でも入れた?」
「俺がさっきからずっとお前の目の前で作っていたのを、見ていただろう。プロの暗殺者なら、調理工程で何か混入されれば気づくはずだ」
俺が対面の椅子に腰掛け、自分用のオムライスを一口食べると、彼女はようやく恐る恐るスプーンを手に取った。
端の方を少しだけすくい、口に運ぶ。
その瞬間、ライラの虚ろだった大きな瞳が、限界まで見開かれた。
次の一口は、さっきよりも少し大きかった。さらに次の一口は、もっと大きく。
警戒などとうに忘れ、彼女は無言のまま、まるで何かに取り憑かれたようにひたすらに皿に向かってスプーンを動かし続けた。口の周りが汚れるのも気にせず、ただ胃袋を満たすことだけに全神経を集中させている。頬張りすぎて時折むせそうになるのを、俺が差し出した水を一気に飲み干してやり過ごす。
数分後。
完全に空になった皿を前に、ライラは満足そうに小さくため息をついた。
その顔からは先ほどの鋭い殺気は消え失せ、代わりに、年相応の少女のような満ち足りた表情が浮かんでいた。
「……美味かったか」
「……うん」
素直な返答だった。俺は空のグラスに再び水を注いでやる。
「さて、本題に入ろうか」
「……」
ライラは再び短剣に視線を落とし、身をこわばらせた。自分が今、標的から食事を恵まれた暗殺者であるという事実を思い出したらしい。
「俺を殺しに来たのだから、当然、捕らえて尋問し、反乱軍の拠点を吐かせる。それが普通の手順だ」
「……好きにすればいい。何も喋らないけど」
「だが、そんなことをすれば余計な仕事がまた増える。反乱軍の相手などしている暇はないんだ。俺は、もっと根本的な環境の改善に時間を使いたい」
俺はテーブルの上に両手を組み、ライラを真っ直ぐに見据えた。
「単刀直入に言おう。反乱軍を辞めて、俺のところで働かないか」
「……は?」
「反乱軍の何倍もの予算でお前を買い取ってやる、と言っているんだ。お前ほどの腕を持つ一流の使い手が、無給で使い捨ての駒にされている現状は、あまりにも不健全だ」
ライラは理解できない言葉を聞いたように、目をぱちくりとさせた。
「……お金なんて、いらない。私は、大義のために」
「大義で腹は膨れないと、さっきのオムライスで証明したはずだが?」
ライラはスプーンを握る手に力を込め、空になった皿を見つめた。言葉を失ったように唇を噛みしめ、小さく肩を震わせている。幼い頃から武器を握らされ、大義という冷たい言葉だけを信じて血の滲むような訓練に耐えてきた彼女の内に、先ほど食べた温かな料理の熱と味が、抗いようもなく染み込んでいく。その沈黙を、俺は静かに待った。
「金が要らないなら、休みだ。七日のうち二日は確実に休ませる。あらかじめ申請すれば自由に取れる長期の休暇も与えよう。夜間の呼び出しや、今日のような過酷な居残りは原則として禁止だ。三食、さっきと同じレベルの温かい飯を約束する。怪我をした場合の治療費は全額こちらで負担するし、達成不可能な過酷な仕事の強要もしない」
「……七日のうち、二日……」
ライラの唇が、呪文のようにその言葉を反芻する。
「お前の仕事は、俺の睡眠と平穏を守ることだ。俺がゆっくり休むために、お前が裏の汚れ仕事をする必要はない。ただ、俺の安寧を脅かすようなイレギュラーが起きた時だけ、その技術を使え。それ以外の時間は、自分の好きに生きろ」
静寂が降りた。
ライラはうつむき、手元の短剣をじっと見つめている。
反乱軍での過酷な日々。終わりの見えない暗殺の日々。そして、今しがた食べた、温かくて信じられないほど美味しかった料理の記憶。
彼女の中で、何かが音を立てて崩れ、そして組み替わっていくのがわかった。洗脳にも近い過酷な環境で縛り付けられていた鎖が、温かい食事と人間らしい待遇の提示によって断ち切られた瞬間だった。
やがて、ライラはゆっくりと顔を上げた。
退廃的だった瞳に、先ほどまでの虚無感はない。代わりに、俺という存在に対する強烈な執着のような光が宿っていた。
彼女は、握りしめていた短剣を、テーブルの上に静かに置いた。
カチャリ、と小さな音が響く。それは、彼女が過去と決別した音だった。
「……アルベルト様」
声はまだ掠れていたが、はっきりとした意志があった。
「約束、破ったら殺すから」
「ああ。俺は契約には厳しい男だ。破るような真似はしない」
俺が頷くと、ライラはぽってりとした唇を微かに綻ばせ、小さく頷いた。
こうして、予期せぬ深夜の訪問者は、首元の刃から俺を守るもっとも身近な盾へと変わった。
時計の針は三時を回ろうとしている。明日の朝から、彼女の所属変更の手続きと、専属メイドとしての新しい雇用契約書の作成という仕事が増えてしまったが、命を落とすことに比べれば安いものだ。
「よし、交渉成立だな。お前はもう上がって、ゆっくり休んでくれ。俺は部屋に戻って少し仕事の続きをする」
俺が立ち上がろうとすると、ライラがスッと立ち上がり、俺の隣に並んだ。
「……いや、まずはしっかり休んでほしいんだが」
「私の仕事は、アルベルト様の睡眠と平穏を守ること。あなたが休まないなら、私も休まない」
無表情のまま、ライラは言い切った。
その言葉の裏にある無言のプレッシャーに、俺は思わず苦笑した。
「……わかった。今日はもう寝よう」
俺の言葉に、ライラは満足げに頷いた。
どうやら、この頼もしい護衛メイドは、俺の労働時間管理にも厳しく目を光らせてくれるらしい。
悪くない。有能な部下というものは、これくらい油断がならない方がいい。
俺は小さく息を漏らし、深夜の廊下を、彼女の静かな足音と共に寝室へと引き返した。




