第1話 鏡の中の極悪人
心臓を、見えない巨大な手で鷲掴みにされ、力任せに握り潰されたような感覚だった。
深夜のオフィス。フロアの照明はとうの昔に落とされ、青白いモニターの光だけが墓標のように等間隔で並ぶ空間。空調の低い羽音だけが響く中、俺は息を吸うことすら忘れたように胸を押さえた。キーボードに置かれた指先から急速に熱が奪われ、ひどい痺れが腕を這い上がってくる。視界の端で、限界まで積み上がったエナジードリンクの空き缶の塔が崩れ落ち、アルミの乾いた音が遠くで響いた。誰もこちらを見ない。皆、自分のタスクに殺されかけていて他人の死に構う余裕などないのだ。
ああ、これは駄目だ。完全にショートした。
薄れゆく意識の中で、冷静なもう一人の自分が、致命的なエラーを吐き出し続ける基幹システムを眺めるように自身の死を客観視していた。絶対に終わらない納期、無意味なリスケジュール、クライアントの終わりのない無茶振り、そして現場にすべてを押し付けて逃げる上層部。デスマーチという名の終わらない地獄が頭の中で渦を巻き、やがてぷつりと、古い電球が切れるように俺の意識は暗転した。
三十代、独身。役職はプロジェクトマネージャー。
死因、過労。
それが、社畜としてすり潰された俺の、終わりの記憶のはずだった。
★★★★★★★★★★★
「……ここは」
目覚めは、ひどく静かなものだった。
背中にあるのは、会社の床に敷いた薄っぺらい仮眠用マットレスの嫌な硬さではなく、体が深く沈み込むような分厚く柔らかな羽毛の感触だった。極上のシルクと思しきシーツが肌に触れる。鼻を突くのは埃と古くなったコーヒー、それに徹夜明けの体臭が入り混じった社内の臭いではない。微かに香る、頭が冴え渡るような高価な香の匂いだ。
ゆっくりと重い瞼を開ける。見慣れない、高く豪奢な天蓋が視界に入った。繊細な刺繍が施された布地が波打っている。
身を起こそうとして、ふと決定的な違和感に気づく。
体が、嘘のように軽い。
慢性的な肩こりも、腰の痛みも、常に鉛を飲み込んでいるかのような胃の重さも欠片ほどもない。何より、指先一つ動かすのにも苦労していたはずの四肢に、内側から弾けるような活力が満ちている。心臓は力強く血を送り出し、肺は澄んだ空気をたっぷりと吸い込める。
毛布を跳ね除けて立ち上がった。足裏に触れるのは、ふかふかとした毛足の長い絨毯。緻密な幾何学模様が織り込まれている。
部屋の造りは、中世ヨーロッパの貴族の寝室といった風情だ。歴史オタクとしてのささやかな知識が、調度品の様式や壁掛けのタペストリーの織り方から、それが安物の模造品やテーマパークのセットなどではなく、本物のアンティーク──あるいは、この世界の「日常の品」であることを強烈に告げている。
壁際に、身の丈ほどもある豪奢なアンティーク調の姿見があった。
そこへ歩み寄り、自分の姿を映し出した瞬間、俺は思わず動きを止めた。
「……誰だ、これは」
低く、地を這うような声が出た。記憶にある自分の声ではない。凄みがありすぎる。腹の底から響くような重低音。
鏡の中にいたのは、圧倒的な「暴力」の気配を全身に纏った男だった。
年齢は三十代前半といったところか。俺が死んだ時とそう変わらないはずだが、放っているオーラが決定的に違う。
プラチナブロンドの髪はサイドが短く刈り上げられ、後ろへと流されている。鋭く切れ長な三白眼は、ただそこに在るだけで相手を威圧し、竦み上がらせるほどの強烈な眼光を放っていた。眉間には深く刻まれた皺があり、不機嫌さを常態化させているように見える。
さらに異常なのは、その肉体だ。
はだけたシルクの寝巻きの間から見えるのは、大理石の彫刻のようにバキバキに鍛え上げられた胸筋と腹筋。無駄な脂肪など一切なく、歴戦の戦士のようにしなやかな筋肉の鎧を纏っている。首筋から肩にかけてのラインは逞しく、ただ立っているだけで捕食者のようなプレッシャーがあった。
どこからどう見ても、裏社会を束ねる冷酷なドンか、触れただけで殺されそうな危険な輩だ。
呆然とその極悪な顔を見つめていると、ズキリ、と頭の奥で鋭い痛みが走った。
それと同時に、濁流のように「見知らぬ記憶」が脳内に流れ込んでくる。
領民が血の滲むような思いで稼いだ金を搾取して作った、悪趣味な黄金の杯。逆らう者は容赦無く踏みにじる快感。
反抗的な態度をとったという理不尽な理由だけで、暗く冷たい地下牢に繋がれ泣き叫ぶ使用人の顔。
重税に喘ぎ、領地の境界で今にも爆発しそうに燻る不満の火種。それらを鼻で嗤う傲慢な自分。
「……アルベルト・フォン・ルクセンブルク」
無意識のうちに、その名を口にしていた。
俺の、今の名前だ。そして、その名前にはひどく聞き覚えがあった。
前世の休日、デスマーチからの現実逃避のためだけに狂ったようにやり込んでいた大人気シミュレーションRPG『レジェンド・オブ・ユグドラシル』。その序盤から中盤にかけて、主人公である勇者たちの前に立ち塞がる、巨大な壁。
重税を課し、領民を奴隷のように扱い、私腹を肥やす悪逆非道の領主。
それが、アルベルト・フォン・ルクセンブルクだ。
前世の記憶と、この肉体が刻んできた知識が完全に統合され、俺は現状を正確に理解した。
「なるほど。デスマーチの次は、物理的なデスゲームというわけか」
鏡の中の極悪人が、酷薄な笑みを浮かべた。ただ自嘲しただけなのだが、我ながら背筋が凍るほどの悪人面に仕上がっている。
ゲームのアルベルトは、最終的にどうなるか。
答えはシンプルにして残酷だ。度重なる圧政により領民の怒りが限界を突破して大規模な反乱が起き、そこへ正義の味方として駆けつけた勇者パーティーによって討ち取られる。鎖に繋がれて王都へ引き立てられ、民衆の憎悪に満ちた石礫を浴びながら断頭台の露と消える。
確実な「処刑エンド」だ。
しかも、アルベルトの記憶を照らし合わせる限り、領内の不満はすでに限界に近い。反乱の火の手がいつ、どこから上がってもおかしくない、まさに綱渡りの状態だ。
「……お断りだ」
俺は深く息を吐き出し、過酷な運命を突きつけてくる鏡から視線を外した。
前世では過労で死ぬまで身を粉にして働き続けて、次に目が覚めたら処刑を待つだけの悪役貴族?
ふざけるな。俺はもう、顔も知らない誰かのために命を削るのも、無能なシステムの犠牲になって理不尽に殺されるのも御免だ。
八時間しっかり寝て、美味い飯を食い、サウナで整う。そんな平穏で人間らしいスローライフを送ってやる。
そのためには、今のこの最悪な状況──反乱の火種を完膚なきまでにへし折る必要がある。
俺は寝巻きを乱暴に脱ぎ捨て、巨大なクローゼットを開けた。
ずらりと並んでいるのは、これ見よがしに豪華で、無駄なフリルや金糸の装飾が多く、やたらと肩の凝りそうな貴族服ばかりだ。血税の結晶とも言える悪趣味な衣服の山に舌打ちをしつつ、その中で一番シンプルで動きやすそうな黒のシャツとスラックスを選び出した。首元が窮屈なのは作業効率を下げるし、肩が凝るので、ボタンは胸元まで大きく開けておく。
少し物足りなく感じたので、机の上に無造作に置かれていたゴツめの魔導具のネックレスをいくつか首に引っかけた。銀と魔石の冷たい重みが肌に伝わる。
着替え終えた自分の姿を見下ろす。貴族というよりは『これからカジノを襲撃するマフィアの幹部』のような姿になっていたが、肩が回るならこれでいい。
寝室の重厚な扉を開けると、廊下に控えていたメイドと護衛の騎士が、弾かれたように背筋を伸ばした。
手にした銀のトレイをカタカタと微かに鳴らすエプロン姿のメイドと、直立不動のまま冷や汗を流す甲冑姿の騎士。二人とも、顔面が蒼白だ。俺と目が合ったメイドに至っては、小刻みに震え始めている。
俺の極悪な顔立ちのせいか、それともこれまでのアルベルトの行いのせいか。おそらく両方だろう。彼らにとって、この主はいつ理不尽な暴力を振るうか分からない猛獣そのものだ。
「おはよう」
俺が静かに声をかけると、メイドはビクッと大きく肩を跳ねさせた。
「お、おはようございます、閣下……! あ、朝食のご用意は……!」
「後でいい。それより、執務室を開けてくれ。いくつか確認したい資料がある」
「し、執務室、でございますか……?」
メイドが信じられないものを見るような目をした。
記憶を探る。どうやら、元のアルベルトは執務室に寄り付かず、面倒な書類仕事の大半を文官に丸投げし、自分は遊戯室や社交場に入り浸っていたらしい。朝から仕事に向かおうとする主の姿は、彼らにとって天変地異の前触れのようなものだ。
「ああ。今日の午前中は誰も入れるな。……お前、顔色が悪い。睡眠は足りているのか?」
「ひっ……!」
(いつもは『ゴミ虫』と呼ぶ私を、閣下がわざわざ気遣うような言葉を……? まさか、すでに人間として扱われていない、あるいは切り捨てるという冷酷な宣告なのか!?)
目に見えて動揺し、トレイを落としそうになるメイドを、俺は不思議に思いながら見つめた。
「は、はい! 十分に休息を頂いております!」
「そうか。ならいいが、目の下にクマができている。倒れられると後処理が面倒だ。今日はもう下がって休め。護衛のお前もだ。扉の前には誰もいなくていい」
「えっ……しかし……」
戸惑う護衛の騎士を鋭い視線で制する。
「何か不満か?」
「い、いえ! ただちに!」
二人は命からがらといった様子で、廊下の奥へと逃げるように消えていった。
「倒れられると後処理が面倒だ」というのは、貴重な人的リソースを無駄に失いたくないという元PMとしての純粋な本心なのだが、どうやら「目障りだから消えろ」とでも解釈されたらしい。この顔と低すぎる声、そして過去の悪行の蓄積は、どうにもコミュニケーションの障害になりそうだ。
まあいい。今は彼らの誤解を解いている余裕すらない。
重い足取りで廊下を進み、執務室に入って重厚なマホガニーのデスクに座る。
机の上には、未決裁の書類が山のように積まれていた。放置されたプロジェクトの残骸だ。埃を被った羊皮紙の束が、俺の平穏な未来を阻む壁のようにそびえ立っている。 俺は魔導具のネックレスに軽く触れてから、気持ちを切り替えるように一番上の書類を手に取った。前世で何千回と繰り返した、崩壊寸前のプロジェクトの現状把握である。
「……ひどいな」
数枚の書類に目を通しただけで、激しい頭痛がしてきた。
税収の報告書。昨年の麦の収穫量に対して、税の徴収率が八割に設定されている。これでは領民は文字通り霞を食って生きていくしかない。明日の活力すら奪う、経営者として最低の愚行だ。
次に、領内のミスリル鉱山の採掘報告。前月比で百五十パーセントの採掘量アップが記録されているが、設備投資や人員増強の決裁記録はどこにもない。つまり、現場の労働時間を無理やり延ばし、安全基準を完全に無視して精神論でノルマを達成させているだけだ。
典型的な、デスマーチの末期症状である。
数字の辻褄を合わせるために現場の人間をすり潰し、破綻の予兆を隠蔽している。このままいけば、数ヶ月以内に鉱山で大規模な崩落事故が起きるか、あるいは飢えた農村から暴動の火の手が上がるのは火を見るより明らかだ。
前世で、現場の悲鳴を無視して無茶なスケジュールを組み、プロジェクトを崩壊させた無能な上層部の顔がフラッシュバックした。
ブラックな環境は、必ずどこかで致命的なバグを起こす。そして、そのシステムエラーのツケを最終的に払わされるのは、末端の人間か──あるいは、その上に立つ今の俺だ。
「……冗談じゃない。誰がこの尻拭いをすると思っているんだ」
と、俺は書類を乱暴に机に放り出した。羊皮紙がばらばらと床に散らばる。
領民が憎いわけでも、権力を振りかざして悦に浸りたいわけでもない。ただ、俺は俺自身の安らかな睡眠と、平穏で誰にも邪魔されない休日のために、このふざけた現状をどうにかしなければならない。
反乱の火種を消すにはどうすればいいか。
至極単純なロジックだ。不満の根源を絶てばいい。
労働環境を劇的に改善し、正当な対価を払い、十分な休息を与える。
税率を適正な数値まで引き下げ、無理なノルマは即座に撤廃する。
要するに、この領地を、誰もが羨む「完璧なホワイト環境」へと作り変えるのだ。
だが、これを俺一人でやるのは物理的に不可能だ。俺の目的はあくまで「自分が楽をすること」であって、領地経営に身を粉にして再び過労死することではない。
そのためには、実務を完全に任せられる「極めて優秀な人材」が絶対に必要になる。
今のルクセンブルク領の上層部は、アルベルトの顔色を窺って数字を捏造するだけのイエスマンか、私腹を肥やすことしか考えていない悪徳貴族ばかりだ。全員、クビにするか物理的に排除するしかない。
外部から、あるいは不遇な環境に置かれている「本物」をスカウトする必要がある。
俺の脳内に眠る、ゲームの知識がここで最大限に生きるはずだ。
俺はデスクの引き出しから白紙の羊皮紙と羽ペンを取り出し、頭の中にある情報を整理しながら書き出し始めた。
・原作でこの後登場する有能なキャラクター。
・現在、不遇な扱いを受けている、あるいは敵対している人材。
・彼らを「圧倒的な好待遇」で引き抜くための予算の確保とポストの用意。
ペンを走らせる手が止まらない。
前世で炎上プロジェクトを立て直す時の、あのヒリヒリとした感覚が蘇ってくる。ただし今回は、顔色を窺うクライアントも、無理解な上司に頭を下げる必要もない。
俺自身がルールであり、俺が絶対の決裁権者だ。
「よし。まずはタスクの洗い出しと、人事の刷新からだ」
羊皮紙に最後の一筆を加え、書き上がったリストを見つめて満足げに目を細める。
だが、俺がやろうとしているのは、この領地を誰もが平穏に暮らせる場所に作り変えること──要するに、徹底した『休息』の付与だ。 フッと不敵に口角を上げる。 前世で果たせなかった「穏やかなスローライフ」を掴み取るため、極悪領主の奇妙な改革が、今ここに動き出そうとしていた。




