第15話 氷の処刑人の亡命
朝の光が差し込む洗面所で、低く獰猛な唸り声が響いていた。
「グルルルル……ッ!」
視線を落とすと、金色の毛玉――ブランが、床に落ちていた分厚いバスタオルを相手に死闘を繰り広げていた。短い脚を踏ん張り、強靭な顎でタオルの端に食らいつき、ちぎれんばかりに首を振っている。タオルが布のしなりで反撃するようにブランの顔にバサッと被さると、彼は「くぅん!」と短く鳴き、すぐさま体勢を立て直して再び飛びかかった。
まだ幼いとはいえ、魔獣の本能が布切れ相手に爆発しているらしい。尻尾の先から微かに青白い魔力の炎が漏れ出ているのが、なんとも愛らしかった。前世では、炎上プロジェクトの合間に動画サイトで犬の映像を見て心を保っていたものだが、やはり本物の温もりと無邪気さには敵わない。
俺はしゃがみ込み、タオルの反対側をそっと掴んだ。
「その相手は、ブランにはまだ少し手強かったかな」
優しく声をかけながら軽くタオルを引くと、ブランはハッとして動きを止め、俺の顔を見上げた。そして、パッとタオルを離すと、何事もなかったかのように短い尻尾を振り、俺の足元へすり寄ってきた。
「はっ、はっ」
嬉しそうな顔で甘えてくる頭を撫でてやる。
「元気なのは良いことだ。さあ、朝の支度を済ませてしまおう」
柔らかな毛並みの感触に少しだけ心がほぐれるのを感じながら、俺は洗面台へと向かった。
★★★★★★★★★★★
執務室のデスクに座ると、すでに本日の業務書類が整然と並べられていた。不要なものは弾かれ、俺の決裁が必要なものだけが優先度順に配置されている。
「おはよう、クロエ。昨日のバルデマル男爵の件、その後の動きはどうなっている?」
俺が尋ねると、デスクの斜め前に控えていたクロエが静かに一歩前に出た。
「おはようございます、アルベルト様。男爵が自作自演のクレームをつけてきた直後、ディアナが即座に動きました。彼の領地で運用されていた裏帳簿と、不当な資金繰りの証拠を完全に押さえております。現在、関連する商会の資産凍結を進めている段階です」
クロエの報告は、相変わらず無駄がなく的確だ。ディアナとの連携も見事で、流れるように実務が処理されていく。
「見事な手際だ。彼女の実務能力には本当に助けられる」
俺は素直に称賛を口にしつつ、手元の書類に目を落とした。
「だが、少し課題もあるな。不正の証拠は揃っているが、それを裁くための明確な『法的手続き』を担う人材が、今のうちの陣容には不足している」
いくら相手が理不尽な要求をしてきたとはいえ、力や財力だけで強引に資産を差し押さえれば、周囲からはただの略奪と見なされかねない。俺が求めているのは、誰もが納得し、反発を生む余地のないクリーンな組織運営だ。ルールに基づいた厳格なコンプライアンス管理こそが、不要な軋轢を減らし、俺の長期的な平穏を約束してくれる。
「法と秩序の専門家が必要だ。感情や権力に流されず、事実と規則のみを重んじるような人間が」
俺がそう呟いた時だった。
音もなく執務室の扉が開き、ライラが姿を見せた。手にはいつも通り銀のトレイを持っているが、その虚ろな瞳はどこか警戒の色を帯びていた。
「アルベルト様。館の正門前に、武装した人間が一人、立っている」
彼女の気怠げな声には、微かな緊張感が混じっていた。暗殺者として極限まで研ぎ澄まされた彼女の感覚が、相手の尋常ではない実力を察知している証拠だ。
「武装している? どこの所属か分かるか」
「……王国の、王属騎士団。しかも、一番偉い人だと思う。鎧の装飾が特別だから。でも、戦う気はないみたい。剣を鞘に収めたまま、動かない」
王属騎士団長。その単語に、クロエの瞳が鋭く細められた。
「王国最強の盾と謳われる『氷の騎士』が、なぜ単騎でこのような場所へ……。アルベルト様、罠の可能性がございます。私が排除いたしましょうか」
「いや、待ってくれ。単騎で正門に立っているのなら、まずは話を聞くのが筋だ。こちらから出向こう」
俺は椅子から立ち上がり、ジャケットを羽織った。
★★★★★★★★★★★
朝の澄んだ空気に包まれた正門前。
そこに立っていたのは、一人の美しい女性だった。
艶やかなブラウンの髪をきっちりと編み上げ、一糸乱れぬスタイルを保っている。銀色に輝く重厚な騎士の鎧を身に纏っているにもかかわらず、その立ち姿には暴力的な威圧感よりも、張り詰めたガラスのような気高さがあった。
透き通るような白い肌と、クラシカルで気品のある顔立ち。だが、俺を見つめるオリーブグリーンの瞳には、ひどく冷たく、そして切実な光が宿っていた。
「ルクセンブルク領主閣下」
彼女は俺の姿を認めるなり、腰に佩いていた長剣を静かに外し、石畳の上に置いた。そして、迷うことなくその場に片膝をつき、深く頭を垂れた。
「突然の非礼をどうかお許しください。私は王属騎士団長、エレナと申します」
凛とした、よく通る声だった。
「王国最強の騎士が、何の用かな。剣を置くということは、敵対の意思はないと受け取っていいのだろうか」
俺が静かに問いかけると、エレナは顔を上げ、俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「はい。私は本日をもって祖国を見限り、剣を捨てました。ルクセンブルク領への亡命を、どうかお認めいただきたく存じます」
その言葉に、背後に控えていたクロエが微かに息を呑む気配がした。
「亡命だと? 冗談にしては悪趣味だ。王国の法と秩序の象徴である君が、なぜ国を捨てる必要がある」
俺は相手の真意を測るため、あえて少し低いトーンで言葉を返した。
エレナのオリーブグリーンの瞳が、苦痛に歪んだ。
「法と秩序……。ええ、私はかつて、王国の正義を信じていました。しかし、今の王国にあるのは、法をねじ曲げて私腹を肥やす貴族たちと、それに加担する腐敗した上層部だけです」
彼女の声に、抑えきれない怒りと絶望が滲む。
「現場の騎士たちは『国への名誉』という名目のもと、無給での過重労働を強いられています。部下が倒れても休養は与えられず、抗議の声を上げれば『忠誠心が足りない』と精神論で圧殺される。上官からの不当な命令――パワハラや搾取が常態化し、それに逆らえば反逆罪に問われる。あれはもはや、組織ではありません。ただの地獄です」
前世で何度も耳にした、崩壊するブラック企業の典型的な末路だ。
名誉ややりがいという言葉を盾にして、正当な対価を支払わず人材を使い潰す。現場の人間がどれほど誠実に働こうと、システムそのものが腐っていればどうにもならない。結果として、最も真面目で優秀な人間から先に壊れていく。
「私は自身の信じる正義を見失いかけていました。そんな時、ルクセンブルク領の噂を耳にしたのです」
エレナの瞳に、かすかな熱が灯った。
「アルベルト様が布告された『就業規則』……残業の禁止、ハラスメントの厳罰化、そして何より、全ての領民に等しく適用される法の徹底。その噂が真実であるか、私は密かに調査を行いました」
彼女は胸元から、丁寧に折り畳まれた一枚の羊皮紙を取り出した。それは、俺が先日発布した領内のコンプライアンス規定の写しだった。
「驚愕しました。権力者であっても不正を行えば裁かれ、労働者の権利が明文化された規則によって守られている。これこそが真の法であり、絶対の正義です。私は、この完璧な秩序を体現されるアルベルト様の下で、真の法務を全うしたいと強く願うようになりました」
彼女の言葉には、一片の嘘もなかった。
長年信じてきたものを裏切られ、それでもなお、正しいルールと秩序を求めずにはいられない生真面目さ。その狂おしいほどの誠実さは、組織のコンプライアンスを担う者として、これ以上ないほど適任だった。
「……なるほど、事情はよくわかった」
俺はゆっくりと歩み寄り、彼女の前に立った。
「『名誉』や『忠誠』といった聞こえのいい言葉でやりがいを搾取し、正当な対価を払わないのは、組織を預かるトップとして最低の愚行だ。君はそれに気づき、自らの意思で行動を起こした。その判断力と、法を重んじる姿勢を俺は高く評価する」
エレナの肩が、微かに震えた。自分のこれまでの苦悩と決断を、正面から肯定されたことによる震えだった。
「君の亡命を受け入れよう。ただし、剣を振るう騎士としてではない」
「……では、私に何を」
「我が領の法務・コンプライアンス統括、および首席裁判官のポストを君に任せたい。君のその誠実さと法律への深い理解で、この領地のルールを厳格に守り抜いてほしいんだ」
エレナは大きく目を見開き、信じられないものを見るように俺を見上げた。
「私のようなよそ者に、そのような重役を……よろしいのですか?」
「俺は結果と実務能力を重視する。君が適任だと判断した、それだけだ。もちろん、待遇は保証するし、休日はしっかりと取ってもらう。……やってくれるか」
エレナは少しの間沈黙し、やがて、その美しい顔に決意の表情を浮かべた。
「……はい。この命に代えましても、アルベルト様の定められた『完璧な秩序』を守り抜いてみせます」
「頼りにしている。ただ、その目立つ鎧は少し仕事に不向きだな。ディアナが法務部門のために用意していた服があるはずだ。まずはそれに着替えてもらうとしよう」
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数時間後、執務室。
「……お待たせいたしました、アルベルト様」
扉が開き、入ってきたエレナの姿に、俺は少しだけ目を丸くした。
銀色の甲冑を脱ぎ捨てた彼女が身に纏っていたのは、黒を基調としたタイトな軍服風のスーツだった。装飾を極限まで削ぎ落とした禁欲的なデザインだが、それがかえって彼女のすらりとした長身と、鍛え上げられた無駄のないプロポーションを際立たせている。首元までしっかりとボタンを留め、髪を一糸乱れぬスタイルにまとめた姿は、冷徹な美しさと、隠しきれない高貴な色気を放っていた。
彼女の腕の中には、剣の代わりに、分厚い『ルクセンブルク法典』が抱えられている。
「よく似合っている。動きやすさも問題ないかな」
「はい。無駄な装飾がなく、実務に集中できる素晴らしい服です。……アルベルト様、早速ですが、昨日のバルデマル男爵の件、書類に目を通しました」
エレナはデスクの前に進み出ると、冷ややかな、微塵も感情の揺れない声で報告を始めた。
「明らかなハラスメント行為および、営業妨害。加えて、彼の領地における数々のコンプライアンス違反。これらは我が領の就業規則に真っ向から反する重罪です」
「ああ、その通りだ。他国との取引であっても、うちの商隊に対する不当なハラスメントには厳しく対処してほしい。毅然とした態度で、法に基づく処置を頼む」
俺がそう指示すると、エレナのオリーブグリーンの瞳の奥に、氷のような冷徹さと、狂信的な光が同時に灯った。
「承知いたしました。アルベルト様の定められた法と秩序に従い、過不足なく処置してご覧に入れます」
エレナは恭しく一礼し、法典を抱え直した。
「アルベルト様の定めたルールを破る者、あなた様の安寧を脅かす者は、いかなる地位にあろうと逃しはしません。それが、このルクセンブルクの法であり、私の新たな剣です。……ただちに、執行の準備に取り掛かります」
エレナは振り返り、一分の隙もない足取りで執務室を後にした。
残された俺は、パタンと閉まった扉を見つめながら小さく息を吐いた。
「少し、極端な解釈をしている気もするが……まあ、法律の専門家が毅然と対応してくれるなら、問題は起きないだろう」
俺はコーヒーカップを手に取り、ようやく減り始めた書類の山へ再び向き直った。
仕事が早すぎる新任法務官の手腕に期待と若干の胃の痛みを覚えつつ、俺はとりあえず減り始めた書類の山を片付け、今夜こそ定時に帰るための作業を再開したのだった。




