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あの子は人間

 お弁当の時間になった。

 お人形は、小さな小さなお弁当をかばんから取り出す。

 お花の形に切った人参、うさぎの形に切ったりんご、ご飯は小さく一口大に丸めてそれぞれ華やかな色合いになるように、ふりかけがかけてある。母が少しでも食べられるように、と随所に工夫を凝らしたお弁当であった。

 しかしそれでも食べるのには人一倍、時間がかかる。

 もぐ、もぐ。もぐ、もぐ。

 もぐ、もぐ。もぐ、もぐ。

 もぐ、もぐ。もぐ、もぐ。

 別に何かに気を取られているわけではない。お弁当だけに向き合って、休むことなく口を動かしている。

 それでも一口一口に、尋常ならざる時間がかかる。

 もう教室では誰もが食べ終わって、それぞれお絵描きだの積み木だのに興じている。

 でも朱里は一人背をきちんと伸ばしたまましきりに咀嚼を繰り返し、まだ小さな小さな弁当は半分も食べ終わっていない。

 その内に外が晴れ始めた。実に数日ぶりの太陽である。

 大地は「あー! 雨やんだべ!」と言い切らない間に、外へ駆け出していく。

 「大地君、待ちなさい!」先生の声も届かない。

 大地に続いて、何人もが外へ飛び出した。

 もぐ。もぐ。……もぐ。もぐ。

 朱里ははしゃぎ始めた友達には見向きもせずに、ゆっくりゆっくり食べ続けている。

 外ではブランコ、滑り台、ジャングルジムがすぐに園児でいっぱいになった。すぐに数人の幼稚園教諭がつく。

 「朱里ちゃん、おいしい?」

 朱里は生真面目な顔でこくりと頷く。

 「良かった」

 花形の人参は半分食べられた。ご飯はまだ。これはまだまだ時間がかかる、と思い担任教師は廊下から心配そうにのぞき込んでいる隣のクラスの担任に目くばせをした。

 ーーまだ朱里ちゃんお弁当食べ終わらないので一人にできないから、外で遊んでいる子たちをお願い。特に大地君。

 隣のクラスの担任は力強く頷く。

 担任はほっと安堵のため息をつき、そして目の前の朱里を見る。どこから見ても女の子の風貌。大きな瞳、長い睫毛。ピンク色のつやつやした唇。真っ白な肌。でも男の子だ。

 今年度の頭に担任をする子どもたちを園長から発表された時には、正直、驚いたものだ。

 「さくら先生には、少々難しい子を担任してもらいます。」

 「え、どういうお子さんですか?」

 「鈴木朱里くん。お話ができません」

 「……はあ」

 内気な子なのかな、と思った。でもだとしたらなんの問題もない。その程度のお子さんは今までに何人も見てきた。卒園する頃には、びっくりするぐらいにおしゃべりになった子もいるし、お友達に話しかけることは難しくとも、自分にだけはお話をしてくれる子もいた。成長の度合いは人それぞれだ。

 「親御さんにも、お話はできないとのことです」

 「え、親御さんにも? 緘黙ではないのですか?」

 「ええ。診断書をお出し頂いていますが、緘黙ではありません。声帯にも問題はないようですが、今のところこれといった原因は不明。ちなみに、知能に問題はないとのことです」

 「……はあ」

 「そして男の子ですが、女の子の服装を好んでおり、おそらく幼稚園にも女の子の服装で登園されるとのことです」

 「……はあ」もう、なんだか頭がいっぱいになる。「……なんて呼んであげたらよいですかね。『くん』付けはまずいでしょうかね」

 「そうですね。……そこまでは親御さんも要求されてはいませんでしたが。反応を見て好きな形で呼んであげたらよいのではないでしょうか」

 「でもたった三歳で、そこまで性別に関する自我があるでしょうかね。親御さんが変わった方なのではないでしょうかね」

 「親御さんは県会議員の先生です。ちなみにおじいさまはあの鈴木万里先生」

 「え」担任は思わず頓狂な声を上げる。「あの、鈴木議員のお孫さん?」

 「そうです。お兄さんたち四人全員うちの卒園生でもあります。ですからさくら先生にお願いしたいのです。幼稚園教諭として二十年目。押しも押されぬベテラン。それに今まで何人も、大変なお子さんを見てこられたでしょう。うちで朱里くんをお任せできるのは、さくら先生以外にはいませんから」 

 担任教諭は目を瞬かせる。

 「まあ、親御さんがどんな方であれ、私がやるべきことは変わりません。今までも、これからも」

 「ええ、もちろんです」園長はしきりに頷いた「とにかく、よろしく頼みましたよ」

 しかし実際会ってみると、保護者に言われるまでもなく自然と「朱里ちゃん」という呼称が口を突いた。フリルのついたスカート。フリルのついた靴下。頭にはレースのリボン。どうみても男の子の風貌ではない。おまけに顔立ちも愛らしかった。珍しいくらいに。

 送迎にやってくる母親の呼びかけに耳を傾けていると、なんと「シェリーちゃん」などと呼んでいる。周りの子たちも先生にならって、朱里ちゃん、が呼称となった。とても男の子だとは考えもしないのだろう。みんな当たり前に朱里ちゃん、と呼んだ。

 しかし返事はないし、一緒に誰かと遊ぶということもない。でも丁寧に朱里の表情を見ていれば、普通の子供と同じように感情があることに担任は気づいた。

 朱里は喋らない分、人一倍字に興味を持っていた。絵本は他の誰よりも目を大きく開けて見入っている。自分で読む時も多い。その時には絵ばかりではなく、ひらがな一つ一つを丁寧に目で追っている。そしてその内容に驚いたり、悲しんだり、嬉しがったりすることもある。

 そして3歳にしてひらがなを書いた。

 お絵描き帳には、お姫様の絵と共に自分の名前を練習したのか、「しゅり」とたくさん書かれている。たしかに、知能は遅れているどころかかなり発達が早いものと判断せざるを得ない。

 朱里は友達は作れなくとも、それなりに毎日絵本を読んだり、絵を描いたり、日々幼稚園生活を満喫しているように見えた。お弁当には少々難儀をしているようであったが。


 梅雨の合間の晴間はわずかであった。

 また雨が降り出し、園児たちは文句を言いながら教室に戻ってくる。しぶしぶ大地も頭を濡らしながら一番最後に戻って来た。

 「別に雨降ったって、外で遊んでていいべ。なんでダメなんだべ」廊下で大きな声で、しきりに隣のクラスの担任に訴えている。

 「風邪をひいちゃうでしょ」

 「おれ、風邪なんてひいたことねえ」

 始終熱を出す朱里はそれを聞いてびっくりする。

 「風邪引かなくても、お着換えもなくっちゃ、びしょびしょの服でお迎えまでいるしかないのよ。気持ち悪いでしょ」

 「裸でいればいいべ」

 「恥ずかしいでしょ! そんなの絶対ダメです!」

 さすがに怒られ、大地は席に着く。さて、何をしようか。何をしてやろうか。

 すると朱里が目に入った。

 ーー人形様だべ。

 大地は内心そう思いつつ、朱里に近寄る。目が合った。

 「おめ、人形様か?」

 「……」

 「おめ、ばあちゃんの部屋にある人形様にそっくりだべ」そう言って大地は笑った。

 「ほれ、そのフリフリしたはき物どか、頭さ付けた布っ切れとか」

 そう言ってリボンに触れたら、手に付いた泥で汚れてしまった。大地はさすがに慌てる。

 「あれ!」

 拭こうとして、手のひらで触ったらさらに汚れが拡大する。

 「あれ、どうすべ! 汚れちまったべ! 大変だ! 洗ってやるから、こっち来い!」

 大地は朱里の手を引っ張り、水飲み場まで走る。

 朱里の頭を水道の蛇口に付け、泥を丁寧に洗い流す。

 その時、朱里の喉の奥から、くつ、くつと言ったような妙な音が発せられた。

 大地は不思議に思って、顔を覗き込む。

 「笑ったな? おめ、人形様でねえな?」

 朱里は真顔で水を滴らせながら大地を見つめた。

 「やっぱし! おめ! 人形様でねえ!」

 大地はそう言ってにっこりと笑った。

 濡れたリボンを頭に引っ付けて、朱里は大地に手を引かれながら教室へ戻ってくる。

 「そうだ。ばあちゃんの人形様の絵描いてやる! おめにそっくりだから!」

 大地はそう言ってほとんど真っ白の自分のお絵描き帳とクレヨンをロッカーから取り出し、勢いよく絵を描き始めた。

 「こっだに長い白いスカートさはいて、……頭さキラキラのくっつけで、……目はまん丸くて、……髪の毛はこう、くるくるしてだな。……ほれできた! よぐ似てるべ!」

 朱里は目を瞬かせて絵を見た。

 ーー似て、るのかな? 私はこんな風に見えているのかな?

 そこに先生がやって来た。

 「あら、大地君。朱里ちゃんの絵を描いてあげたの?」

 ばあちゃんの部屋にある人形が朱里似ているからそれを教えるために描いた、という説明はあまりに煩雑だったので、大地は、

 「ほだ」とだけ答える。

 先生は大地が暴れまわらずに、絵を描けたことに甚く感動する。

 「すごいじゃないの、とても素敵に描けてる。ねえ、朱里ちゃん?」

 朱里は少々の間は要したものの、静かに頷いた。

 「しゅりっていうのが……。やっぱ人形様でねえ!」

 「人形様?」

 「人形様でねえなら、一緒に遊ぶべ!」

 またすぐに大地は朱里の手を取って立ち上がらせる。

 この男の子ーー大地は、本当に何もかもが慌ただしい。ちっともじっとしてはいない。朱里にとってそれは新鮮であると同時に、なぜだか心が浮き立った。

 「あ! また晴れできだ! 外さ行くべ!」 

 朱里はまた手を引かれ、大地と一緒に外へ飛び出す。

 「大地君!」先生の声は聞こえていない。その時、大地のポケットからみみずが三匹落ちて教室の床を這いまわった。

 即座に女の子の悲鳴が上がった。

 「きゃー!」

 「先生ー!」

 「みみず! みみずがいるー!」

 泣きながら女の子たちが慌てて先生のところに駆け寄ってくる。

 「え? は? みみず?」

 見ると床にはみみずが三匹、うねうねと元気いっぱいに暴れている。

 「大地くんのポケットから出てきた!」別の男の子が言った。

 「大地君!」しかし呼んだところでもはや大地はそこにいないのである。

 「もう、何やってるの!」先生は気味悪くもみみずをそっと両手で掬い、窓から放り出す。

 しかし外を見ると、普段お友達と関わることのなかった朱里が、大地と一緒になって走っている。ジャングルジムに真っ先に上った大地が、朱里の手を引く。朱里はゆっくり、ゆっくり手を伸ばし、一段、二段と慎重に上がっていく。

 担任は、ほお、と長い息を吐いた。

 二度目の晴間は終わらなかった。

 やがて保護者のお迎えの時間になる。

 純白のレクサスに乗って現れた朱里の母は、朱里がジャングルジムを登っている姿を見て瞠目した。

 しかもいつも一人でいたはずだのに、隣には元気いっぱいな男の子と手を繋いでいる。

 朱里は母を見つけるなり、一歩、一歩ジャングルジムを降りて来た。

 母は信じられないといった顔で朱里の目の前にしゃがみ込んだ。

 「シェリーちゃん、今日は一体どうしだ? お外で遊んだのか?」

 朱里はこくりと頷く。

 見ればリボンもワンピースもあちこちが泥で汚れている。

 「こっだに汚して、……お友達、できたのが?」

 朱里はまた頷く。

 思わず母の目には涙が滲んだ。

 「……良かったでねえが!」思わず抱き上げる。

 一方大地の母親も軽トラに乗ってやってきた。

 「母ちゃん!」

 「おめーは、まだこっだに泥まみれんなって! こっだに汚ねえ身形じゃ帰りスーパー寄れねべな! まったぐ……」

 そこに担任の先生がやってきた。

 「先生、……今日も大地は……?」そう母に問われ、先生は苦し気に頷く。

 「今日大地君は、……教室にみみずを三匹放ちました」

 「は?」母は目を丸くする。

 大地はえっへんと胸を反らした。

 「みみず見っげたんだ!」

 「見っけて、なんで教室さ持ってぐんだ、このごじゃっぺ!」母に頭を叩かれる。

 「いで! ごじゃっぺでねえ! 父ちゃん言ってだもの! みみずがいる畑はいい畑だって! だからうぢの梨畑さ連れてってやろうと思ったんだ! だのにあいづら、知らねえうちにポッケから逃げやがっだ」

 そう。いたずらなどではない。完全な善意によるものであった。

 「教室で逃がすんでねえ!」

 大地ははた、と考え込む。「……みみず、畑に連れていっでやれねえで、悪いごとしだな」

 「みみずでねえ! 先生とお友達に悪いことしてんだ!」

 「みみず偉がっぺよ。畑良ぐしてくれんだど? 父ちゃん言ってた」

 母は深いため息をつく。

 「それから今日は」先生は言った。「……木登りをしてお砂場に落ち、シーソーの上でジャンプし落っこちました」

 「何回落っこちんだ! ごじゃっぺ!」さらに大地は叩かれる。

 「次は落っこちねえでやる!」

 「やるでねえ!」

 「しかし、……朱里ちゃんを外遊びに誘ってくれました」先生が切り出す。「おかげで朱里ちゃんが初めて、お外遊びできました」

 母は目を丸くする。

 いつの間にやら近くに来ていた朱里の母が、赤くなった目でお辞儀をする。

 「あれま……」大地の母は恐縮する。

 「しゅり!」大地は朱里に駆け寄る。

 「また明日遊ぶべな!」

 朱里は頷いた。大地の汚れた手でしっかと手を握られる。

 「初めてなんです……」朱里の母は涙声で言った。「うちの子がお友達と遊んだの」

 「へえ!」

 「うちの子、言葉が出ないもので……。それでなかなかお友達ができなくて」

 「そうですか」でも大地は何も気にしていないようである。喋れようが喋れまいが。

 「うぢはうるさいばっかしで迷惑かけますが、どうぞよろしぐ」大地の母はそう言って会釈をすると大地の手を引き軽トラに乗せた。

 シートベルトを付けてやる。

 「母ちゃん!」助手席でもうるさい。「しゅり、似てるべ!」

 「誰にだ?」

 「ばあちゃんの部屋にある、人形様だべ!」

 母はあはは、と笑った。

 「たしかにな! 似たような服着てたな! 顔も可愛い顔してだし、たしがに似でるわ!」

 「だからしゅりに絵描いてやったんだ! 人形様の絵! ほっだら、しゅりも似てるって言った」

 「なに、おめは人形様の絵描けたんか?」

 「描けたど! 上手に描けたって先生にも褒められた!」

 母は声を上げて笑う。

 「そらいがったべ」

 一方、レクサス車内。静かなクラシックが流れている。

 「今日は楽しかったか?」

 朱里はこく、と頷く。

 「ジャングルジム初めて登ったっぺ?」

 再び、頷く。

 「気持ちいがっだが?」

 頷かない。

 「……怖がっだか?」

 頷く。

 母は笑った。「怖いのに登れたんか。あの大地君って子と一緒だから登れたんか?」

 頷く。

 「いがっだな。……明日も遊ぼうって言ってくれでだな」

 朱里の口の端がほんの少し、上がった。


 その日から、大地と朱里の交流が始まった。

 大地はいつもであればお弁当なんぞはものの五分で食べ切り(というよりも口に押し込み)、外にいち早く駆け出していくのであるが、朱里が食べ終わるのを傍でじっと待つようになった。

 朱里もそれを悪いと思うのか、必死の形相でもぐもぐもぐもぐ! もぐもぐもぐもぐ! かつてない速さで完食する。

 「よし! 外さ行ぐべ!」

 そしてジャングルジムに登り、空いたらシーソー。木登りは、……さすがに朱里は下から見上げるだけだったが、大地の遊びについて回るようになった。

 帰りの時間になればもう朱里はクタクタである。裾にフリルの施されたスカートも、頭についたレースのリボンも、汚れてしかもところどころ破けている始末。

 迎えに来た母がそれに感激し、大地の母に礼を言い、大地の母が恐縮するところまでがルーティン化されていく。

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