あの子からのお手紙
ある日、帰りに朱里がもじもじしながら、そっと大地に一枚の折紙を手渡した。
そこには花の絵とそれから何か文字が書いてあったが、無論大地には読めない。
でも朱里に何かをもらうのは嬉しいことだったので、大地は素直に「ありがとう!」とにっこり笑って受け取った。
帰り道。
「これ、しゅりからもらった!」
大地は早速母にその紙を見せつける。
「なんて書いてあんだ?」
「あー」
母はこれは良いチャンスだと思った。普段落ち着いて絵本なぞ読むことなく、未だひらがなもよくわからない大地に字を教え込む絶好の機会であると。
「……母ちゃんが読んでやるより、おめ、自分で読めるようになった方がいいんでねえのが?」
「なに?」
「朱里ちゃんが勉強してせっかく書いてくれたんだど? だのに、おめは母ちゃんに読んでもらって終わりか? おめも自分の力で読めなきゃ、恥つかしかっぺ」
大地の脳裏には、風呂場に張り出されたひらがな一覧表が思い浮かぶ。
毎晩風呂のたびに父ちゃんに教えられているが、泡で遊んだり潜水したりするのに忙しく、いまだ読めるようになっていない。さらにそんなことをしていたので、一つ下の大河の方が先にマスターしてしまっているという始末である。
「ううう。……わがっだ」
帰宅するなり、庭でトラクターの泥を落としていた父に突進する。
「父ちゃん、父ちゃん! 風呂入るべ! 風呂!」
「わがっだわがっだ」
大抵泥だらけで帰ってくるので、すぐ風呂に入れられる習慣である。しかし、こんな風に大地に急かされることはなかった。少々不審に思いつつも、父はホースを片付けて大地を連れて風呂に向かう。
大地はいつになくおとなしく頭をごしごしと洗われ、体も荒々しく擦られた後、湯船につかりながら、しかり今日ばかりは壁に貼られたひらがな一覧表を睨みつけるようにして言った。
「父ちゃん、これ、こっちの端っこから読んでくれ」
「おお? どうした? 今日は勉強すんのが」
「ほだ!」
「あ、い、う、え、……」
大地は父の音を聞きながら、ひらがな一覧表に顔をくっつけんばかりにして一字一字を見つめる。
一通り読み終えた後は質問タイムである。
「だいちの『だ』はどこだ?」
「『だ』はここにはねえ。この、『た』に点々くっ付けだら『だ』になんだ」
「『しゅ』はどこだ?」
「そらあ、なかなか難しい問題だな。この『ゆ』をちっちゃくすんだ。そんで『し』とくっつけてやっと『しゅ』になんだ。これは特別な読み方だな」
「『しゅ』は『し』と『ゆ』が合体してんのが!」
「そういうことだ。ちっと特別なんだ」
「ほが。……『い』はこれだな。お隣のお隣のお隣が『ち』だべ」
「おお、もう覚えちまっだが! おめ、もしやおれに似て天才だな!」
大地はふふん、と鼻を鳴らす。
「じゃあな、今度はおれ読むから父ちゃん聞いてくれ。……あ、い、う、え……」
一周、二周とするうちに手はふやける。顔は赤くなる。
でもこのやたら今日に限って情熱的な向学心をへし折るのは心苦しく、父は何度も大地のひらがな音読を聞きながらああだ、こうだと教えてやるのだった。
「わがっだ! これで読める!」
ついに大地はそう言ってざば! と勢いよく湯船から立ち上がり、父を置いてさっさとタオル一枚纏うと、濡れた体のまま走り出し玄関に放り出したままの幼稚園バッグを開け、朱里の手紙を広げた。
ーー「だ」
「これは『た』に点々の『だ』!」
そして、「い」にその隣の隣の隣に出てくる「ち」!
ーーだいち
最初の一行はすぐにわかった。
「だいち! だいちって書いてある! おれの名前だべ!」
嬉しい。
その次も読んでいく
「あ」これは一番最初に書いてあった字だ。覚えている。
「し」これはしゅりの「し」だ!
「た」これも読める。だいちの「だ」から点々を取った字である。
つながった。「あした」。あしたって書いてある。あした、何をするのだろう? わくわくが止まらない。
そして次の行。
「あ」また、「あ」だ。これは得意だ。最初の字。完璧に読める。
次は……何だろう。このくねくねした字は。忘れてしまった。一覧表のどこかに書いてあった気がするけれど。
大地は頭を掻きむしって、タオルをマントみたいにして素っ裸で風呂に戻る。父ちゃんが体を拭いていた。
「父ちゃん、もう一回だべ!」
父ちゃんを再度風呂場に押し込み、くねくね字を探す。
「あった! このくねくね! なんだ!」
「……『そ』、だべ」
「『そ』か!」
風呂から出る。再び玄関。ーー次の手紙の文字は。
これは難解だ。何せ点々が付いているから、あの一覧表にはない文字。しかもこれに似たような字はいくつかあった気がする。
もはやここまで……。
大地が頭を抱えていると、甚平来た父ちゃんがやってくる。
「どした? 何読んでんで?」
「しゅりに書いてもらったんだ! だから、おれも勉強して読もうと思ったんだ!」
「ほが。……どれ、今度は何が読めね?」
「この点々!」
「……『ぼ』だな」
「『ぼ』、か」やはり難しい。いまだ「は」と「ほ」と「ま」の区別がよくわからないのである。
まあ、今はとりあえず、いい。次の字。
「こら……『う』だ」
「ほだ」
またつながった、ーーあそぼう。一行目とつなげると、ーーあした あそぼう
「……あしたあそぼう……」
大地は素っ裸で飛び上がった。「あしたあそぼうってことか! あした! あそぼう!」父は脱衣所から持って来たパンツとパジャマを無理やり着せる。
しかし手紙はまだ続いている。最後の三つ。
「『し』。この次はちっちゃい丸い字。」
大地はふと気づく、これはさっき父ちゃんにきいた、特別な字だ。
「『しゅ』、ということは、最後は『り』」
ーーしゅり。
「しゅりだ! しゅりの名前だ! 読めた! 全部読めた!」
ーーだいち
あした あそぼう
しゅりーー
大地は胸が熱くなるのを感じた。
朱里があした、あそぼうと言っている。口から言葉は出ないけれど、朱里には言いたいことがあって、それを字にして伝えてくれたのだ。それがとても大地には嬉しかったし誇らしかった。
あした、あそぼう。
何度も胸の中で反芻する。
布団にもぐりながら、木登り、ジャングルジム、シーソー、ブランコ……、次々にどんなことをして遊ぼうか、楽しいことばかりが思い浮かんでくる。
そうしてやがてこの上なく幸福な眠りに落ちていく。
そして翌朝、園庭に朱里を見つけた。
母の運転する軽トラから飛び降りるなり、「しゅりー!」そう叫んで大きく手を振った。
「読めたど! あした! あそぼう! って書いたんだな?」
朱里の口の端が上がる。
「あそぶべ!」
朱里は頷く。大地は朱里の手を取って、駆け出した。
梅雨晴れの朝日が小さな二人の姿を強く、強く強く照らし出していた。




