⑥神殿
「アリシア、私の心は今も」
「──離して、クロード」
扉は閉められている。
自分を元婚約者とするなら、既に不適切な距離で不適切な言葉だ。
アリシアはクロードの手を振り払いながら立ち上がり、距離を取った。
「貴方、私を愛人にする気なの?」
「……そんな、そうじゃない……ただ……」
「貴方はセリーナを選んだのでしょう」
「それも違う、私が選んだのは伯爵家の未来だ」
(詭弁だわ)
そう思ったが口には出さない。
気持ちと共に、頭が急速に冷えていた。
クロードの言葉は矛盾している。
本当に伯爵家の未来を選んだのであれば尚更アリシアを選ぶべきであり、立場上両親に強く出れないから説得できないと言うなら、アリシアに相談すれば良かったはずだ。
本当はセリーナを愛しているとか、領地と王都、ふたりの妻を持てると思ったとか。
或いは『皆に好かれたい』気質だとか。
考えられるそれらしい理由はいくらでも思い付くが、それはもうどうでもいい。
ただ『言いくるめられる』と思われたことに、言いようのない怒りが滾っていた。
ローテーブルに置かれた婚約解消の書類。
そこには両家当主とクロードのサインが既に入っている。空欄はアリシアの部分だけ。
それを埋めるようにサインを書くと、アリシアは書類を手にして扉へと歩き出す。
「アリシア……」
「クロードさん、今までありがとう」
そう言って部屋を出た後で、取り残されたクロードがどんな表情をしていたか、アリシアに確かめる気はない。
どんな表情であれ、もう信用できない……する気もないのだから。
「馬車を。 神殿に行くわ」
「はっ」
アリシアは書類を父に渡しには行かず、神殿に出しに行くことにした。
衝動的な怒りの感情は『沸騰する』などと言うし、熱いものだと思っていたのに、アリシアのそれは凍りつくように冷たかった。
怒りを感じるごとに、酷く冷たいものが氷柱のように刺さり心に穴を開けていく。
今までアリシアは、決して蔑ろにされていたわけではない。
皆、アリシアにも優しかった。
心配し気遣ってくれていた。
感謝し労ってくれていた。
──表向きは。
沢山の優しい言葉に本当に癒されていたか。
無理を迫る為の圧力だと感じたことはなかったか。
誘導する意図や隠れた保身に気付きはしなかったか。
それらに目を伏せ、考えないようにしてはいなかったか。
(愛されて、ない)
ただ利用されていただけ。
(いいえ……そんなことはないわ)
実際、人の心はそんなに単純でもない。
ただアリシアの今の否定は、そういった冷静な分析や客観性などからではなく、ただの希望であり、それでいて疑いに満ちたもの。
潔くクロードを切り捨てたように見えた彼女の言動は、それこそ衝動的な怒りの感情から。
まだ情はある。
家族にもクロードにも。
皆が優しかったことに裏があるとして、それに救われた時も少なからずあった。
今まで学んだこと、してきたことへの未練や責任感もある。
もう、なにをどうしていいか、アリシアにはわからない──だから投げ槍に終わりにすることにしたのだ。
そうしなければならなかった。
たとえそれが、癇癪を起こした子供が大切にしていた物を投げて、ただ壊してしまうような行為だったとしても。
ぐちゃぐちゃな気持ちの中で、机に残したやりかけの帳簿やまだ封を開いていない手紙の内容が時折妙に気になり、煩わしい羽虫のように頭を掠める。
「お嬢様、着きました」
「ありがとう。 もう帰っていいわ」
「え? ですが」
「少し寄るところがあるの。 大丈夫、近くだし帰りはそこから馬車を出して貰うから」
「そうですか……」
嘘だった。
なにも予定はなく、どうするかも考えていない。
着の身着のままで出てきたので、金も持っていない。
踏み出した靴の先が削れて小さく捲れていることに気付き、それがなんだか酷く気恥しく、惨めに感じた。
「───正しく受理致しました」
「あの、」
「はい」
「少し……祈りを捧げても?」
「ええ是非、礼拝堂はあちらに。 お嬢様、神は何者にも平等です。 真摯に祈りを捧げれば、必ず貴女様の前にも道をお示しになるでしょう」
「……ありがとうございます」
もうすぐ礼拝堂を閉める時間にも関わらず、神官は丁寧にそう言う。
だが当然ながら、神は特になにも示してくれない。
意味のない、かたちだけの祈りを捧げた後。
アリシアはふらりと神殿から出て行った。
(あれはアリシアじゃないか……)
それを追ったレオンは最初、彼女がアリシアだとは思っていなかった。
女性を追ったのはそれが職務だったから。先程アリシアを対応してくれた神官が、受け取った書類が婚約解消の届けであることや、その様子から『ワケあり』と判断し、わざと長く祈るように誘導した後『自死の危険があるかもしれない』と聖騎士であるレオンに報告していた為だ。
(──『婚約解消』!? 今更そんな馬鹿な……!)
成人年齢である18になったら、結婚をすると聞いていた。
ただ、妹の我儘でデビュタントとしてのお披露目夜会をしてからになってしまった、と。
(自死の危険性──)
神官の言葉を思い出し、レオンは息を飲んだ。




