クロードの仮初の婚約②
どうにかなる──そう思っていたクロードだが。
彼は3つの重大な判断ミスを犯した。
1つは、予めアリシアに事の次第と自身の考えを話しておかなかったこと。
そして2つ目は、伯爵の動きが予想外に早く、なにもできなかったことだ。
クロードが手筈を整えるより先に伯爵は、婚約者変更について子爵からの承諾を得ていた。
しかも、父から彼に宛てられた手紙には忠告がなされていたのだ。
『立場が大事なら、伯爵様に従え』と。
「……!」
己の甘さにクロードは手紙を握り潰す。
夫人はともかく、伯爵の婚約者変更の目的は『アリシアとクロードを引き離すこと』でもあったようだ。
アリシアに執務を任せたことも含め、クロードは上手くやり過ぎたのだ。
婚約者変更は『まだ立場を譲る気はない』という伯爵の実質的な意思表示でもある。
──伯爵を舐めていた。
この予想していなかった警告に、クロードは大いに狼狽し、疑心暗鬼に陥った。
(新しい事業計画までは気付いていないようだが……どこまでバレている?)
そして見誤った。
実のところ、伯爵にそんな意図などない。
夫妻の年齢もまだ若いだけに『主な仕事をふたりに任せ、王都の華やかさを楽しむ今の生活が惜しい』と考えただけだった。
しかし今まで大きな失敗や予測が外れたことがなかったクロードは、動揺と保身からアリシアとの婚約解消の書類にサインをしてしまった。
これが3つ目のミスである。
この早すぎる展開に、クロードはまだ考えあぐねたまま。
アリシアに決定事項としてこの報告がなされたのは、その日の昼下がり。
これが3つの判断ミスを、より致命的なモノにした。
アリシアに自分の言葉が響いていないようであることはわかった。
当然だ。急な出来事に加え、目の前に自分のサインの入った婚約解消の書類があるのだから。
しかし疑心暗鬼に駆られていたクロードは伯爵の耳に入るのを気にし、この場でアリシアに全てを打ち明けることはできずにいた。
「私も抵抗はしたんだが、まだ婿ですらない自分に決定権はない」
「……」
そして悩みながら取ったのは、保身という選択。
「頼むアリシア、私が婿として落ち着くまででいい……傍で支えてくれないか。 私にも伯爵家にも、君が必要なんだ。 酷なことを強いているのはわかっている……」
それはアリシアの能力を評価し労いながら愛を伝えつつも、自分にとっての最悪の事態に備えること。
セリーナと結婚するつもりはないが、梯子を外されるのは困る。一旦は受け入れたように見せ掛ける必要があった。
だがそれでアリシアに逃げられることも困る──クロードはそっと立ち上がり、アリシアの横に浅く腰を掛け、手を握った。
「本当は他の誰かと結婚なんてしたくないし、して欲しくない」
「……」
アリシアの結婚を延ばすには、彼女自身の意思が重要だ。
彼女を継嗣として見ていない伯爵だが、アリシアのショックを受けている様子に動揺はしていた。
それだけに、結婚の無理強いはできないに違いない……少なくとも当面の間は。
わかりやすい美貌を持った母親似のセリーナとは違い、どちらかというと父親似のアリシアだが。垢抜けないだけだった伯爵と同様、磨けば簡単に光るのはわかっている。
そのこともあり、今領地に戻すワケにはいかなかった。
伯爵には執務から切り離せないことを理由に、説得すればいい。
愛されている自信はある。
そのために努力を重ねてきたのだから。
クロードはアリシアを軽んじたことはない。
皆に優しく紳士的に振舞ってはいたが、必ずアリシアを優先した。
アリシアのいいところ讃え、努力は褒め、我慢は労ってきた。
子爵家からアリシアのために宛てがわれていた金は、水面下で動く資金を増やすために投資に当てたが成功している。利益はしっかり還元し、贈り物もそれなりにしている。
幸いあまり外に出ないアリシアへのプレゼントは高価にしなくて済んだがそのぶん頻繁に渡したし、特別な日には相応の物を贈っていた。
ふたりきりの時は惜しみなく愛も囁いた。
『大切にしている』というアピールも含め貞節は守っていたが、口付けは交わしている。
その度恥ずかしそうに頬を染め、可愛らしくはにかむアリシアの様子から見ても、愛されている。演技ではない。
(あまり直接的なことは言えないが、伝わるはずだ)
──扉は閉めてある。
それでもあたりの様子を気にしながら、クロードはアリシアの手を握った自分の手に少し力を入れ、そっと囁く。
「アリシア、私の心は今も──」
「離して、クロード」
しかしクロードの予想に反し、アリシアは手を振り払いながら立ち上がり、彼から距離を取った。
「貴方、私を愛人にする気なの?」
「……そんな、そうじゃない……ただ……」
「貴方はセリーナを選んだのでしょう」
「それも違う、私が選んだのは伯爵家の未来だ」
クロードは今まで彼女から向けられたことのない冷たい瞳と、静かだが怒りに満ちた声に失敗を悟った。
婚約解消の書類にサインを書くと、書類を手にして扉へと歩き出す。
「アリシア……」
「クロードさん、今までありがとう」
そう言って部屋を出ていくアリシアを、クロードはソファに腰掛けたまま呆然と見詰める。
暫くそうしていたが、溜息を漏らしながらソファだらしなく身体を埋め、小さく悪態を吐いた。
今追い掛けることはできない。
(──誤解は後で解けばいい。 大丈夫だ、アリシアには私以外いない)
理想的な妻になるであろうアリシアの周囲に、充分気を使っていたクロードは知っていた。
まだ社交界デビューをしておらず、忙しさであまり外出できないアリシアの人間関係が薄いことを。
婚約解消の書類にサインしてしまったのは失敗だったが、部屋を出たアリシアの行く先は伯爵の執務室だと思っていた。
それに仮に手続きが行われても、それは所詮『婚約解消』に過ぎない。
(やることは沢山ある)
自らの失敗に対して多少の反省はしたものの、それが取り返しのつかないことになろうとは──この時のクロードは、まるで予想していなかった。




